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第9話 距離

 隣に座っていた悠心が、突然苦しそうに体を丸めた。  五感が麻痺して、目の前がぐらぐらと揺れているような感覚が、急速にはっきりとしてくる。 「矢沢……? どうした?」 「なんで……薬、飲んだのに……」  苦しそうにそう絞り出して言う悠心は荒い呼吸を繰り返している。首輪にかかったピンクの髪は汗でしっとりと湿り、のぞく肌はほてったようにほんのりと赤く染まっている。  そして、ふと気がつく。  ホームにいる何人かの男が、悠心をじっと見ている。  整った容姿。恵まれた体躯。そして、悠心を見る野生的なぎらついた目。  ――アルファたちだ。  アルファの男たちは、全員悠心に心を奪われたように熱のこもった目で見ている。 「え……? なんか、甘い匂いしない……?」  誰かのつぶやき声が聞こえた。貴良には感じられないその匂いが、ホームに漂い始めているらしい。ヒートの兆候だ。 「ヒート……?」 「え、マジ?」 「誰?」 「どうする? 駅員呼ぶ?」  ホームのざわめきが大きくなる。  ――矢沢を、守らなければ。  そう思った瞬間、またガツンとひどい頭痛がした。吐き気も込み上げてくる。  それでも体はとっさに動いた。悠心の腕を掴み、肩に回させて立ち上がらせる。  悠心を引きずるようにして連れていくと、すれ違うアルファたちが瞳孔の開いた目で悠心を見て、それから貴良を忌々しそうに睨みつける。  思わず貴良も犬歯を見せつけるように睨み返す。オメガのうなじを噛むアルファ特有の、鋭い犬歯。 「カップル?」 「かな……通報しなくて良いのかな」  貴良たちを見てひそひそと声が上がる。その時、悠心が呻いた。 「貴、良……ごめん……」 「……気にするな」  歯を食いしばりながらそう言う。その時、腕を掴まれた。 「ちょっと君、この子のパートナーかい?」  見ると、ベータの男だった。その目には貴良に向けた不審感が宿っている。 「い、いや……」 「……そうだ」  横から落ちた声にはっとした。見てみると、悠心がヒートで苦しみながらも頷いている。 「……パートナーだ……」  一瞬、思考が止まった。  また頭痛が激しくなる。本格的に歯がかちかちと鳴り始めた。 「本当に?」 「ああ……だから、大丈夫……っ」  頷く悠心に、ベータの男の目からは不審感が消えていった。 「そうか……。なら、早く人の少ないところへ行きなさい」 「……すみません」  貴良はベータの男に一礼をして、なんとか悠心を引きずるようにして歩く。駅構内ですれ違う者たちの視線を浴びながら、貴良は駅から出た。 「たから……たから……」  その間も、悠心はうわごとのように貴良の名前を呼んでいる。その声が聞こえるたびに頭痛を覚えながら、貴良はどこか人目を気にせず休める場所を探した。  やむを得ず、スマホに手が伸びかけた時、ネオンの看板が目に入った。『休憩』『宿泊』『アルオメ歓迎』の文字。アルオメというのは、アルファとオメガの略称だ。  (休憩だけでも利用できるホテルなのか)    個室の写真も目に入る。大きなベッドがあって、バスルームもある。  ――ここなら休めるかもしれない。  自動扉をくぐると、間接照明のついた広いフロントに大きなモニターとパネルがある。コンシェルジュがいるかと思ったが、無人だった。  頭痛に耐えながら、どこでもいいからと適当にパネルを操作する。悠心は汗をぽたぽたと流しながら、つらそうに浅い呼吸を繰り返している。  カードキーを受け取ってエレベーターに乗り込むと、悠心が甘えるようにもたれかかってくる。また、手足が痺れるような、平衡感覚を失うような倦怠感が訪れた。  部屋に着くなり、悠心をベッドに寝かせて貴良は離れようとする。 「貴良……っ」  しかし、熱に浮かされたような悠心の甘え声と共に腕が伸びてきて、体を引き寄せられる。 「苦しい……っ。助けて……」  はあはあと荒い呼吸を繰り返す悠心のほてった肌には汗が滲んでいる。いつもはいたずらげなアーモンドの目がとろんと緩み、半開きになった口元からは赤い舌がちらりとのぞく。 「……っ」    悠心の顔が近づいてきて、唇が触れるすんでのところで、貴良は悠心の口元を手で抑えた。 「なんで……」  途端に、悠心の潤んだ目に絶望の色が浮かぶ。 「矢沢……っ」    悲痛な顔をする悠心に、思わず手を伸ばしかける。しかし、我に返ってぐっと手を引いた。  黒の首輪が目に入る。貴良は歯噛みした。  ベッドの上にはピンクくまが放り出されている。ヒート中であるというのに、悠心がしっかりと抱いていたものだ。 「……くそっ」    貴良は手を伸ばしてくる悠心にピンクくまを押し付けて、逃げるように急いで部屋を出た。  バタンと後ろ手にドアを閉め、悠心と距離を取るといくぶんか体調不良がましになる。 「貴良ぁ……」  ドア越しに、悠心の苦しげな声が聞こえてくる。ぎり、と奥歯を噛み締めて、とっさにドアを開きたくなるのを、貴良は自らの腕に爪を立てることで制止した。  爪が食い込んだ腕からは赤い血がぷつりとにじむ。つんと鉄の匂いがした。鋭い痛みと、ぬるりと感じる血の生温かさに正気を保つ。  やがて、どのくらいそうしていただろうか。弱々しく貴良を呼ぶ悠心の声がだんだん小さくなって、そして聞こえなくなった。  ふっと、貴良の体も軽くなる感覚がする。  (なぜ……楽になった?)  じわじわとクリアになってくる思考。それと同時に違和感を覚えた。  そっとドアを開いてみると、悠心はピンクくまをぎゅっと抱いて床に崩れたまま、ぐったりとしている。少し躊躇いながら近づいていくと、規則的に胸が動いているのがわかった。どうやら眠ったらしい。  そっと悠心の体に触れると、またずきりとかすかに頭が痛む。  痛みに顔を顰めながらも、悠心を抱えてベッドに下ろしてやる。  悠心はすやすやと寝息を立てている。長いまつ毛は濡れて束になっていた。頬にはいくつもの涙の跡がある。  ほんのり汗ばんだ額に張り付いたピンク色の前髪をそっと払ってやる。そして、涙の跡を撫でた。 「ん……」  すると、悠心がぴくりと動いて貴良の手のひらに頬擦りをする。びくりと体が震えて、とっさに距離をとった。  ――俺は何をしているんだ。  愕然として、自分の手を見下ろす。ぐっと拳を握り、貴良は悠心をもう一度見た後、大きくため息を吐いた。  ポケットからスマホを取り出す。 「……加藤(かとう)か?」 『はい、貴良様』 「頼みたいことがある」  貴良はホテルの名前を告げ、用件を伝えると、スマホをしまった。  額に手を当てる。汗が引いた額はひんやりとしているのに、手の熱だけがじわりと熱を持っていた。  

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