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第16話 桜井貴良
「貴良 」
貴良の一番古い記憶は、おもちゃを持っていた時だった。
誕生日。数々の贈り物の中で、ひときわカラフルで目を引かれるおもちゃがあった。
箱に入ったそれを手に取って眺めていると、後ろから父親に声をかけられた。
「それが気になるのか」
こくりと頷くと、父親はふっとまなじりを下げた。
「なぜ気になるんだ」
「……」
貴良は黙り込んだ。なぜ、と問われると、うまく答えられなかった。
「それは貴良にとって必要なものなのか? 考えなさい」
じっと手に取った箱を見つめる。
箱に入った車のおもちゃは、カラフルでぴかぴかに光り、きれいで格好いい。
見た目が派手なだけじゃない。走らせて遊ぶこともできる。
楽しそうだ。
だけど、本当に〝必要〟なのかと問われると、そうじゃないような気もする。
「……ひつようじゃ、ないです」
「よく考えられたな。貴良」
うつむくと、満足そうな顔をした父親にそっと箱を取り上げられる。
「ほら」
そう言って渡されたのは、いかにも質の良さそうなヴァイオリンだった。
「ありがとうございます」
受け取ったヴァイオリンは硬くて、指先がひんやりとした。
「今日、みんなで集まるんだけど、さくらいも来る?」
「うん」
白蘭学園の幼稚部から初等部に進学した貴良は、低学年の頃までは友人がいたような気もする。
「貴良様」
側に控えていた桜井家の従者、加藤 に声をかけられてぴくりと肩を震わせる。
「本日は乗馬の先生がいらっしゃいます」
「……」
ぎゅっとカバンを持つ手に力がこもった。貴良が無言でいると、同級生は「じゃあ、また今度ね!」と明るく笑いながら離れていった。
目の前で同級生たちがきゃははと笑いながら駆けていく様子を、ぼんやりと見つめた。
俯くと、白い靴下と汚れひとつない靴が目に入る。
「貴良様、参りましょう」
「うん」
差し出された加藤の手を取る。白い手袋越しだと体温は伝わってこない。とことこと校門まで歩いていく中、たくさんの生徒たちとすれ違う。
つばのある白い学生帽に、白いシャツ、チェックのパンツ姿。貴良も同じ格好をしているはずなのに、貴良の手は他の生徒たちではなく、黒いスーツ姿の加藤と繋がれている。
「貴良様」
俯いていると、上から加藤の声が聞こえてきた。
「今週の日曜は、何も予定がありません。支倉 様と、遊ばれてはいかがでしょうか?」
加藤はしわのある目元をわずかに緩ませていた。貴良は慌てて頷いた。
「うん」
少しだけ口元が緩む。加藤はそれ以上は何も言わなかったが、口髭がわずかに持ち上がったように見えた。
「たからくん、つよい」
「そうかな」
宙に舞った羽をラケットで叩く。小気味いい音と共に、羽がネットを超える。
「わあっ」とつんのめりながら、凛 が拾い損ねる。
悔しそうに頬を膨らませてラケットを握る様子に、胸がわくわくした。
「貴良」
その時、硬質な低い声が響いた。
中庭に面したテラス。手入れの行き届いた芝生の向こうで、穏やかな笑みを浮かべた父親が立っていた。
「おとうさま」
貴良は慌ててラケットを下げ、乱れた呼吸を殺して背筋を伸ばした。横にいた凛も、ラケットを胸の前に抱え直して深々と頭を下げる。
「こんにちは。たかなり様」
「支倉くん。よく来てくれたね。お父上は元気かな」
「はい」
「そうか。よろしく伝えておいてくれ」
父親——貴成 は、穏やかに笑みを浮かべる。
「あっ……」
その眼差しがそっと貴良の足元に向けられて、はっとして息を飲んだ。
「もうしわけありません、おとうさま」
「靴を替えてもらいなさい」
「はい」
そうしている間にも、控えていた加藤がさっとカバンから替えの靴を用意する。
貴良が履いていた靴に汚れはない。ただ、折れ目がわずかについているだけだった。
「さて、お茶を用意させたから、中で休憩してはどうかな。支倉くんはチェスができるらしいね。お茶の後はぜひ、貴良と手合わせしてやってくれ」
「はい!」
凛が少し緊張したように、けれどその大きな目をきらきらと輝かせながら返事をする。
貴成はラケットを手にした貴良を一瞥すると、テラスの方に踵を返す。
ぎゅっとラケットを握りしめた。
「貴良様」
加藤に声をかけられて、ぴくりと指先が動く。うろうろと視線をさまよわせていると、
「参りましょう」
と、そっと手を差し出される。貴良はぐっと唇を引き結び、ふっと表情を消すと、ラケットを加藤に渡した。
「……たからくん?」
凛が少し戸惑ったように貴良を覗き込んでくる。
「……いこう」
貴良が歩き始めると、凛も少し後ろからついてくる。
新しく履き替えた靴は、なんとなく固くて、ほんの少し窮屈な感じがした。
「——貴良様」
加藤の声で、はっと意識が戻った。
「どうかなさいましたか」
「いや……」
まばたきをして、目の前の食卓を見つめる。
手に持った銀食器のナイフとフォークは、食べかけの皿の上で止まっている。
「……」
再びカトラリーを動かす。
食べる分だけ肉を切り分け、口に運ぶ。時折聞こえる食器のかすかな音以外、部屋に音はない。
「……矢沢様のことでございますか」
控えめな加藤の言葉に、ぴたりと手が止まる。
「……なんで、そう思う」
短く問うと、加藤の口髭がわずかに動く。
「老人の勘でございます」
「……」
昔よりも白髪が増え、シワがくっきりと刻まれた顔を見つめる。
「……どう思う」
加藤は目元のシワをさらに濃くした。
「矢沢様の前では、楽しそうでいらっしゃいます」
「そういうことじゃ……いや、いい」
ため息を吐いて、目の前の皿に視線を戻す。肉にナイフを入れると、ミディアムレアに焼かれた綺麗な桃色の断面が見える。
その断面を見て、あいつのはもう少しはっきりとしていて人工的な色だな、とふと思った。
(楽しそう……か)
自分は楽しいのだろうか。
確かに悠心といると、貴良が今まで経験したことのないことばかりが起きる。
ふと気がつけば、あのピンク頭のことを考えてしまう。
『俺のこと、好き?』
貴良に乗り上げながら、悲痛な顔をした悠心。
好きとは、なんなのだろう。
わからない。
気にはなる。むしろ気にしていない時はないかもしれない。
それでも、これが悠心の言う『好き』なのかは、判別がつかない。
そもそも、仮にこれが『好き』だとして、それがなんだというのだろう。
好きだとしても、自分と悠心の関係が変わる訳ではない。
ならば、認めることになんの意味があるのだろうか。
「黒条高校まで行かれたそうですね」
「……ああ」
「矢沢様にはお会いできましたか?」
「どうせ知ってるだろう」
今日の加藤はいつになくよく話す。眉をひそめると、加藤が微笑む。そして、そっと目を伏せた。
「……旦那様がお帰りになられます」
その言葉に、銀食器を持った指先がかすかに震えた。
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