13 / 49
第13話 破裂
「……まつ毛、ついていた」
「え? あ」
頬を撫でられたかと思えば、貴良の指先には悠心のまつ毛が一本乗っていた。
「……長いな」
貴良はしばらく指先のまつ毛を見つめてつぶやく。
心臓が破裂しそうだ。
こんな触れ合いは今までだって数えきれないくらいしてきた。もっと濃密な触れ合いだって、愛の囁きだって、こなしてきた。
けれど、いつ以来だろうか。こんなにも相手の一挙手一投足に心臓が振り回されるのは。いや、もしかしたら、初めてかもしれない。
そして——そんな相手に出会えた喜びと、悲しみが胸に過 ぎって、悠心はぐっと唇を噛んだ。
貴良はそっと悠心の顔に視線を戻した。
「顔色は、悪くないな」
「う、うん……っ」
「いや、少し赤いか?」
「だ、大丈夫」
思わずぱっと顔を逸らす。貴良は悠心の隣に腰掛けた。
(なんか、めっちゃ見られてね……?)
隣からの視線を感じる。
こんなに至近距離で、しかもこんなに見つめられると、どうしたら良いかわからなくなる。
状況を整理したいが、いかんせんそれどころではない。
来る前にお気に入りの香水を振っておいて良かった。そう思って、その瞬間、少しだけ惨めになった。
「肌、白いな」
「……うん。意外と、そう言われる。あんまカッコよくねえから好きじゃないんだけど」
「綺麗だけどな」
(なんで……そんなこと言うんだよ)
あの日、一人置き去りにされて、あんなに泣いたのに。少し褒められただけで全部許しそうになる自分が、情けなかった。
思わず膝を閉じ、ぐっと拳を膝の上で握る。固まっている悠心を見つめていた貴良は、ふと悠心の唇に目を留めた。
「噛むな。血が出る」
「ひゃ……」
ぐっと噛んでいた唇に触れられて、思わず変な声が出た。
「ま、待て! ちょ、タンマ!」
「なんだ」
堪えきれなくなって、とうとう悠心はストップをかけた。貴良は怪訝な顔をしている。その顔には下心は一切感じられない。
「ち、近 ぇ……!」
蚊の鳴くような声を漏らすと、そこで初めて貴良が自分たちの距離感を認識したようだった。
「……確かに、近いな」
「うぅ……」
貴良は悠心に触れた自分の手をじっと見下ろしている。
悠心が呼吸を整えていると、ぼそりと貴良がつぶやいた。
「今は……大丈夫だな」
「ん?」
「いや、なんでもない」
貴良は首を振るが、悠心は何か引っ掛かりを覚えた。
「今は大丈夫って、どゆこと?」
なぜかその言葉が気になる。
貴良は一つ息を吐いて、少し言いにくそうにぽつりとぽつりと語り始めた。簡潔に話す貴良らしくない話し方だ。
「あの日……矢沢にヒートが来た日、俺は体調が優れなかった」
「うん……つらそうだった」
悠心は帰りの電車でのことを思い出した。貴良は駅のホームのベンチで苦しそうにしていた。
貴良は乱れた髪を撫で付け、ため息を吐いた。
「実は……お前に近づいたり、触れたりするたびに症状がひどくなった」
「……そっか。ごめん。俺、ヒートだったから……貴良の体調にトドメ刺しちゃってたんかな」
自己嫌悪に陥っていると、貴良が首を振った。
「矢沢はあの日、俺が渡した発情抑制剤もちゃんと飲んでいた。お前は悪くない。……一人にして、悪かった」
「……んーん」
謝られて、悠心は曖昧に頷いた。確かに、身を切られるように辛かった。だけど……貴良にも事情があったのだろう。
俯いていると、貴良が額に手を当てた。横目で悠心のことを見つめてくる。
「俺が……あの場にいるほうが危険な気がした」
その目はどこかしっとりと湿度が感じられる。
悠心は首を傾げた。
「なんで?」
「それは……」
貴良が言いにくそうに口ごもる。目を逸らし、少し気まずそうにする。
「……あ、そうだよな。俺に近づくと具合悪いって言ってたから、そのまま一緒にいたら貴良が大変だったよな」
気がついて悠心が納得すると、貴良は顔を上げた。
「それもそうだが……一番の理由はそうじゃない」
きょとんとすると、しばらくして貴良は意を決したように口を開いた。
「……矢沢に、自分が何をするかわからなかった」
絞り出すような言葉。一瞬、処理できなくて沈黙した。
「……え」
少しの時間の後、悠心はハッとした。
じわじわと顔が赤くなる。
それはつまり。
「……俺のこと、抱きたかったってこと?」
とたんに、少しだけ指先に熱がこもった。貴良は何も答えない。だけど、そうとしか考えられなかった。
貴良はやっぱり悠心のヒートにあてられてしまっていた。薬を飲んでいても、影響は免れなかったんだろう。
……でも、それならなおさら、なんであの時抱いてくれなかっただろうか。
「それが、なんで危険なんだ?」
首を傾げると、貴良の目が動揺したように揺らいだ。
「いや……危険だろう」
「なんで?」
「だから……危うく俺はお前を襲うかもしれなかったんだぞ」
表情を厳しくする貴良に、「うん」と頷く。
「わかってるよ。だって俺……抱いて欲しかったし」
少し照れながら言うと、貴良は完全に固まってしまった。
「……そんなふうに、簡単にできるものじゃないだろう」
「え? なんで? 俺は貴良のこと好きだし。貴良もしたいって思ってくれたんだろ? なら…………あ」
興奮しながら言い募って、ふと悠心は気がついた。
『大企業のご令嬢。アルファ。家格も容姿も貴良に釣り合う』。
凛の言葉が蘇る。
「……婚約者が、いるから?」
思わず、声が低く掠れた。
貴良がわずかに目を見開いた。
「なんでそれを……」
動揺したような様子に、悠心の胸がずきりと痛んだ。
「……やっぱ、そっか」
ぽつりと呟く。
凛から聞かされた時も辛かったが、目の前で反応を見てしまうと、段違いに胸が痛い。
「なんで、言ってくれなかったんだよ」
とうとう、認められてしまった。
これが、今日確かめたかったこと。でも、一番訊きたくなかったこと。
貴良は喉に何かつっかえたような、少し苦しそうな顔をした。
「凛、だっけ。あいつから聞かされて……信じらんなくて、ここまで来ちまったけど……」
膝の上で拳を握る。
「なんで、あいつからンな大事なこと聞かされなきゃなんねえの?」
「……すまない」
「俺、貴良のこと好きって、ずっと言ってたよな?」
だんだん声が震えてきて、抑えが効かなくなってくる。
貴良に何度も好きだと言った。何度も会いに行ったし、勉強だって頑張った。この間はゲームセンターでデートもした。自分だけじゃなく、貴良も楽しそうだった。
答えなんていつまでも待つつもりだった。
でも……婚約者だなんて、話が違う。
「そいつと、結婚すんの?」
「……そういう話になっている」
ひゅ、と喉が変に鳴った。
のろのろと顔を上げると、貴良はかすかに顔をこわばらせていた。
「……好きなの、そいつのこと」
「いや。好きじゃない」
「それなら……」
悠心は思わず貴良の腕をつかんだ。
「やめりゃ良いじゃん、結婚」
貴良は悠心の視線から顔を逸らしたまま、目を合わせようとしない。そのことに、ひどく嫌な予感がした。
「……それは、難しい」
「は? なんで」
「俺個人がどうにかできる問題じゃない」
「なんでだよ。貴良のことなのに、なんで貴良が決めらんねえんだよ」
わからなくて、つかんだ腕をぎゅっと握る。貴良は黙り込んで答えない。
『あんたが貴良と結ばれるなんてこと、万に一つもないよ。運命の番でもない限り』
脳裏に凛の言葉がよぎった。
ごくりと喉を鳴らす。
『運命の番って、出会った時から強烈に惹かれるんだっけ? 貴良があんたのこと好きだって言ったわけ?』
悠心は、ぐっと貴良に近寄った。ほとんど貴良を押し倒すような体勢になる。
「なあ、俺の匂い……フェロモンとか、なんか感じた? ……あ、薬飲んでるから、わかんねえんだっけ……」
藁にもすがる気持ちとはこのことなのだろう。一縷の望みをかけたが、そもそも貴良は特殊な薬を服用しているから確認ができない。
いや、それ以前にヒート時の悠心に拒否反応が出ていたから、結果はもう出ているのかもしれない。
「なあ、貴良……俺のこと、好き?」
ぽつりと呟いた。
祈るように貴良を見つめる。逡巡したようにその目が一瞬だけ揺らぐ。
しばらく沈黙が降りた。
悠心はまっすぐに貴良を見つめる。
改めて見ると、やっぱり貴良は格好いい。こんな時にまで貴良に胸が疼く自分は、どこか壊れてしまったのだろうか。
貴良の目の奥は、さまざまな感情が複雑に動いていた。
悠心は胸が詰まるような苦しさの中、固唾を飲んで返事を待つ。
やがて、形の良い唇が静かに開いた。
「……わからない」
ただ一言。ぽつりと響いた。
「……は?」
思わず、ぽかんと口が開いた。
「ど、どういうこと」
「矢沢が好きなのかは……わからない。ただ……」
「わからないって……」
何か言おうとしていた貴良だったが、もう悠心の耳には入ってこなかった。
わからない。
好きでもない。
嫌いかもわからない。
ただ、わからない。
それが、答えだった。
運命の番なら、迷うことなんてない。だって、運命の番なんだから。
出会った瞬間から惹かれ合い、強い絆で結ばれる。
それに、運命の番じゃなくても、過ごした時間で、友人を好きになってくれていたら。
——好きという言葉があれば、まだ頑張れたのに。
悠心は力が抜けて、がくりとうなだれた。
出会った瞬間から、貴良のことは一目惚れだった。運命の番だったら良いな、なんて思った。
貴良も、少しは悠心のことを好きになってくれていると思っていた。
悠心はただやみくもに突撃していただけじゃない。根拠はないが、自信があった。貴良は、きっと自分のことを好きになってくれる。不思議とそう思い込んでいた。
だから……こんなにも苦しい。
それにもしこの先、貴良が仮に悠心のことを好きになってくれたとしても、婚約者がいなくなるわけではない。
「じゃあ……無理じゃねえか……」
力のない小さな声が広い部屋にぽつりと響いた。
貴良は何も言わない。
悠心は貴良の腕を掴んだまま、動けなくなった。
胸がじくじくと膿むように痛い。
喉の奥がせりあがって、息苦しい。
どれほどの時間が経っただろうか。
悠心はのろのろと立ち上がった。
「どこへ行く」
落書きだらけのカバンを持つと、ソファの方から声がかかる。
「帰る」
「帰るって……」
「……わり」
悠心は振り向かないまま、小さく呟いた。
「俺、お前には……キープで良いって言えねえわ」
それだけを言うのが精一杯だった。
そして、そのまま部屋のドアを開けた。後ろから悠心を呼ぶ声が聞こえたが、無視して出ていく。
早く帰りたい。
そう思うのに、やたらと広い家のせいで、悠心は延々と歩く羽目になった。
「長えよ……バカやろう……」
いつまでも続く廊下を歩きながら、ぼそりとつぶやく。
拭う袖は、もう濡れそぼってしまっていた。
貴良は、最後まで悠心を追ってこなかった。
「……あ」
邸宅を出てから、悠心は鞄に入りっぱなしの封筒の存在を思い出した。
「返せてねえじゃん……」
盛大なため息が、夕暮れの空へ消えていった。
ともだちにシェアしよう!

