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第10話 失恋

◾︎side悠心◽︎  気だるげな熱と共に目を覚ますと、そこは見覚えのない真っ白な部屋だった。   「貴良……?」    ふらふらと起き上がると、サイドテーブルの上に何かが置かれている。  水と、数錠の薬。  それから、無機質な封筒に入れられた、多額の現金。 「なんだよ、これ……」  シーツの匂いを嗅いでも、大好きな柔軟剤の香りは一ミリもしない。  狂いそうな熱に灼かれている間の記憶は途切れ途切れだ。だけど、『そんなに俺のこと抱きたくない?』と聞いたことは覚えている。  その後、貴良が何も答えてくれなかったことも。    ヒートで熱を持つ体を持て余したまま、ぼんやりと机の上に置かれた無機物たちを眺める。  ——ヒートも管理できない自分への手切れ金的なものだろうか。  水に濡れた綿のように重たい頭を動かし、部屋を見回す。どうやらどこかのヒート対策の施設のようだ。噂では聞いたことがあるが、悠心は利用したことはなかった。これまで、一人でヒートを耐えることなんてなかったからだ。  貴良は……抱いてくれなかった。    ヒートを起こしたオメガに、求められて応じないアルファなんて見たことがない。  それほど、嫌だったのだろうか。  胸に鋭い痛みが走る。  気づけば、頬を涙が伝っていた。一人でシーツにうずくまり、短いおえつをこぼしていると、投げ出されていたスマホが鳴った。  ベッドに落ちていたスマホを拾うと、メッセージが入っている。  那智:どうせきたんだろ。迎えいく。どこいる?  瞬間、ほっと脱力した。  狂いそうな熱の中、スマホで位置情報を調べる。初めて知る施設の名前を返信に打ち込んでいると、手が滑った。  カシャン、と音がしてスマホが落ちる。床に落ちたスマホを拾おうとして、息を飲んだ。  そこには貴良と撮ったプリクラがあった。貴良は相変わらずの仏頂面で立っているだけ。その横で、悠心が笑いながら犬のポーズをしている。 「……」  悠心は震える手でスマホを拾う。送信をタップしようとして――消した。  代わりに、「来んな」と打ち込んで送信する。  スマホをベッドに放り投げて、悠心は激しい動悸と共にベッドの上に丸まった。  延々と内側からじりじりと熱されるような感覚。それと共に、腹の奥が重だるく疼くようなもどかしさ。  ふと、ピンクくまが目に入る。そっと抱き寄せて、胸にしまいこむ。  (貴良……)  理知的に澄んだ切れ長の目を思い出して、悠心はぎゅっと目を瞑った。  とりあえず那智と母親に無事を伝えて、あとはひたすら一人で耐え忍んだ。  母親は事前に連絡が貴良からいっていたらしく、悠心が安全な場所にいることがわかると、ほっとしていた。貴良はどうやって母親に連絡をとったのだろうかと一瞬疑問が浮かんだが、自分が覚えていない間に、連絡先を伝えたのだろうと納得する。  こんな姿はたとえ母親だろうと——いや、母親だからこそ見られたくないので、正直助かった。    部屋にいる間は、たまにスタッフから音声で体調のことや必要なもの、食事の有無などを訊ねられた。至れり尽くせりで驚いたが、悠心は常に熱で重だるい体に苦しんでいたので、必要最低限しか答えず、食事も断った。    症状がぐっと楽になったところで、なんとか施設を出た。退室を伝えるとスタッフが迎えに来て、なにやら簡単に体調を診察された後、出口まで案内される。  清算を済ませようとすると、必要ないと言われて驚いた。どうやら貴良が支払ってくれていたらしい。それにしても、こんな高級そうな場所の支払いまでしてくれていたなんて、もしかしたら貴良はけっこうお金持ちなのかもしれない。    「ごめん。お金、返すから」とメッセージを送っても、「大丈夫」というスタンプしか来なかった。  そのことに、さらに涙腺が緩む。何度かメッセージを送ってみたが、返信はどれもそっけないものだった。ここ最近ではずいぶん話してくれるようになっていたのに。  もう、会いたくないんだろうか。自分に愛想をつかしてしまったんだろうか。  施設から出ると、なぜかタクシーまで停まっていた。まさかと思って運転手に名前を告げると、「桜井様より伺っております」と言われた。ますます貴良への金持ち疑惑を強めるが、内心はそれどころじゃなく荒んでいたので、「……そうすか」とだけ返して、悠心は自宅に帰った。    自宅に帰ってそうそう、母親にろくな挨拶もできないまま、自分の部屋にひたすらこもった。  この数日で散々悠心に抱き潰されたピンクくまはすっかりひしゃげてしまっている。  後で形を整えないと……そんなことを思いながら、ぎゅっとくまを抱きしめる。    学校にも行けないまま、一週間ほど続くヒート期間を悠心は気が狂いそうになりながらもやり過ごした。 「おー! 悠ちゃん! 回復したのか!」 「……おう」  昼休み。悠心は黒条高校に一週間ぶりに登校した。宏樹が嬉しそうに駆け寄ってくる。 「体大丈夫かよ」 「ああ」 「那智と心配してたんだぜ?」 「……おう」  項垂れながら頷いていると、宏樹が「ん?」と首を傾げた。 「なんか元気なくねえか? まだ具合悪いのか?」 「いや……そういうんじゃねえ」  悠心は自分の席にどかっと座って、机に組んだ足を引っ掛ける。天井を見上げて、盛大にため息を吐いた。 「なんだよ辛気臭えなあ」  宏樹がきょとんとしていると、那智が声をかけてきた。 「悠心。お前誰とヒート過ごしてたんだよ」 「あー……ひとり」 「は?」  那智の顔がみるみる不機嫌になっていった。 「迎え行くっつったろ。なんで一人でいんだよ」 「……なんとなく」  答えると、那智が舌打ちをした。飴がガチッと歯に当たる音がする。 「桜井と付き合ってねえだろ。操だてしてんのか?」 「……別に」  操だてしていた訳ではない。ただ、那智を呼ぶ気にならなかった。  それだけだ。  那智が大きくため息を吐く。悠心は嗄れた喉から掠れた声を漏らした。 「てか……多分、フラれたし」 「そもそも付き合ってねえだろ」 「いやそうだけど……」  那智のツッコミに口を引き結びながら俯く。宏樹が怪訝な顔をした。 「なんでそう思うんだ?」 「ヒートきてさ……気づいたら、なんかヒート用の施設みたいなとこいたんだよ」 「お、おう……そ、そんで?」  宏樹が大袈裟に頷いてごくりと喉を鳴らす。 「だけど……貴良、抱いてくんなかった」  はあーと大きくため息を吐いて、椅子に深く沈み込む。 「多分抱いてくれって言ったと思うし、抱きついたのも覚えてる。でも、朝起きたら薬とか金だけ置いてあって……メッセ送ってもそっけねえ」  消沈しながら話しているうち、じわりとまた涙が滲む。目元に腕を置くと、宏樹がおずおずと口を開いた。 「それってよ……フラれたことになんのか?」 「え?」  思わず腕をどけると、宏樹は考え込むように腕を組んでいた。   「むしろ本命にする行動な気がすんだよな」 「んなわけねえじゃん。宏樹、おめえは童貞だからそう思うんだよ。オメガのヒートなんて据え膳どころじゃねえんだぞ? なのに抱かないって……相当ムリだったんだよ」 「そうかなあ……」  宏樹はなんだか納得いってないように首を傾げる。 「ってか、童貞関係ねえし!」 「あるだろ」  一拍遅れてつっこんできた宏樹にぴしゃりと言って、悠心は額に手を当てた。  ――終わった。  貴良と過ごした時間を思い返すと、また涙が滲んできた。 「……桜井、どうだったんだよ」  その時、それまで黙っていた那智が口を開いた。 「どうって……」  悠心はあの日のことを思い出す。ヒートが来た後からは記憶が曖昧な部分もあるが、貴良はどうだったか。 「そういや……貴良、具合悪そうだった。一緒に電車乗ってたけど、なんか急に苦しみ出して……で、気がついたら俺もヒートになってたんだよな」 「……」  那智が無言で新しい飴を口に放り込む。しばらく口の中で転がしたのちに、また口を開いた。 「あいつ、抑制剤飲んでんだっけ?」 「おう。そういや、ずっと飲んでるって言ってた」 「ずっと? アルファって、ずっと薬飲むもんなのか?」  宏樹が怪訝な声をあげる。那智は首を振った。 「いや。普通は緊急時以外は飲まねえよ」 「だよなあ? アルファだからってずっと薬飲んでるなんて聞いたことねえぞ」  体にも悪いだろ、と眉をひそめる宏樹に、悠心はハッとした。 「確かに……そうだよな。もしかして、俺のヒートにあてられて、体調崩しちまったのかな」  どうしよう、とつぶやくと、那智が「関係ねえよ」と短く一刀両断した。 「あいつの事情があんだろ。仮にヒートに当てられたからって、ヤりたくはなっても具合悪くなるなんて聞いたことねえぞ」  飴を転がしながら那智は頬杖をつく。 「でも……」  どうしてだろう。無関係だとは思えなくなってきた。 「お前が気にすることじゃねえって。ほら、これやるから元気出せよ」  そう言って渡されたのはいちご味のチョコレートだった。悠心の大好物だ。 「さんきゅ……」  包み紙から取り出して口に放ると、とたんに甘みが広がる。 「にしても、悠ちゃんがこんだけ入れ込むなんて初じゃね?」  宏樹が座った椅子をぐらぐら揺らしながら不思議そうに言った。 「だって今まで男切れる時、こんなんなんなかったじゃねえか。とうとう悠ちゃんも純愛を知ったんかね」 「るっせ。そのツラで何が純愛だ」 「なんだとお!?」  悠心はこれまでの恋愛を振り返る。確かに、今まではタイプの男から口説かれたらすぐに付き合ったし、なんか違うなってなったら別れていた。最長で一ヶ月。最短で半日。ワンナイトだって上等だった。自分に靡かない男にはさっさと見切りをつけて次に行っていた。    貴良とは出会って一ヶ月くらい。セックスもキスもしていない。ましてや付き合ってすらいない。ちゃんとしたデートなんて一回だけ。  それでも、なんでこんなに好きなんだろう。  初めは一目惚れだった。タイプなんて全然違うのに、それでも強烈に惹かれた。  その後は、貴良の堅物で真面目だけど優しいところとか、馬鹿な悠心を笑わないでいてくれるところとか、意外と負けず嫌いなところとか、貴良を知るたびに今度は中身に惹かれていった。  もっと一緒にいたい。好きだと思って欲しい。  そう思ってた。あの日、ゲームセンターでのデートは一生の思い出だ。  とうとう、ぽろりと涙がこぼれた。  ――こんなに辛いなら、なんのために人は恋なんかするんだろう。  その日の放課後、悠心たちが校舎から出て校門まで歩いていると、校門前に小さな人だかりができているのが見えた。  (なんだ?) 「おいコラ。お坊ちゃんが何の用だよ」 「一人で来るなんて勇気がありまちゅねえ」  茶化してる黒条の連中と――白い学生服が見えた。     

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