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第13話 破裂
「……まつ毛、ついていた」
「え? あ」
頬を撫でられたかと思えば、貴良の指先には悠心のまつ毛が一本乗っていた。
「……長いな」
内心で心臓が破裂しそうになっていると、貴良はしばらく指先のまつ毛を見つめてつぶやく。そっと悠心の顔に視線を戻した。
「……顔色は、悪くないな」
「う、うん……っ」
「いや、少し赤いか?」
「だ、大丈夫!」
思わずぱっと顔を逸らす。貴良は悠心の隣に腰掛けた。
(え、なんかめっちゃ見られてね……?)
隣からの視線を感じる。
こんなに至近距離で、しかもこんなに見つめられると、どうしたら良いかわからなくなる。
状況を整理したいが、いかんせんそれどころではない。
来る前にお気に入りの香水を振っておいて良かった。
「肌、白いな」
「えっ!? あ、う、うん。意外と、そう言われる。あんまカッコよくねえから好きじゃないんだけど」
「そうなのか? ……綺麗だけどな」
「え、えぇ……!?」
どうしたんだ、貴良。何があった。
というか、何が起きているのか。
思わず膝を閉じ、ぐっと拳を膝の上で握る。かちこちに固まっている悠心を見つめていた貴良は、ふと悠心の唇に目を留めた。
「噛むな。血が出る」
「ひゃ……」
ぐっと噛んでいた唇に触れられて、思わず変な声が出た。
「ま、待って! ちょちょ、タンマ!」
「なんだ」
堪えきれなくなって、とうとう悠心はストップをかけた。貴良は怪訝な顔をしている。その顔には下心は一切感じられない。だからこそ、限界だった。
「ち、近い……!」
蚊の鳴くような声を漏らすと、そこで初めて貴良が自分たちの距離感を認識したようだった。
「……確かに、近いな」
「うぅ……」
無自覚って怖い。
心臓が脈打ちすぎて、もはや痛いくらいだ。
貴良は悠心に触れた自分の手をじっと見下ろしている。
「今は……大丈夫だな」
「え?」
「いや、なんでもない」
貴良は首を振るが、悠心はどきどきする胸のまま、何か引っ掛かりを覚えた。
「今は大丈夫って、どゆこと?」
なぜかその言葉が気になる。
貴良は一つ息を吐いた。
「あの日……矢沢にヒートが来た日、俺は体調が優れなかった」
「うん。つらそうだった」
悠心はあの日のことを思い出した。駅のホームのベンチで苦しそうにしていた貴良。
「実は……お前に近づいたり、触れたりするたびに症状がひどくなった」
「え? ご、ごめん。俺、ヒートだったから……貴良の体調にトドメ刺しちゃってたんかな」
しゅんと落ち込んでから、あ、と気がついた。
勢いよく貴良に顔を向ける。
「も、もしかして、だから俺のことラブホに置いてったの?」
「ラブホ?」
「ラブホ。……え、知らねえ? ラブホテル」
貴良は合点がいったように頷いた。
「ああ、あそこがラブホテルだったのか」
「え、ええ!?」
悠心は愕然として空いた口が塞がらなかった。まさか、ラブホテルを知らなかったなんて。
驚いた後、一拍置いてすぐに納得する。
……いや、貴良なら充分あり得る。こんな大豪邸に住んでいるくらいだし、昔から友人付き合いも制限されてきたと言っていた。世間知らずというより、管理されてきた弊害なのかもしれない。
「し、知らなかったんだな……」
「ああ。……一人にして、悪かった。でも、俺があの場にいるほうが危険な気がした」
「なんで?」
「それは……」
貴良が言いにくそうに口ごもった。目を逸らし、少し気まずそうにする。
「あ、そうだよな。俺に近づくと具合悪いって言ってたから、そのまま一緒にいたら貴良が大変だったよな」
気がついて悠心が納得すると、貴良は顔を上げた。
「それもそうだが……一番の理由はそうじゃない」
「え? そうなの?」
きょとんとすると、しばらくして貴良は意を決したように口を開いた。
「……矢沢に、自分が何をするかわからなかった」
絞り出すような言葉。一瞬、処理できなくて沈黙した。
少しの時間の後、悠心はハッとした。
じわじわと顔が赤くなる。
貴良はやっぱり悠心のヒートにあてられてしまっていた。薬を飲んでいても、影響は免れなかったんだろう。
……でも、それならなおさら、なんであの時抱いてくれなかっただろうか。
「それが、なんで危険なんだ?」
首を傾げると、貴良の目が動揺したように揺らいだ。
「いや……矢沢、意味がわかってるのか?」
表情を厳しくする貴良に、「うん」と頷く。
「わかってるよ。だって俺……抱いて欲しかったし」
少し照れながら言うと、貴良は完全に固まってしまった。
「……いや、そんなふうに、簡単にできるものじゃないだろう」
「え? なんで? 俺は貴良のこと好きだし。貴良もしたいって思ってくれたんだろ? なら…………あ」
そう言って、悠心は気がついた。
『大企業のご令嬢。アルファ。家格も容姿も貴良に釣り合う』。
凛の言葉が蘇る。
「……婚約者が、いるから?」
思わず、声が低く掠れた。
貴良がわずかに目を見開いた。
「なんでそれを……」
動揺したような様子に、悠心の胸がずきりと痛んだ。
「……やっぱり、いるんだ」
ぽつりと呟く。
凛から聞かされた時も辛かったが、目の前で反応を見てしまうと、段違いに胸が痛い。
「なんで、言ってくれなかったんだよ」
これが、今日確かめたかったこと。でも、一番訊きたくなかったこと。
貴良はぐっと喉に何かつっかえたような、少し苦しそうな顔をした。
「凛、だっけ。あいつから聞かされて……信じらんなくて、ここまで来ちまったけど……」
ぐっと拳を握る。
「なんで、あいつからンな大事なこと聞かされなきゃなんねえの?」
「……すまない」
「俺、貴良のこと好きって、ずっと言ってたよな?」
だんだん声が震えてきて、抑えが効かなくなってくる。
貴良に何度も好きだと言った。何度も会いに行ったし、勉強だって頑張った。この間はゲームセンターでデートもした。自分だけじゃなく、貴良も楽しそうだった。
答えなんていつまでも待つつもりだった。
でも……婚約者だなんて、話が違う。
「そいつと、結婚すんの?」
「……そういう話になっている」
ひゅ、と喉が変に鳴った。
のろのろと顔を上げると、貴良はかすかに顔をこわばらせていた。
「……好きなの、そいつのこと」
「いや。好きじゃない」
「それなら……」
悠心は思わず貴良の腕をつかんだ。
「やめりゃ良いじゃん、結婚」
貴良は悠心の視線から顔を逸らしたまま、目を合わせようとしない。そのことに、ひどく嫌な予感がした。
「……それは、難しい」
「は? なんで」
「俺個人がどうにかできる問題じゃない」
「なんでだよ」
わからなくて、つかんだ腕をぎゅっと握る。
『あんたが貴良と結ばれるなんてこと、万に一つもないよ。運命の番でもない限り』
脳裏に凛の言葉がよぎった。
ごくりと喉を鳴らす。
『運命の番って、出会った時から強烈に惹かれるんだっけ? 貴良があんたのこと好きだって言ったわけ?』
悠心は、ぐっと貴良に近寄った。ほとんど貴良を押し倒すような体勢になる。
「なあ、俺の匂い……フェロモンとか、なんか感じた? ……あ、薬飲んでるから、わかんねえんだっけ……」
「矢沢」
「なあ、貴良……俺のこと、好き?」
祈るように貴良を見つめる。逡巡したようにその目が一瞬だけ揺らぐ。
しばらく沈黙が降りた。
悠心はまっすぐに貴良を見つめる。
改めて見ると、やっぱり貴良は格好いい。こんな時にまで貴良に胸が疼く自分は、どこか壊れてしまったのだろうか。
貴良の目の奥は、さまざまな感情が複雑に動いていた。
悠心は胸が詰まるような苦しさの中、固唾を飲んで返事を待つ。
やがて、形の良い唇が静かに開いた。
「……わからない」
ただ一言。ぽつりと響いた。
「……は?」
思わず、ぽかんと口が開いた。
「ど、どういうこと」
「矢沢が好きなのかは……わからない。ただ……」
「わからないって……」
何か言おうとしていた貴良だったが、もう悠心の耳には入ってこなかった。
わからない。
それが、答えだった。
運命の番なら、迷うことなんてない。だって、運命の番なんだから。
出会った瞬間から惹かれ合い、強い絆で結ばれる。
それに、運命の番じゃなくても、過ごした時間で、悠心を好きになってくれていたら。
好きという言葉があれば、まだ頑張れたのに。
それなのに、貴良の答えは。
悠心は力が抜けて、がくりとうなだれた。
出会った瞬間から、貴良のことは一目惚れだった。運命の番だったら良いな、なんて思った。
貴良も、少しは悠心のことを好きになってくれていると思っていた。
悠心はただやみくもに突撃していただけじゃない。根拠はないが、自信があった。貴良は、きっと自分のことを好きになってくれる。不思議とそう思い込んでいた。
だから……こんなにも苦しい。
それにもしこの先、貴良が仮に悠心のことを好きになってくれたとしても、婚約者がいなくなるわけではない。
「じゃあ……無理じゃねえか……」
力のない小さな声が広い部屋にぽつりと響いた。
貴良は何も言わない。
悠心は貴良の腕を掴んだまま、動けなくなった。
胸がじくじくと膿むように痛い。
喉の奥がせりあがって、息苦しい。
どれほどの時間が経っただろうか。
悠心はのろのろと立ち上がった。
「どこへ行く」
落書きだらけのカバンを持つと、ソファの方から声がかかる。
「帰る」
「帰るって……」
「……わり」
悠心は振り向かないまま、小さく呟いた。
「俺、お前には……キープで良いって言えねえわ」
それだけを言うのが精一杯だった。
そして、そのまま部屋のドアを開けた。後ろから悠心を呼ぶ声が聞こえたが、無視して出ていく。
早く帰りたい。
そう思うのに、やたらと広い家のせいで、悠心は延々と歩く羽目になった。
「長えよ……バカやろう……」
いつまでも続く廊下を歩きながら、ぼそりとつぶやく。
拭う袖は、もう濡れそぼってしまっていた。
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