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〈第2部〉第10話

「‥‥く‥‥、‥っ‥‥」 「‥な、‥から‥、‥て」 人の話し声が聞こえて、浅い眠りから覚めてしまった。普段は一度寝たら途中で起きることは滅多にないのだけれど、中岡のアパートに泊まるときはどうやらまだ緊張しているようで、夜中に目が覚めることが度々あった。 枕元に置いたスマホを手にとって時刻を見ると、深夜2時をまわったところ。こんな時間に誰だよ‥そう思ったのも束の間、聞き覚えのある声にハッとした。壁越しに聞こえてくるのは一ノ瀬と譜久田の話し声だ。 別に聞き耳を立ててる訳じゃない、壁が薄くて嫌でも聞こえてくるんだから。‥そんな言い訳を自分自身にして、俺は好奇心からなんとなく壁の向こうの会話に耳を傾ける。週末から泊まりにきていた一ノ瀬も明後日には帰るって話をしていたから、こんな時間まで起きているなんて、きっと積もる話でもあるんだろう。そんな軽い気持ちだったんだけど。 「修く‥そこ、‥きもちい‥っ」 !? 「ナナはここ、本当に弱いよね」 「ん‥っ、あっ‥あ」 !!!! 思わず声が出そうになるのを、手で塞いで必死に押し殺した。‥それは紛れもない、性交中の声だった。壁一枚隔てた向こうでセックスをしている。しかもついさっきまで一緒にいた、一ノ瀬と譜久田が。 そりゃ付き合ってるんだし、そういうことをするのは当然なんだろうけど‥普段の二人とは明らかに違う熱っぽい甘美な声に気が動転して、俺は目を見開いたまま固まってしまった。 「は‥ぁっ‥しゅ、くん‥もう‥‥早く‥っ」 「そんなエッチな顔でお願いされたら断れないじゃん‥」 「あっ‥‥あぁ、んっ‥は、あぁ‥っ」 薄い壁の向こうから聞こえてくるベッドの軋む音、徐々に激しさを増していく二人の息遣い。リアルすぎるそれは、今までそういう経験をしたことがない俺にはあまりにも刺激が強すぎた。 こんなの‥聞きたくない。 現実から目をそらそうと思ってもどういう訳か体はピクリとも動かなくて、結局俺は最後まで耳を塞ぐことができなかった。 どんなAVよりも生々しくて官能的なその声が、静まり返ったあともしばらく俺の頭の中で繰り返し再生されていた。 * 「‥‥‥」 「なっちゃん、ご飯美味しくない?」 「‥え?」 翌日、中岡が準備してくれた朝食を食べているとそう声をかけられてハッとする。手元の食事は全く減っていなかった。 「いや、すごい顔で固まってたから‥平気?」 「あ、悪い‥ただの寝不足‥」 ため息混じりに呟いて、半熟のスクランブルエッグを口に運ぶ。結局あのあと、無駄に熱を帯びてしまった体を鎮めるのに苦戦して、俺はほとんど眠ることができなかった。 「ホントに大丈夫?今日バイト休ませてもらったほうがいいんじゃない?」 「平気平気。コーヒー飲めばこんなの‥」 「あ!なっちゃん待って、それ淹れた」 「あっつ!!」 「て‥‥って、遅かったかぁ‥」 まだボーッとする頭を小さく振りながら、俺は駅へと向かう。相当ひどい顔をしていたんだろう。中岡は「家まで送ろうか?」と言ってくれたけど、迷惑はかけたくないし何より早く一人になりたかったから、無理やり部屋の前で別れたんだけど‥ 「あ、なっちゃんだ!おはよー!」 「‥っ!」 前から元気よく手を振って駆け寄ってくる一ノ瀬の姿を見て、やっぱり送ってもらえば良かったと早々に後悔した。 「じゃーん!今ね、朝ごはん買いにコンビニ行ってきたんだー!」 「相沢はもうバイト行くの?」 せっかく声をかけてくれているのに、二人を見るとどうしても昨晩のことが脳裏を過ぎってしまい、後ろめたさと羞恥心が邪魔をしてうまく表情が作れない。 「なっちゃん顔真っ赤だよ?!具合悪‥」 「お‥俺、急いでるから‥っ」 「えっ‥相沢っ?!」 乱暴に吐き捨てて、俺は逃げるようにその場を立ち去った。 きっとかなり不審に思っただろうな。‥っていうか、一ノ瀬との別れがこれって流石にひどくないか?あとになって色々なことが頭を過るが、寝不足の頭では正常に処理することができなくて、駅に着いたときには酷いめまいで立っているのもやっとの状態だった。 ‥その後どうやって家に帰ってきたか、正直全然覚えていない。バイトに行く前に少しだけ仮眠しようと布団を引っ張り出すが、敷くまでの気力は無くて、山積みのまま顔から倒れ込んだ。 静かな部屋では嫌でも昨夜のことを思いだしてしまう。 「あんな声、出んのかよ‥」 一ノ瀬の甘ったるい喘ぎが耳を掠め、途端に心臓が速くなる。あの時は単にエロいって思ってただけだけど、今はなんか違う。 俺も中岡とセックスをしたら、あんな風に変わってしまうのだろうか‥そう思うと少しだけ怖くなった。 中岡とはまだキス以上のことはできていない。セックスに興味がないとか嫌だとか、そういう訳ではない。溜まったら一人でもするし、時々AVだって見る。何よりも中岡が好きだから、その気持ちに応えたいし、俺だってしたいって思ってる。それは事実だ。‥ただ、緊張と羞恥心から先日は行為を拒んでしまったんだけど。 それに加えて、今回のことでそんな恐怖心まで芽生えてしまったから、正直俺は、中岡を受け入れられる自信がない。 昔から俺は、女に間違われたり女みたいに扱われるのが大嫌いだった。だからあんな‥女みたいな声を出すのは絶対に嫌だ。そんなことしたら、きっと自分自身が許せなくなる。 複雑に思考が入り混じって、頭も感情ももうパンク寸前だった。 ふと時計に目をやると、帰ってきてからもうだいぶ時間が経っていた。そろそろ家を出ないとバイトに遅刻してしまう。‥しかしどうにも体が重い。 念のため熱を測ってみるとあり得ない数字を叩き出していて、俺はこの日初めてバイトを休んだ。

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