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第8話 異変

 帰りの電車は混んでいた。平日の夜ということもあって、帰宅ラッシュと被ってしまったらしい。  満員電車の中、貴良と向かい合って立つ。普段よりも近い距離に、悠心は仕事を頑張っている社会人たちに生まれて初めて心から感謝を捧げた。 「あそこのカーブでの加速は考えてなかったわ。てかさ……」  悠心は今日の感想をぺらぺらと話しているが、貴良の返事はいつも以上にそっけなく、どこか上の空のようにも感じる。 「次は……」 「矢沢」  それまでほとんど黙って話を聞いていた貴良が、はっきりと悠心のことを呼んだ。見上げると、少し苦しそうな顔がある。 「お前……なんで普段から抑制剤持ってないんだ」  那智たちと別れたあと、すぐに貴良から抑制剤をもらって飲んだ。 「いや、ヒート近くなると持ってんだけど。俺、周期ぴったりにくる体質だからさ」  首輪に手を当てながらへらりと笑うと、切れ長の目がすがめられる。 「危険だ。これからはヒートが近くなくても、必ず携帯しろ」 「うん」  貴良に言われたら、そうする選択肢しかない。 「でも……なんでこんな早くきたんだろ」  予定では二週間も先のはずだ。おかしい。こんなことは今までになかったのに。  ヒートはおよそ三ヶ月周期。個人差はあるが、悠心は毎回ほとんど予定日ぴったりにくる。 「……あいつは、なぜお前の体調の変化に気づいたんだ」  貴良の疑問に、ぴくりと肩が跳ねた。 「中学からの付き合いだからかな。あいつ、昔からヒート近くになるとすぐ気づくんだよ」  言葉を選びながらそう言うと、貴良の顔がますます強張った。 「昔から?」 「う、うん。俺より先に気づくこともあるし。便利だろ?」 「……」  (な、なんで無言……? なんか、怒ってる……?)  悠心は何か地雷を踏んでしまっただろうかと内心冷や汗をかいた。 「て、てかさ。貴良もアルファなんだよな? 俺、貴良のフェロモンわかんねえんだけど……なんでだろ」  話題を変えようとして、以前からなにげなく疑問に思っていたことを訊いてみる。    アルファは普段からフェロモンが出ているはずだ。それはベータには分からないが、同じアルファや、オメガには嗅ぎ取れる。そして、相性の良いオメガほどそのフェロモンの香りを強く感じ取り、心地いいものに受け取る。  それなのに、貴良からはフェロモンの匂いを感じたことはない。  相性が悪いのかも……と密かにずっと落ち込んでいたのだが、それにしてもここまで感じ取れないのはどういうことなのか。 「俺は……昔から、特別強い薬を服用している。オメガとのフェロモン作用を完全に阻害する薬だ」 「え、何それ。そんなんあんの?」  そんな便利な薬があるのか、と驚くと、ため息が落ちてきた。 「俺のは特別製だ。市場には出回ってない」 「え、すご」  市場に出回っていないそんなすごい薬を、なんで貴良が持っているんだろう。家も厳しかったと言うし、もしかしたらけっこうセレブなのかもしれない。 「じゃあ、マジでフェロモンでないんだ?」 「そうだな」  壊滅的に相性が悪すぎる可能性を考えていた悠心は、貴良のその言葉にほっとした。  じっと貴良を見つめる。男らしくシャープな輪郭。喉仏。  相変わらずどこから見ても隙がなく格好いい。 「……貴良のフェロモン、嗅いでみたかったな」  ぽつりとこぼすと、悠心を見下ろした貴良が目をわずかに見開いた。そして、苦しそうな表情になる。 「わっ」  その時、ガタンと車内が揺れた。体勢を崩して、思わず貴良の胸に寄りかかるような形になってしまう。ピンクくまが二人の間でむぎゅっと押しつぶされた。  貴良が悠心の肩を掴んで支えてくれる。 「ご、ごめん」 「……いや、いい」  慌てて体を離そうとする。 「……? 貴良?」  離そうとするのだが、なぜか離れられない。肩を掴んでいる貴良の手が離れないせいだ。 「もう、いいよ?」 「あ、ああ……」  悠心が言うと、そこでやっと貴良は手を離した。貴良に肩を抱いてもらったという喜びを脳内で叫び散らかしていると、ふと顔を上げてぎょっとした。  貴良の顔色が明らかに悪い。額にはうっすらと汗が浮いている。呼吸も少し浅く、手すりを掴んでいる手は不自然に力が入っている。 「た、貴良? 具合悪いか?」 「……少し」  そう言う形のいい唇は血の気が失せているようにも見える。 「ちょ、絶対やべえって。次で降りよう」  慌ててそう言って、悠心は電車のドアが開いた瞬間、貴良の腕を取って引きずるように車内からホームへと出た。  貴良はふらふらとホームのベンチに座り、うなだれながら浅い呼吸をしている。 「駅員呼ぶか? あ、水買ってくる!」  とりあえず何かできることはないかとその場を離れようとすると、腕を掴まれた。 「……行くな」 「え? で、でも……」 「ここにいろ」  悠心はどうすべきか逡巡した後に、「……わかった」と貴良の隣に腰掛けた。 「……大丈夫か?」  背中をさすってやると、ぶるりと貴良が震える。 「……触るな」 「えっ? あ、ごめん」  手を払われて、慌てて謝ると、貴良がもどかしそうにため息を吐いた。 「いや……悪い。矢沢は何も悪くない」 「貴良……」  ここにいろ、という割には、触るな、と言う。何か貴良自身も葛藤を抱えているようで、眉根が苦しそうに寄っている。 「ど、どうしたい……?」  おずおずと顔を覗き込む。救急車を呼んだ方が良いか。それとも貴良の実家に連絡を入れた方が良いか。 「……少し、そばにいてくれ」  そう答えた貴良の目と目が合う。普段は理知的に澄んだ目が、今は熱を帯びてどこか不安定に見えた。 「わかっ……」  わかった。ここにいる。  そう言おうとした時。  どくん、と体が脈打った。 「え……?」  次の瞬間、体がじわじわと急激に熱くなってくる。  覚えのある感覚。  まさか。 「やべ……っ!」  ――ヒートだ。  

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