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第20話 選択
◆
◾︎side悠心◽︎
黒条高校の屋上に立っていたのは貴良だった。
白蘭高校の制服を身につけた、いつもの貴良だった。ただ、いつもは皺ひとつない白い制服が、今日はわずかに乱れている。足元の高級そうな革靴には、土埃がついていた。
「……なんで」
掠れた声が漏れて秋風に消える。
悠心は信じられない思いで入り口に立つ貴良を見つめた。
そして、はっとする。
慌ててタバコの箱を隠そうとして——やめた。
(……もう、隠さなくていいんだった)
「お前に会いに来た」
どくりと心臓が跳ねる。さっきまで血をダラダラ流して瀕死だった心臓が、途端に勢いよく動き出す。
けれど——もう、惑わされない。
「……会いに来た? はっ。今度はなんの気まぐれだよ、会長サン」
わざと露悪的に笑ってみせた。
飴を噛み砕いてタバコを取り出す。口に咥えて静かに煙を吐くのを、貴良は黙ってじっと見ていた。
「いつもは、そんな感じなんだな」
「そーだよ。……はは、引いた?」
自分で言っておいて、変に腹の奥がひくりと震えるような感覚を覚えた。
「……いや。引かない」
「……あ、そ」
タバコを咥える手が少しぴく、と動いて、悠心は咳払いをしてタバコの灰を地面に落とした。
「ま、どーでも良いけど」
(なんで来たんだよ……)
胸が詰まるような、息苦しさを覚える。
「はあ……こりねえやつだな」
その時、横で静かだった那智が乾いた笑いを漏らした。
「——帰れよ、お坊っちゃま」
低い声で凄む那智。悠心はぐっと拳を握って、下を向いた。
「お前に言われる筋合いはない。これは矢沢と俺の問題だ」
冷ややかな声が聞こえてきて、思わず顔を上げる。
こんな貴良の声は聞いたことがなかった。
貴良の目には、いつもの理知的さはなく、剣呑さを帯びていた。
「矢沢」
名前を呼ばれる。
黒く透き通った目を見つめると、貴良は目を閉じて、一度だけ息を吸った。
目を開けた貴良に手を掴まれた。
火が消えていたタバコが、音もなく地面に落ちる。
心臓が痛い。
「……お前が欲しい」
——時間が、止まった。
強すぎる視線が、肌を焼くようだった。
隣で那智が息を飲んだのがわかった。
貴良の瞳が一瞬だけ揺れた。
けれど次の瞬間、余裕などかなぐり捨てるように、悠心の手を強く握った。
その熱さに驚く。
「……好きかどうかなんて、今まで重要じゃなかった。必要なものだけで良かった。今も、全然、合理的じゃない。……会ってそんなに時間も経っていない。明確な理由なんて、何もない」
痛いほど握られた手から、熱が移ってくる。
じんじんと指先が熱を持ち始めた。
「それでも俺は……お前が欲しくて、欲しくてしょうがない」
息を飲んだ。
「あ……」
張り詰めていた心が、ほどかれていく。
露悪的に見せていた顔が、緩んでいく。
だめだ。
そう思うのに、止められない。
「……貴良」
ぽつりと、口からこぼれる。
貴良の目元が、少しだけ和らいだ。
思わず、貴良の方に一歩踏み出す。
「——婚約者は」
その時、那智の厳しい言葉が遮った。
冷水を浴びせられたようだった。
足が止まる。
またじくじくと痛み出す胸に、顔をしかめる。
「熱い告白してるところわりぃんだけどさ。現実問題、どうすんだよ」
那智がすっと悠心と貴良の間に入る。
「また都合良いことだけ並び立てるつもりなら……わかってんだろうな」
ぐっと低くなった声と共に、那智が貴良の胸ぐらを掴んだ。
「那智……っ」
思わず止めようとしたその瞬間。
「離せ」
ぞっとするほどの冷たい声。
那智の手を貴良が掴んだ。
那智は悠心が知る中で一番喧嘩慣れしていて、強い男だ。
「……っ」
それなのに、那智が驚いたような顔で貴良の手を見ている。
「俺と矢沢の話はまだ終わっていない。どけ」
「……やんのか?」
那智が凄むが、貴良は一歩も引かない。それどころか、高圧的に睨み返す。
「……っ、待てよ、二人とも」
悠心は思わず間に入った。那智の手を引き、二人を離す。
そして貴良を見て——呼吸を忘れた。
——獣。
その言葉が脳裏に浮かんだ。
さっきまで那智へと向けられていたその目は、まるで肉食獣が、獲物の急所を見定めているような獰猛さを孕んでいた。
その瞬間、頭の隅でカチリと何かが嵌る音がした。
——これだ。
初めて貴良を見た時。
白い制服を着て、禁欲的で清廉な空気を纏っていて。理知的で澄んだ目をしていて。
あっという間に目を奪われた。
どうしてあんなにも惹かれたのか、自分でもよくわからなかった。
理性的なその目の奥に滲む、正反対の危うい獣性。
これが、きっと理由だった。
「……っ」
恐怖ではない何かが、ぞくぞくと尾てい骨から頭のてっぺんまで駆け上った。
じわじわと顔が熱を持って、息が上がっていく。
貴良から目が離せない。
(やっと……)
「婚約者なら、問題ない。片付けた」
いつもよりも低い声。
冷たくて、硬質で、恐怖すら覚えそうなのに、悠心は泣きたいほど嬉しくなった。
ずっと開いたままだった傷口が、熱に灼かれるように塞がっていく。
「……マジかよ」
後ろで那智の呟きが聞こえる。
「あの椎堂と、どうやって婚約解消したんだよ」
「契約を洗い直して、組み直しただけだ」
さらりと貴良が言うと、那智が目を見開く。
「……とんでもねえ規模の額と人が動いてる婚約だろ」
「問題ない。婚約の代わりに、別の条件に差し替えた」
貴良が目を細める。
「俺は……取ると決めたら、必ず取る」
その言葉に、ゲームセンターでピンクくまを取るまでてこでも動かなかった姿を思い出す。
——そうだ。貴良は最初から、そういう男だった。
「悠心」
貴良に名前を呼ばれる。
矢沢、じゃなくて、悠心。
「好きだ」
まっすぐに視線で射抜かれる。
くらり、と視界が揺れた。
『俺のこと……好き?』
『……わからない』
絶望して泣いたあの日が蘇る。
もうダメだと思った。
腹を括って、別れを告げた。心にぽっかりと穴が空いて、体の芯から冷えて。空っぽになったそこを、いつも通り埋めようとしたけど、埋まらなかった。
「た……貴良ぁ……っ」
視界がぼやけていく。
耳の縁がじんじんと熱くなって、唇が不自然に震える。
那智から離れてよろよろと近づくと、力強く抱きしめられる。
——ああ。これだ。
これが、欲しかったんだ。
今まで、散々いろんな男と付き合って、寝てきた。
それなりに楽しかったし、それでいいと思っていた。幸せだと感じた時もあった。
でも、今初めて気がついた。
心のどこかではずっと、身も焦げそうなほどの熱量で求められたかった。
貴良の前でだけ可愛こぶっているのだと思っていた。
だけど、もしかしたら——これも全部、自分だったのかもしれない。
「俺も……好き……っ」
胸板に頭を擦り付ける。相変わらずフェロモンの匂いは感じられない。でも、この清涼な柔軟剤の香りが好きだと感じた。
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