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〈第2部〉第11話

夏休みが終わり、後期の授業が始まって数日が経った。休みボケしていた頭もだいぶ通常運転に戻り、現在苦手な公衆栄養学の講義に必死に食らいついているところなのだが。 「え、どういうこと?意味わかんねー」 俺の横でブツブツ言いながらノートをとっている中岡も、この講義が相当苦手なようだ。 大学生活が再び始まると、中岡と会う頻度こそ増えるが、一緒に過ごす時間は当然減る。夏休みの一ヶ月半、相当恵まれた環境にあったんだなと改めて思った。 そして最近、中岡との関係が少しだけ気まずい。‥っていっても、俺が一方的に意識してるだけなんだけど。昨日も大学帰りに中岡の家に寄ったとき、キスしたあとの雰囲気に耐えられず、思いっきり中岡を突き飛ばしてしまった。 アパートでのあの一件以来、俺は中岡と“そういう雰囲気”になっても、どうしても一歩踏み出せなかった。 「なっちゃん、ここなんだけどさ」 「‥‥は、え?なに?!」 「えーと、この内容難しくて‥分かる?」 「あ、ちょっと‥分かんねえ」 「そっか。じゃあ別の奴に聞いてみるね!」 「おう。‥」 いつの間にか講義が終わっていたが、チャイムの音にすら気づかないほど注意力散漫だ。 結局今日もまともに話ができないまま中岡と別れ、俺は重い足取りで講堂をあとにした。 “キスから先に進めない” それが今の俺の悩みだ。 * 「相沢ー」 「‥‥‥」 「おーい、相沢!」 「っ、はい?!」 「平気?もしかして、また体調よくない?」 雑誌の入れ替え作業中またボーッと突っ立ってしまっていたようで、店長の呼びかけでふと現実に引き戻される。これから夜のピークが始まるっていうのに‥どんだけ引きずってんだよ。 「大丈夫です、スンマセン‥」 「そっか‥‥ふふっ。そしたらソレ、早く棚に戻しちゃったほうがいいよ」 「え?‥うわっ!」 手に持ったままだったエロ雑誌を、俺は慌てて棚に放り込んだ。 あの日‥店長にバイトを欠勤したいと連絡を入れたとき、びっくりするくらい心配された。今まで多少体調が悪くてもシフトに穴を開けることはなかったから、よっぽどだと思われたんだろう。理由が理由だったからものすごく申し訳なくて、翌日からは再び出勤したんだけど‥結局あれから度々迷惑をかけてしまっている。そんな自分が情けなくて、無意識にため息が溢れた。 「‥何か悩み事?」 「え?」 「あ、図星だ。んー‥恋の悩み、かな?」 「ちっ、違います‥!」 「ははっ、相沢って意外に分かりやすいね」 ケラケラ笑う店長に言い返したいのはやまやまだが、当たっているから反論の余地がない。 「‥あ、分かった!彼氏と喧嘩したとか!」 「別に‥‥えっ?!か、彼氏って‥なんで‥」 「やっぱりそうかー!‥あ!あの子でしょ?たまに店に来る、口元にホクロのあるイケメンくん!」 そこまで言い当てられてしまったらもはやぐうの音も出ない。別に隠すこともないと思って、俺は素直に頷いた。 「友利から何か聞いたんですか?」 「ううん。なんとなくそうかなって。だってあの子が来たときの相沢、すごく嬉しそうだから」 一体どんな顔してんだよ、俺‥! 「べっ、別に嬉しいとか‥」 「はいはい照れない照れない」 店長に煽られて余計顔が熱くなった。‥って、当たり前のように話してるけど、相手は同性だぞ?ヘンに思ったりはしないのだろうか。今更ながらそんなことを不思議に思った。 「‥店長って寛容ですよね」 「そう、かな?」 「友利のときもそうだったけど、男同士でも全然驚かないっていうか‥」 「んー‥俺もそうだからかな?」 ‥‥え?今ものすごく大事なことサラッと言わなかったか? 「あははっ、相沢固まってるよー」 「‥‥は、初耳なんですけど」 「うん、初めて言ったもん」 驚いたけど‥でも、今まで引っかかっていたものが全て腑に落ちてなんだかホッとした。 「こう見えても恋愛経験豊富なんだよ、俺」 「‥‥‥‥」 「ほ、ホントだよ?!今は忙しくてたまたま相手いないけど‥ホントだからね!!」 「‥‥はあ」 「全然信じてないよね?!その返事!」 「あ、いらっしゃいませー」 タイミングよく客が来て、店長をスルーしてレジカウンターへと向かう。時々ものすごく子供っぽいリアクションをするから、ひと回り近く年上ということを忘れてしまう。ちょっと天然で、誰に対しても気を配れる優しい性格は意外にモテるのかもしれない‥なんて思ったり。 徐々に客足が増えて、ニつあるレジはフル稼働だ。棚からタバコを取るついでに「いつでも相談乗るよ」と改めて店長に声をかけられ、それがすごく心強かった。 「まぁ‥考えときます」 だけど、そう返事をした俺の表情は相変わらず冴えないままだ。 “恋人とセックスしたいのにできない” ‥こんなこと、誰にも相談できるわけないじゃないか。 * 数日後、大学の帰りに中岡の家に寄った。課題のレポートを少し進めて、一緒に夕飯を食って。お互いバイトのない金曜の夜だから、当然「今日泊まってく?」と聞かれ、一瞬躊躇ったが無言で頷いた。 後片付けを済ませ、テレビから流れてくるバラエティ番組をボーッと眺めていると、隣に座っていた中岡に肩を抱かれて顔を向ける。普段は冗談混じりに抱きついてくるくせに、真っ赤になって緊張してんのバレバレで‥そんな顔までかっこいいとか、反則だろ。 肩を引き寄せられるとすぐに唇が触れた。以前に比べて緊張は減ったものの、相変わらず手とかどうしたらいいか分からなくて、俺は固まったまま中岡のキスを受け入れる。 「‥っ」 突然頬を撫でられて咄嗟に体を引いた。 「前も思ったんだけど‥なっちゃんのほっぺたって、めちゃめちゃ柔らかいよね」 「え‥は?何言って‥‥っ」 いつの間にか両手で頬を包まれてひたすら触られ続け、そういえば前にもこんなことがあったなと思いだした。時々指が耳を掠めると、ピクリと体が反応してしまう。 「ちょっ‥やめ‥」 「すごい気持ちいい‥」 徐々に熱っぽさを帯びていく中岡の表情は正直苦手だ。すごくエロくてドキドキして、少しでも気を抜いたらその雰囲気に飲まれてしまいそうで‥‥やっぱり駄目だ‥!! 「―ーーっ!!」 「いっ‥てぇぇえ!!」 気がつくと俺は、中岡の両腕に思いっきり爪を立てていた。中岡の痛烈な叫びにハッとして慌てて手を離したけれど、腕にはくっきり爪の跡が残っていて所々血も滲んでいた。 「あ‥‥わ、悪い‥‥」 「だ、大丈夫大丈夫っ!」 そうは言ってくれたけれど、引きつった笑顔を見たらいたたまれない。 「‥‥今日、やっぱ帰るわ」 「なっちゃん‥」 リュックを引っ掴んで、俺は中岡の部屋をあとにした。9月も下旬に差しかかり、夜になると半袖一枚では肌寒く小さく身震いしてしまう。中岡は止めることも追いかけてくることもなくて、それで良かったと思う反面、少し寂しくも感じて歯噛みした。 ああ、もう、末期だ‥。 足を止めて大きく息を吐くと、俺は明かりの少ない住宅地でひとり立ち尽くした。

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