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第9話 距離
◽︎side貴良◾︎
隣に座っていた悠心が、突然苦しそうに体を丸めた。
五感が麻痺して、目の前がぐらぐらと揺れているような感覚が、急速にはっきりとしてくる。
「矢沢……? どうした?」
「なんで……薬、飲んだのに……」
苦しそうにそう絞り出して言う悠心は荒い呼吸を繰り返している。首輪にかかったピンクの髪は汗でしっとりと湿り、のぞく肌はほてったようにほんのりと赤く染まっている。
そして、ふと気がつく。
ホームにいる何人かの男が、悠心をじっと見ている。
整った容姿。恵まれた体躯。そして、悠心を見る野生的なぎらついた目。
――アルファたちだ。
アルファの男たちは、全員悠心に心を奪われたように熱のこもった目で見ている。
「え……? なんか、甘い匂いしない……?」
誰かのつぶやき声が聞こえた。貴良には感じられないその匂いが、ホームに漂い始めているらしい。ヒートの兆候だ。
「ヒート……?」
「え、マジ?」
「誰?」
「どうする? 駅員呼ぶ?」
ホームのざわめきが大きくなる。
――矢沢を、守らなければ。
そう思った瞬間、またガツンとひどい頭痛がした。吐き気も込み上げてくる。
それでも体はとっさに動いた。悠心の腕を掴み、肩に回させて立ち上がらせる。
悠心を引きずるようにして連れていくと、すれ違うアルファたちが瞳孔の開いた目で悠心を見て、それから貴良を忌々しそうに睨みつける。
思わず貴良も犬歯を見せつけるように睨み返す。オメガのうなじを噛むアルファ特有の、鋭い犬歯。
「カップル?」
「かな……通報しなくて良いのかな」
貴良たちを見てひそひそと声が上がる。その時、悠心が呻いた。
「貴、良……ごめん……」
「……気にするな」
歯を食いしばりながらそう言う。その時、腕を掴まれた。
「ちょっと君、この子のパートナーかい?」
見ると、ベータの男だった。その目には貴良に向けた不審感が宿っている。
「い、いや……」
「……そうだ」
横から落ちた声にはっとした。見てみると、悠心がヒートで苦しみながらも頷いている。
「……パートナーだ……」
一瞬、思考が止まった。
また頭痛が激しくなる。本格的に歯がかちかちと鳴り始めた。
「本当に?」
「ああ……だから、大丈夫……っ」
頷く悠心に、ベータの男の目からは不審感が消えていった。
「そうか……。なら、早く人の少ないところへ行きなさい」
「……すみません」
貴良はベータの男に一礼をして、なんとか悠心を引きずるようにして歩く。駅構内ですれ違う者たちの視線を浴びながら、貴良は駅から出た。
「たから……たから……」
その間も、悠心はうわごとのように貴良の名前を呼んでいる。その声が聞こえるたびに頭痛を覚えながら、貴良はスマホに手を伸ばした。
『貴良様、どうされましたか』
「加藤 。車を一台……いや、二台用意してくれ。運転手はオメガだ。俺の方はベータを。それから……サンクチュアリの手配を」
『承知しました』
スマホをしまい、貴良はほどなくしてやってきた車の一台に悠心を乗せる。自分も別の車に乗り込み、ドアを閉めると鼻腔の痺れるような感覚が徐々に消え、少しずつ呼吸が楽になってきた。
悠心と隔絶された瞬間、楽になり始める体に違和感を覚える。
(どういうことだ……)
考え込んでも答えは出てこない。まだかすかに痛む頭に眉根を寄せて、貴良は車窓越しに流れていく夜の街をぼんやりと見つめた。
到着したのは、広大な敷地に建つ白い箱のような建物だった。オメガサンクチュアリー・メディカルスウィート。通称サンクチュアリ。貴良の実家である桜井家の提携先、支倉 製薬が運営する完全紹介制のオメガシェルターだ。
政財界の要人や有名人が、予期せぬオメガのヒートを起こした際に駆け込む場所で、マスコミや暴走したアルファから物理的に隔離するため、入り口は地下駐車場からの専用エレベーターのみとなっている。
エントランスに入ると、すぐにコンシェルジュがやってきた。
「あいつは」
「先に奥の保護室へお連れしました」
返答を待たずに貴良は迷いなくモニタールームへと向かった。モニタールームに入り、リモコンを操作すると悠心の様子が映し出された。
悠心はヒートで苦しみながら、しきりに周囲を見回していた。腕の中にはピンクくまがいて、心細そうにそれをぎゅっと抱きしめている。
通話ボタンを押すと、音声が流れ込んでくる。
「たから……どこ……?」
その頼りない声に、ガツンと頭を殴られたような気がした。
さっきまで収まっていたはずの頭痛がまた強くなってくる。
「たから……苦しい……」
そう言って泣きながら体を震わせてベッドに横たわっている悠心の姿に、視界がだんだんと赤く染まっていく。
その急激な体調の変化に戸惑いながら、マイクに向かう。
「矢沢。ここは安全な場所だ。だから、安心して良い。ここからは俺は見ないし聞かない。家にも連絡を——」
「たから……? たから……っ! どこ……? 来てよ……っ」
語りかけるが、悠心には言葉の意味を拾うまでの理性はなくなっているらしい。貴良の名前を切なげに呼び続け、求める姿に歯噛みした。
保護室の隣にモニタールームがある。保護室は完全防音で、フェロモンも遮断される仕組みになっている。だから、アルファとオメガであってもフェロモンに惑わされることがない。
保護室ではヒートの衝動を和らげる特殊空調が効いており、ヒート中でもオメガは比較的楽になるはずだ。
それなのに、悠心は一向に楽になる様子がない。
「おい、本当に空調は効いているのか」
無線でコンシェルジュに繋ぐと、『数値に問題はございません』と返される。
「じゃあなぜ矢沢はあんなに苦しんでいる」
『申し訳ございません。初めてのことでして……医療班にも確認を取っているのですが、原因がわからず……』
コンシェルジュとやりとりしている間にも、悠心は息を荒げて苦しそうにしている。その姿に胸が苦しくなりながら、貴良は無線を切った。
「たからぁ……なんで……来てくれないんだよ……抱いてくれよ……」
そう言って泣いている悠心に、思わずモニタールームと保護室をつなぐ頑丈な気密扉の方を見る。扉の前には開錠ボタンがある。
保護室にも同じボタンがあり、それを互いが押すと施設側が扉の開閉を判断できるようになる。当人たちに充分な合意があると見なされれば、部屋の扉が開くようになっている。
気がついたら貴良はボタンの方に近づいていた。
ボタンに指をかけて——自分は何をやっているのかと我に返る。
ぞっとした。
これまで、理屈に合わないことは全て選択外だった。けれど——考える前に体が動いていた。
悠心のことになると、自分は制御を失ってしまう。
貴良はよろよろと後退り、ソファに座り込んだ。リモコンを手に取り、通話ボタンを押す。
「矢沢……ボックスの中に、強い抑制剤がある。それを飲め」
掠れた声でそう告げると、悠心の顔が悲痛に歪んだ。
「そんなに……俺のこと、抱きたくない?」
小さくか細い声に、とっさに顔を上げる。
「そんなことは……っ」
ない、と言おうとして、はっとして言葉を飲み込む。黙り込むと、また悠心の啜り泣く声が聞こえてくる。
ひどい頭痛に悩まされながら、貴良は気を抜くと開錠ボタンを押そうとする自分を、腕に爪を立てて耐え凌いだ。
やがて、自力で薬を飲めない悠心に、オメガの医療班が保護室に入室して薬を飲ませた。
しばらくして力尽きるように眠った悠心を見て、貴良はようやく、自分の腕を掴む手を緩めた。
ぬるりと生暖かい感触がして、鉄の匂いが鼻をつく。爪は血で汚れていた。
『貴良様。貴良様を診察する医療班の準備ができました』
コンシェルジュの通信に、貴良はひどく掠れた声で答える。
「……矢沢のケアを頼む。俺は、ここを出る」
もしこのまま悠心が目を覚ました時、自分がまだこのモニタールームにいたら、次こそ理性を保てる自信がなかった。
貴良はコンシェルジュに「費用はすべてこちらに請求しろ。矢沢が起きたら、帰宅に必要な金を渡しておいてくれ」」と指示する。
最後に、憔悴した悠心の寝顔をモニター越しに見つめた後、貴良は逃げるようにサンクチュアリを後にした。
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