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第19話 恐ろしい人

 貴良が黒条高校に乗り込む数週間前。  貴良は加藤を連れて椎堂家へと足を運んでいた。  広大な敷地に佇む伝統的な日本家屋。隅々まで手入れの行き渡った庭園を、迎えにきた椎堂家の使用人と共に歩く。 「桜井様がいらっしゃることを、お嬢様も心待ちにしておりました。旦那様もお会いになりたがっていましたが、あいにく都合がつかず……残念がっておりました」  今日は椎堂家の当主と当主代理は不在だ。そこを狙って来た。  長い廊下をさらに奥へと進んでいく。  使用人が一つの部屋の前で止まった。 「失礼します。貴良様がいらっしゃいました」  しばらく返事はなかった。   「……お入りくださいませ」  ややあって、襖の向こう側から返事が返ってくる。鈴のような可憐な声が小さく響く。  使用人が襖を開けた。  そこは、十畳ほどの広い和室だった。  雪見障子の向こうには、先ほど通ってきた庭園とは別の小さな中庭が見える。磨かれた座卓の上には、湯気の立つ茶器と、小ぶりな練り切りが二つ並べられていた。  床の間には季節の花が生けられ、その隣には端正な掛け軸が掛かっている。どこを見ても椎堂家らしく隙がない。  その前に、少女が正座していた。 「貴良様。ようこそお越しくださいました」  そう言って流れるように美しい所作で座礼をする。  椎堂絵梨花(えりか)。巨大財閥・椎堂家の一人娘であり――貴良の婚約者だった。 「急な訪問にも関わらず、お会いくださりありがとうございます」 「いえ」  絵梨花は静かに顔を上げる。長い黒髪がさらさらと流れた。 「……少し意外でした。これまでは父たちも同席の場でしたから」 「ええ。絵梨花さん。今日はあなたと二人で話すために参りました」 「あら……」  意外そうに目をわずかに丸くして、絵梨花は口元に揃えた指先をそっと当てた。静かに微笑む。 「嬉しいですわ。そう言っていただけて。まずはお茶でも——」 「絵梨花さん」  失礼を承知で、貴良は遮った。絵梨花が戸惑ったような顔をした。こんなことは、今までの貴良なら考えられないことだった。  戸惑いを浮かべる絵梨花を見つめ、貴良は率直に切り出した。 「一つ、確認したいことがあります」 「……なんでしょう」 「絵梨花さんは、この婚約を望んでいますか」  絵梨花の指先がぴくりと震えた。 「……どういう意味でしょうか」 「そのままの意味です」  絵梨花はしばらく黙り込んでいた。 「この婚姻は、桜井家と椎堂家、双方にとって——」 「家の話はしていません。私はあなた個人としてのご意見を伺いたいのです」  貴良はじっと絵梨花の目を見つめた。そこに揺らぎがあるのを確かに見てとる。 「……わたくし、個人ですか」 「ええ」 「そうは言われましても。……貴良様は、どうなんでしょうか」  ちらりと絵梨花が探るような目で貴良をうかがう。貴良は迷わずに口を開いた。 「私は、この婚約について少し考え直させていただきたいと思っています」 「……それは、つまり」  絵梨花の目が大きく見開かれる。婉曲した言い回しの真意に気がついたのだろう。 「なぜ……」 「あなたや椎堂家に不満があるわけではありません。私自身の問題です」  黙って聞いていた絵梨花は、すっと目を細めた。 「私自身の問題、とおっしゃいますと……貴良様のお気持ちに、何か変化があったということでしょうか」  貴良は黙って絵梨花を見返した。沈黙は肯定である。それは絵梨花にも伝わったようで、とたんにその目が大きく見開かれた。 「まさか……」 「申し訳ございません」  貴良は黙礼した。絵梨花は息を飲んだまま、何も言葉を発さない。俯いているその姿は黒髪で顔が遮られて、表情がよく見えない。 「……そう、ですの」  やがて、絞り出すような声が畳にぽつりと落ちた。  ふっ、と何か緩んだように息を吐いた絵梨花が顔を上げる。 「それでしたら、話は少し変わってきますわね」 「……絵梨花さん?」  絵梨花は居住まいを正した。さきほどまでの淑やかで控えめな表情とは違い、今はどこか内側から生気が漲っている。  その変化に驚いていると、絵梨花は口元に弧を描いた。 「わたくしも、この婚約を望んでいるとは言えません」  その言葉に、今度は貴良がわずかに目を見開いた。  生真面目な婚約者の顔に、珍しく驚きが浮かんでいる。  絵梨花は、思いもよらない展開に胸を躍らせていた。 「絵梨花さん」  絵梨花はじっと婚約者の顔を見つめる。  自分よりも二つ年上の婚約者。天下の桜井家。しかも、極上のアルファで、容姿も美しい。背も高い。物静かで、真面目で、優秀で——。 「不満があるわけではありませんの。ただ……わたくしにも理想がありまして」  ——しかし、桜井貴良は絵梨花の好みではなかった。 「……そうですか」  貴良が驚いた顔をしたのは一瞬で、すぐにまた表情の読めない顔に戻った。  (ああほら……こういうところ)  無表情で、何を考えているのか掴めない。分類するなら、そう——。 「では、提案がございます」 「ええ。何でしょう」    貴良のそばに影のように控えていた従者がカバンから何かを取り出す。 「こちらを」  そう言って渡されたのは、資料だった。しかも決して薄くはないものだ。  絵梨花はすぐさま控えていた自分の従者を呼びつけた。資料をもう一部受け取った従者が目を通していく。  絵梨花も資料に目を落としていたが、文字を追ううちに息を飲んだ。 「これは……」 「代替案です」 「まあ」 (ここまで準備していらしたのね)  冒頭に記されていたのは、婚姻によって強化される予定だった両家の事業提携についてだった。  婚姻に代わる、新たな枠組み。  (なるほどね)    ページをめくる。  次に出てきたのは、契約変更によって椎堂側に生じる不利益への対処だった。  さらにめくる。  既存契約との整合まで、すでに洗い出されている。 「……」  絵梨花は押し黙った。横では従者が資料を読み込んでいる。 「絵梨花様」  従者に耳打ちされる。 「少なくとも、こちらに記載されている範囲では……椎堂側に大きな不利益が生じるものではないかと」 「……ええ」  絵梨花もそう思っていた。けれど、改めて従者に言われて茫然とする。 「……いったい、いつから」  喉から掠れた声が漏れた。こんなに緻密で大胆な計画を、いったいいつから考えていたというのか。 「二週間ほど前からです」 「なっ……」  言葉を失った。握りしめた資料を呆然と見下ろす。 「……これは、貴成様も?」 「いえ。今はまだ私だけで動いております」  ますます訳がわからない。    ——あれ、この方って私と同じ高校生よね?    ぼんやりとそんな疑問を浮かべながら絶句する。こんなの、人間業じゃない。  絵梨花はそろりと貴良を見上げた。 「でも……まだ、案ということですね」 「ええ。ですから、絵梨花さん、あなたに会いに来ました」  迷いのない言葉に、思わず目をしばたたく。  しかし、すぐにはっとして、軽く咳払いをした。 「……わたくしに、いったい何を」  貴良をじっと見つめる。強い眼差しで見つめ返される。 「この案を実現するには、椎堂側からも婚約解消を望む意思が必要になります」  そこで、すっと貴良が体勢を変えた。両手を畳につき、深く上体を折る。 「力を貸していただきたい」  今度こそ、思考が止まった。  あの桜井貴良が、畳に向かって低頭している。 「た、貴良様……っ」  思わず口元を手で覆う。従者も青ざめている。貴良の従者だけが、動じていなかった。 「い、いけません……っ! あなたともあろうお方が! 顔をあげてくださいませ!」  貴良を起こそうとするが、その体は動かない。絵梨花は貴良の頭を見下ろしながら、たまらず悲鳴を上げた。 「わかりました……っ! わかりましたから……っ!」  すると、ようやく貴良が顔をあげた。  (あ……)  その顔を見て、思わず息を飲む。 「それでは、よろしく頼みます。……加藤」 「はい」  呆然としている絵梨花と従者に、加藤が事務的な今後の流れを伝えてくる。それをぼんやりと聞きながら、絵梨花は信じられない思いで婚約者である目の前の男を見つめた。  貴良たちが帰っていった後、絵梨花はよろよろと静かに立ち上がった。  そして。 「……はあああああああ」  盛大なため息を吐いた。  ——疲れた。とにかく、疲れた。  すぐにうっとおしい帯を緩める。絵梨花は額に手を当て、座卓に肘をつきながら従者の名前を呼んだ。  すぐに襖が開いて、ディスプレイ用の雛壇が運び込まれてくる。  そこには——アクリルスタンドや()()たちが、実に美しく整列していた。 「怖かったぁ……」  涙声で呟きながら、雛壇の前で推したちに向かい合う。次々に部屋に一時撤去されていたグッズたちが運び込まれて来て、ようやく絵梨花は心の底から安堵することができた。  推し——いや、心の夫である乙女ゲームの王道攻略対象の柔らかな微笑みに癒される。 「なによ、あれ……」  今まで、自分の婚約者は淡白で生真面目で、例えるならそう——無口騎士タイプだと思っていた。  それなのに。 「全然違うじゃない」  頭を下げられた時、本当に頭が真っ白になった。桜井グループの跡取りが頭を下げるなど、大事件だ。  それでも、顔をあげた時のあの顔を見たら、恐ろしくなった。 (……私を見てなかった)  いつも理性的で静観したような貴良の目は、まるで違っていた。  そして——絵梨花を見ているようで、その目はもっとどこか遠いところへ向けられていた。  頭まで下げて、判断をこちらに委ねた。そう見えた。  けれど——何を理由に断れというのだろう。  椎堂家に生じる不利益は、すでに潰されている。父が懸念しそうな点にも、代替案が用意されている。そのうえ、絵梨花自身もこの婚約を望んでいない。  最後に、桜井家の跡取り本人が頭を下げた。  そこまでしておいて、最後の決定だけを絵梨花に委ねる。    そして、これは推測だが、絵梨花が仮に断ったとしても、きっと彼は別の道を探すのだろう。自分の望みを叶える方法が見つかるまで。 「……恐ろしい人」  絵梨花は思わず呟いた。  騎士でもない。王子でもない。ましてや、自分の知っているどんな攻略対象にも当てはまらない。  ——あれが、天下の桜井家の後継者。  桜井貴良という男か。  絵梨花はぶるりと身震いをして、「ああ、結婚しなくて良かった」と胸を撫で下ろした。  そしてふと思った。  椎堂家とは比較にならない、桜井家。その嫡男に生まれた彼には、一体どれほどの重圧がその肩に掛かっているのだろう。  一瞬想像して、自分には無理だとすぐに思った。  けれど、貴良はそれらを背負ってなお、突き進む。  きっと、自らが欲しているものに向かって。  いっそ傲慢なまでにまっすぐと。  あの桜井貴良がそこまでして欲しがる人は、一体どういう人なのだろう。  絵梨花は、見もしない相手へ思いを馳せて——同情した。 (……あんな人に本気で欲しがられたら、たまったもんじゃないわね)    

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