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第23話 フェロモン

「上がって。誰もいないから」  それから一週間後の週末。悠心は自宅のドアを開けて貴良を家に招いた。  貴良は玄関に上がると、物珍しそうに室内へ視線を巡らせた。 「あんな豪邸じゃなくてわりいけど」  苦笑すると、貴良が玄関の靴棚の上に飾ってある写真を見て小さく笑った。 「いや。うちなんかより、ずっと良い」  そう言う視線の先には、幼い悠心と若い頃の母親の姿が映っている。幼い悠心は母親に抱っこをされて嬉しそうに笑っている。 「……そか」  広くてぴかぴかに磨き上げられているが、どこか無機質に思えた貴良の家を思い出して、悠心はそっと頷いた。 「ご家族はいないのか」 「おう。いつも母ちゃん夜遅くまで帰って来ねえから」 「そうなのか」 「シンママだからさ、たくさん働いてくれてんだよ」 「そうか。……なら、これ、渡しておいてくれ」  言われて振り返ると、貴良が紙袋から何かを取り出した。 「え、何これ」  見てみると、なんだかお高そうな菓子だった。 「別に良いのに」 「そうもいかないだろう」  恋人が母親への手土産を持ってきたなんて、こんなことは初めてだった。少しくすぐったい気持ちになりながら「ありがと」と受け取る。 「母ちゃん、甘いの好きだからさ。喜ぶよ」 「なら良かった」  そう言って微笑む貴良。穏やかな顔に、なんだか悠心はどきどきしてきた。  自宅に男を呼ぶのは別に初めてではない。これまで何度だってしてきた。  だけど、こんなに緊張するのはいつ以来だろうか。 「散らかってて、ごめん」  リビングに貴良からもらった菓子を置いた後、悠心たちは二階にある悠心の自室にやってきた。 「座ってて良いよ。あ、何飲む? 水とお茶と、コーヒーあるけど」  部屋にある小型冷蔵庫を開ける。いつもは酒が入っているが、今日はしっかりと撤去してある。 「水をもらいたい」 「うん」  ローテーブルの前に腰掛けている貴良に水を渡す。そして、悠心もお茶を持って向かいに座った。  (た、貴良が……俺の部屋にいる……!!)  なぜかまともに貴良の顔を見れない。貴良が水の入ったペットボトルのキャップに指をかける様子を見つめる。  大きい手。長い指が器用にキャップを開けるのを見て、悠心はきゅっと唇を噛んだ。 「……ピンクくま」  ふと、部屋を見まわした貴良がベッドの方を見て呟いた。 「あ、そうそう。前に、貴良が取ってくれたやつ」  ベッドの枕元にでんと座っているのは、ゲームセンターで取ってもらったピンクくまだった。一度はクローゼットの上にしまわれていたが、今はベッドの上が定位置になっている。  ひしゃげてしまった形もある程度整えたので、心なしか満足そうな顔をしているように見える。 「……」  貴良が黙り込む。 (え、なんで無言? 俺また、地雷踏んだ?)  一瞬ひやりとした時、貴良がぽつりと言った。 「お前は、健気だな」  思わず顔を上げると、貴良と目が合う。  じっと悠心を見つめるその目には熱が浮かんでいる。  そのとたん、急に指先がじんじんと熱くなり始めた。 「そ、そかな。いや、そんなこともないと思うけど」  健気だなんて、言われたことがない。ビッチだとは散々言われていたが。 「俺は、お前以上にまっすぐに生きている人間を見たことがない」  貴良の手が悠心に伸びる。頬に指先が触れて、ぴくりとまつ毛が震えた。  貴良の指が、頬の感触を確かめるようにゆっくり滑る。   「貴良……?」  貴良の指が唇に触れる。 「……お前は兄弟はいるのか」 「え? い、いや、いないけど」  上唇に親指がかかって、ゆるく押される。 「そうか。好きな食べ物は?」 「い、いちごチョコ」 「休日はどうしている」 「えっと……バイクで走ったり、誰かんちで集まったり?」 「誰かって誰だ」  (……面接?)  質問攻めしながらも、貴良の指は悠心の唇を撫でている。 「誰って……那智とか、他のやつらとか」  貴良の指が悠心のリングピアスの上で止まる。 「……あいつの名前は、よく出るな」 「え? う、うん。一番のダチだし。……あ」  ハッとした。 「ご、ごめん」  この間、那智の話になった時に貴良が不機嫌になっていた。二人でいるのに、那智の話はまずかった。 「謝ることない。これからは、俺の方がお前を知っていく」  貴良の指が、わずかに唇の中に潜り込む。 「あう……」  気づけば、貴良の膝が触れそうなほど近くにある。  (待って触り方えろすぎ……!)  行動と言葉のギャップがすごい。頭がクラクラしそうになった頃、ふわりと良い匂いがした。 「あっ……」  思わず声を漏らす。石鹸のような良い匂いの中に、ほのかに混じるぴりっとしたシナモンのような香りが鼻に抜ける。  ——ああ、やっと。  その瞬間、包み込まれるような幸福感と安心感を覚えて、思わず悠心は貴良の顔を見つめ返した。  これが、貴良の匂い。 「……薬、やめたの?」  ぼうっとしながら訊くと、貴良が薄く笑った。 「成分を控えめに調整してもらった。まだ、やめてはいない」 「え、でも……」  こんなに強く感じる。  それなのに、全然嫌じゃない。  むしろ、ずっと嗅いでいたい。  自分からもフェロモンが出始めるのを感じる。  悠心の頬に触れていた指がぴくりと震えた。 「……俺の、わかる?」 「……ああ」  囁くと、貴良が静かに頷く。 「どんな匂い?」  悠心の匂いは、深いムスクのようだと言われていた。貴良は、どう思うだろうか。 「……ムスクのような匂いがする」 「嫌じゃない?」 「ああ。……それに、花の蜜のような、甘い香りもする」  髪の毛を撫でられる。甘い香りだなんて、初めて言われた。 「本当?」 「ああ。もっと近くで感じたい」  貴良の顔が首元に寄せられる。  悠心はびくりと震えた。さらさらとした黒髪が肌に触れる。 「た、貴良……俺、やばい」  体の中心に熱が灯り始めているのがわかる。無意識に両膝を擦り合わせていると、貴良の声が耳元で聞こえた。 「何がだ」 「ぅひゃっ」  その途端、じいんと甘い痺れが全身に走った。 「そ、そこで、しゃべんなぁ……」  視界が滲んでくる。全身が心臓になってしまったようだった。 「悪い。今は離れたくないんだ」 「あっ……」  低い声が、湿り気を帯びている。その声だけで、悠心の喉から喘ぎ声が漏れた。  互いから漏れる匂いがだんだんと濃くなっているのを感じる。 (え……薬で抑えてて、これ?)  アルファとオメガは、相性が良いほど互いの匂いを強く感じる。  悠心はこれまで、数々のアルファたちの匂いを嗅いできた。  でも、これは——これまでのどの匂いよりも違う。  体ごと酔ってしまうような、抗いがたい吸引力に戸惑う。  (なんかやべえ)  知らない自分になってしまったような不安が、一瞬()ぎる。  すると、そんな悠心の様子を察したのか、貴良が顔を上げた。  至近距離で目が合う。 「大丈夫だ」  優しくそう言われて、頭を撫でられる。  その途端、さっきまであった不安が嘘のようにすっと消えていく。  ほっと脱力して、貴良に体を預けた。  貴良の大きな体にすっぽりと収まると、それだけで世界中の幸せが一気に自分に訪れたような、満たされた気持ちになる。  自然と、涙がこぼれた。 「悠心」  そっと指先で涙を拭われる。なんだかその瞬間、以前にもそんなことがあったような気がした。 「ごめん。……なんか、幸せで」  貴良と出会って、いろんなことがあった。  一時はもうダメかと思った。  それでも、こうして自分は貴良に抱きしめられて、二人でいられる。  そのことが、どうしようもなく嬉しかった。  そっと貴良を見上げる。  ——貴良、キスして。  そう言おうとして口を開いた瞬間。  唇が重なった。 「ん……っ」  驚いて目を見開く。  貴良が、悠心にキスをしている。  やがて唇が離れても、悠心はぼうっとしたまま、しばらく動けなかった。 「……嬉しい」  呟くと、貴良が微笑む。悠心はぎゅっと貴良の背中に手を回した。 「……もっと」  囁くと、すぐにまた唇が重ねられる。  ふわふわと夢見心地でキスを交わす。  悠心が口を開けて貴良の舌を誘うと、控えめに舌が潜り込んでくる。  その熱さと感触に体を震わせる。だんだんと貴良のキスが大胆になってきて、悠心は腰が甘く疼いた。 「んぅっ……」  貴良の舌先が悠心の歯の一本一本を丁寧になぞる。上顎を舐められ、吐息が漏れた。  濃厚なフェロモンに脳が痺れていく。  悠心は貴良の背中に縋りつきながら、呼吸を乱した。  貴良の呼吸も上がっていて、悠心の腰に手を回してくる。 「貴良……っ」  たまらなくなって、悠心は貴良のシャツのボタンに手をかけた。 「……だめだ」  手を取られて、悠心は貴良を見上げた。 「なんで……っ」  一瞬、ホテルで一人で置き去りにされた時のことが蘇る。  だけど、貴良の顔を見てすぐにハッとした。 「今はだめだ」  そう言う貴良は、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。  だめだ、と言いながらもその目には抑えきれない興奮と欲が見えて、悠心は息を止めた。 「貴良……」 「俺は、お前に責任を取れるようになってからにしたい」  そう言いながら、貴良の視線が悠心の首元に落ちる。首輪をじっと見つめられて、悠心はきゅっと口を引き結んだ。 「……それって、本命だから?」  訊ねると、貴良が少し目を見開いて、それから微笑んだ。 「……そうだな」  その言葉に、悠心は思わず笑みがこぼれた。 「そっか」  胸にじわりと広がる温かさを感じながら、貴良の背中をぎゅっと握りしめる。 「……そういえば、体調、大丈夫?」  漂う濃密なフェロモンに、ヒート時のことを思い出した。 「この間よりもだいぶ良い。今はお前に触れていたい」  貴良は体調不良のことをそれ以上詳しくは話さず、また唇を寄せてくる。 「んっ。だ、大丈夫なのかよ……。あぅっ……」  そのうち、首筋にも唇を落とされる。   「キスだけだ」 「えっ、ええ……」  (そんなの、生殺し……!) 「せ、責任取れるって、いつまで……?」 「……そう長くは待たせない」 「ほ、ほんと……?」 「ああ」  その言葉に、へらりと笑う。   「楽しみ……」  深く口付けられて、悠心は悶々としながらも幸せな気持ちで目を閉じた。 「……ねえ、やっぱちょっとだけダメ?」 「ダメだ」 「先っぽだけで良いから」 「……ダメだ」 「堅物……!」

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