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第17話 欲しいもの
「お久しぶりです」
「ああ」
貴良が書斎に入ると、貴成はソファに深く腰掛け、わずかに乱れた前髪をかき上げて直した。
昔よりも目元には年齢が滲んでいたが、それでも目の奥にある底知れなさは変わらない。貴良はいつにも増して背筋が伸びた。
「学校はどうだ」
「変わりありません」
「そうだな。加藤から聞いている。勉学も生徒会活動もよくやっているようだな」
「はい」
その時、控えていた従者が「旦那様、お時間です」と声をかけた。貴成は立ち上がり、差し出された別の上着に腕を通す。
自宅に戻ったのはついさきほどだと言うのに、もう次の予定があるらしい。
「体調が悪かったそうだな」
「……ええ。少し。今はもうなんともありません」
「薬はいつも通り飲んでいるんだろうな」
「はい」
貴成は貴良に釘を刺すためにわざわざ帰宅したのだと、その時悟った。
貴良がいつも通り薬を常用していることは、貴成の耳に入っているはずだ。貴成が訊きたいのは、単純な服用の有無ではないだろう。
貴成の目がまっすぐに貴良を射抜く。並んで立つと、もうほとんど目線は変わらない。
「支倉製薬に薬の改良をしてもらおう。次の日曜の午後、検査に行きなさい」
「……はい」
貴成の手が肩に掛けられる。
「桜井家の嫡男が、間違いがあってはならない」
ぴくりと眉が動いた。
貴成はそんな貴良の様子を見抜いたように、すっと目を細くした。
「確かに、青春をすることは大切だ。恋をするなとも言わん。ただ、もしそうなった時は……必要かどうか考えなさい」
肩に置かれた手が重かった。
貴良が立ちすくんでいると、貴成が横を通り過ぎる。
「……父さん」
気がつけば、貴良は振り返っていた。
貴成が足を止める。
「椎堂 さんは、お元気ですか」
貴成は探るように貴良の顔を見ると、頷いた。
「ああ。今度食事会でもすると良い」
自分より二つ年下の少女の姿を思い浮かべる。
「彼女は……俺との婚約を、望んでいるのでしょうか」
貴成の目がわずかに見開かれた。驚いたように貴良をじっと見つめ、それからふっと笑った。
「そんなことは問題ではない。……今日はお前の顔が見れて良かった。最近は寒くなってきた。体には気をつけるんだぞ」
ぽん、と肩を叩かれる。そして、貴成は扉へと歩き出した。
「……ああ、そうだ」
ドアノブに手をかけたところで、貴成はふと思い出したように足を止める。
「靴が汚れていると聞いた。気をつけなさい。上に立つ者は足元まで見られているからな」
そう言い残して、今度こそ部屋を出ていった。
廊下に出ると、加藤が控えていた。
「貴良様」
「……なんだ」
加藤の顔を見ないまま歩き始めようとした時。
「わたくしは、何があろうと貴良様の味方でございます」
「……加藤」
思わず足を止める。加藤を見ると、いつものように穏やかな表情で貴良を見ている。
「わたくしは幼い頃から、貴良様のことをお近くで見守らせていただきました。……これは老婆心ゆえの独り言ですので、不要であればお聞き流しください」
加藤が胸にそっと手を当てる。指先の揃った白い手袋を見つめる。
「貴良様のお手を引いて、毎日初等部から帰った日々のことを、昨日のように思い出せます。貴良様は、昔から大変素晴らしいお方でございました」
どこか懐かしい思い出をたぐるように、加藤は貴良を見上げる。
「貴良様。必要なものと、欲しいものは違います。欲しいものは、欲しい。ただ、それだけで良いのではないでしょうか」
白髪混じりの口髭が、そっと持ち上がる。
「もう貴良様は立派に成長されました。……ご自身の力を、信じてくださいませ」
「……信じる」
「ええ」
にこりと笑うその顔を見つめる。昔はもっと厳しく、淡白に思えていた。けれど、今はまるで違って見えた。
「わたくしは桜井貴良という一人の人間を尊敬しております」
その言葉に、息を飲む。
貴良はしばらく加藤を見つめた。そして、静かに目を閉じる。
——『欲しいものは、欲しい』。
その言葉を反芻する。
脳裏に、泣きそうに潤んだアーモンドの瞳と、人工的な鮮やかなピンク色の髪がよぎった。
貴良は深く息を吐くと、静かに目を開いた。
「加藤」
「はい」
「椎堂家との婚約について、情報を洗いたい」
貴良の言葉に、加藤はすぐに頷いた。
「はい、貴良様」
ことさら嬉しそうな声音に、ふっと口元を緩める。
加藤の言葉によって、今までずっと胸の奥にあったものがようやく形を持ち始める。
霧が晴れていくように脳が高速で回転し始める。心臓が強く脈打つ。血が身体中を勢いよく駆け巡るのを感じる。
自分が何をすべきか。
——どうしたいのか。
全てが貴良の中で繋がりあっていく。
貴良はまっすぐに廊下を歩き始めた。その足取りは力強く、迷いがない。
その目の奥には、いつもの理知的さと——抑えきれない熱が浮かんでいる。
——道は決まった。
迷いなく進む貴良の背中を、加藤が少し後ろから静かに、けれどどこか嬉しそうに追従して行った。
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