7 / 31

〈第1部〉第6話

授業が始まる前と終わった後の僅かな時間だけど、相沢と過ごす時間は俺の中でなんとなく特別なものになっていた。相沢から話しかけてくることはないけれど、俺の問いかけには何かしら答えてくれるようにはなっていて、俺としてはかなり進歩したと思う。 木曜日の1限も相沢と選択科目が被っていて、俺はいつもの席につく。と、なんとなく違和感。‥ああそうだ、いつもは相沢のほうが先に講堂に来ているのに、今日は隣にいないからだ。1限っつーことは寝坊でもしたのか?‥いや、相沢は寝坊とかしなさそうだし‥何かあったのか? 講義の準備をしながら、俺はいつの間にか相沢の遅刻理由についての妄想を悶々と繰り広げていた。 「あ、おはよ」 「‥はよ」 チャイムが鳴って少ししてから相沢がやってきて、お互い声のトーンを落として挨拶を交わす。講義の準備をしている相沢の横から、俺はトーンを落としたまま自然に話しかける。‥そう、ごく自然に。   「朝から大変だったな。もうひと通り終わったのか?いやー、犯人もツイてなかったよなぁ。まさか相沢が相手とか‥」 「は?何言ってんだ、お前」 「え‥‥あ!悪い、こっちの話」 「??」 相沢が疑問に思うのも無理はない。これは“大学へ来る途中、偶然出くわしたひったくり犯を自力で捕まえてその後の処理で時間がかかっていた”‥という俺の妄想の話だ。気がつくとこんな風に勝手に物語を作っていることがある。妄想するのは自由だが、口に出したら相当イタい奴だよな。気をつけないと。 「‥で、なんで遅刻?」 「寝坊」 「あ、そうなんだ」 相沢も寝坊するのかと、ちょっと安心した。 木曜の1限の授業はとにかくしんどい。前日0時までバイトを入れていることが多い俺にとって1限の講義はただでさえ辛いのだが、この教授の心地よい低音ボイスが眠気を誘い、俺は毎回睡魔との戦いを強いられている。今日も時折意識を飛ばしつつ、必死に教授の話に食らいついていた。 「中岡」 「んー‥‥んん?!」 本日二度目の違和感を感じて思考の鈍った頭で必死にその理由を考えると、たどり着いた答えに心底驚いて、俺の眠気は一瞬で吹っ飛ぶ。 初めてだ‥自己紹介してからも相変わらず“アンタ”とか“お前”呼びだった相沢に、初めて苗字で呼ばれた。 「え、あ、ちょっ‥相さ」 「これ、前言ってたノート。見終わったら早く返せよ。あと涎、拭け」 「よだ‥わっ、マジで?!」 どうやら口が半開きになっていたらしく、慌てて口元を拭って改めて相沢を見る。相変わらず顎に手を当てて真っ直ぐ前を向いたまま、ノートだけをこちらに差し出していた。 「サンキューな!」 相沢からノートを受け取りすっかり目の覚めた俺は、久々にこの教授の講義を最後まで聞くことができた。 バイトから帰ってきて風呂を済ませると一気に眠気が襲ってきて、即ベッドに倒れ込むのが日課となっているのだが、今日はそれほど眠くない。そういえば‥と、俺は昼間相沢に借りたノートのことを思い出して、鞄から二冊のキャンパスノートを取り出す。表紙には科目名と、ご丁寧に担当教授の名前まで書かれているのがなんだかすごく相沢っぽいなと、ちょっと笑ってしまった。 貸してくれたのは医療栄養学と代謝生化学のノート。俺が以前苦手だと言ったのを覚えてくれていたらしい。ペラペラとページをめくるとまず字の綺麗さに驚き、そしてやっぱり、すごく分かりやすくまとまっているなと感心する。自分も決して適当に講義を受けている訳ではないけれど‥ま、まあ時々寝ることもあるけど‥相沢は本当に真面目なんだなと思う。 ふと、ノートを差し出した相沢の横顔が脳裏を過る。今まで何の気なしに話しかけていたけど、よくよく思い返すと‥マジで綺麗な顔してるよなぁ。男からナンパされるのもわかるわ。だけどアイツ、意外に声低いしあの口調だし、喋ったら一発で男ってバレるけど。 そんなことをうだうだと考えていると、不意に今朝の相沢とのやり取りを思い出した。 『中岡』 苗字を呼ばれた、ただそれだけのこと。 ‥なのに何だろう、そんな単純なことが嬉しくてたまらない。やっと心を開いてくれたという安心感なのだろうけれど、何だかものすごくこそばゆい。 言いようのない不思議な感情に少し戸惑いながら、俺はノートを閉じてベッドに倒れ込んだ。 ✱ 「ノートありがとな」 「‥別に」 週明けの月曜日。借りていたノートを手渡すと、相沢はそれだけ言ってノートを鞄にしまった。 「すげー参考になったわ」 「そう」 「また貸してくれる?」 「調子乗んなよ」 「あはは、キビシー」 最近相沢の冷ややかなツッコミにもだいぶ慣れた。むしろそれがないと物足りないと感じるくらい、俺の中では日常の一部と化している。‥って、俺はMか! 「相沢って勉強できるだろ」 「な、なんだよ急に」 何気なく振った会話に、相沢は少しだけ表情を変えて俺を見上げてきた。珍しいこともあるもんだと、俺は会話を続ける。 「いや、字のキレイな奴って頭いい奴多かったからさ。俺の経験上」 「‥‥まあ勉強は‥嫌いでは、ないかも」 「わ!それ超できるやつの発言ー!」 「なんだよそれ、意味わかんねえ」 俺のオーバーリアクションがツボに入ったのか、相沢はその言葉とは裏腹に少しだけ眉を下げて小さく笑った。初めて見る相沢の柔らかい表情がなんだか嬉しくて、俺もつられて笑顔になる。 ‥あれ、まただ。またあのときと同じ、こそばゆい感覚。 「俺のなんか見なくたって、十分ノート取れてんのに」 「‥え?なんか言った?」 「‥別に。何でもねえ」 ボーッとしていたら相沢の言葉を聴き逃してしまった。慌てて聞き直そうとしたタイミングで教授が出欠確認を始めたから、結局俺はその言葉が何だったのか知ることはできなかった。

ともだちにシェアしよう!