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第26話 生涯
「いいえ。お会いするのは初めてでございます」
「あ、そうなんすね。すいません」
そう答えながらも、悠心はもう一度女性の顔を見た。
何かが引っかかったが、結局その正体はわからなかった。
船内にいるほとんど全員と顔合わせをしたところで、悠心は疲れ果てていた。
気がつけば猫背になってしまうのを懸命にこらえ、敬語も崩れそうになるたびに言葉に詰まる。慣れない革靴を履いた足も痛くなってきた。
こんなに大切な場に出るなら、事前に敬語の練習とかしてきたのに……!
そう思い、少し恨み目で貴良を見上げる。貴良は悠心を見ると、何かを察したように腰にそっと手を当てた。
「少し抜けるか」
そう言って、貴良に連れられる。人々の間を抜け、船内の奥へと進んでいく。
やがて貴良が扉を開けると、冷たい潮風が頬を撫でた。
「わ……」
目の前いっぱいに、夜の海が広がっていた。
「すげえ……」
思わず呟いて手すりの方へ向かう。力強い音と共に波を掻き分けて進む船体に、悠心はきらきらと目を輝かせた。街の明かりを反射して光る波が幻想的で、ため息を吐く。
「座れ」
貴良に促されて見てみると、そこにはソファがある。
「助かったぁ……」
言われるが早いか、悠心はソファにどさりと腰を下ろした。
「足、痛かっただろう」
「気づいてたのか?」
「途中から歩き方が変わっていた」
悠心は恋人を見上げて笑った。
「ありがと」
貴良は薄く口角を上げる。
「てか、こんな大切なことなら、事前に言っといてくれよ。そしたら俺だっていろいろ練習したり、心構えできたりしたのに……」
少し膨れながら言うと、貴良がハッとしたように瞬きをした。
「確かに……そうだな。すまない。……つい、お前を紹介したい気持ちが先走ってしまった」
「そ、そうなん? じゃあ、仕方ねえけど……」
「次からは気をつける」
そう言った貴良に、悠心はソファから身を起こした。
「次もあんの?」
「嫌か?」
ぶんぶんと首を振る。
「そんなことねえよ。確かにちょっと疲れるけど……でも、嬉しい」
へへ、と笑って、それから少し俯いた。
「……でもさ、大丈夫かな」
「何がだ」
悠心は自分の足元に目を落とす。
「黒条だし、全然庶民だし。敬語もあんま自信ねえし……」
貴良がどんなコミュニティに属しているか。それを今日は嫌と言うほど知った。
「俺、わりとなんでも顔に出ちまうし」
今日会った者たちは誰もが優雅な所作で、そして内心では悠心をどう思っていたのかは知らないが、表面上はにこやかに挨拶をしてきた。
感情を表に出さない。それがきっとコミュニケーションの取り方なんだろう。
心が見えないやり取りに、少し疲弊していた。
貴良があまり表情が豊かではないのは、もしかしたらそういう教育が理由なのだろうか。
「悠心」
「ん?」
貴良が隣に静かに腰掛ける。ぐっと近い距離に、一瞬どきりとする。
「俺は、そんなお前が好きだ」
まっすぐに見つめられる。思わず目を見開くと、貴良に頬を優しく撫でられた。
「面白みも何もない俺といて、楽しそうにしてくれた。桜井ではなく、俺個人を見てくれていた。ころころと変わる表情も、俺のために頑張る姿も……全部、目が離せない」
珍しく饒舌な貴良。その目には、はっきりと悠心への熱が灯っていた。
「悠心が、俺を変えてくれた」
「貴良……」
見つめあって、悠心はきゅっと唇を引き結んだ。
「お、俺も……!」
——もともと楽しいことや、刺激的なことが好きだった。中学に上がってすぐ、やんちゃな先輩たちとつるむようになって、夜遊びを覚えた。彼氏もたくさんいた。中にはほろ苦い恋もあった。
でも、目が合ってうれしくなったり、話すだけで緊張したり、タバコや酒を控えたり、勉強を始めたり。失恋しても、相手のことを想い続けたり。
そんな自分は初めてだった。
そして……そんな自分は、今までの自分よりも、好きだった。
「俺も、貴良のおかげでちょっと変われた気する。てか、変わりたいって思えた」
はにかむと、眩しそうに見つめ返される。
手を握られて、指を絡め合う。
「悠心」
名前を呼ばれる。貴良の目に、悠心が映っている。
「俺と生涯を共にしてくれ」
波の音が消えた。
——生涯。
貴良の目に映る悠心の顔が、泣きそうに歪んだ。
しばらく、言葉が出なかった。
気持ちを伝え合って、交際が始まって、一月も経っていない。しかもお互い、まだ高校生で。それなのに、生涯を共にしてくれと言う。
とてつもなく重い。
普通なら、とてもじゃないが頷くことなどないだろう。
それでも、悠心の口から出て来たのは。
「……い、良いの?」
やっと絞り出した声は、少し震えていた。
掠れて潮風にかき消されそうなそれを、貴良はしっかりと拾って頷く。
「悠心。お前だから、欲しい」
飾り気のない剥き出しの思いが、まっすぐに胸に沁みる。
気がついたら、悠心は頷いていた。
「う、うん。うん……、うん……」
何度も頷く。
そのうち、熱いものが頬に一筋こぼれる。
「俺も、欲しい。貴良のこと、欲しい……っ」
気持ちのまま言葉にすれば、体を引き寄せられた。そのまま抱き込まれて、悠心は世界で一番安全で幸せな場所に身を預ける。
優しく頭を撫でられる。
胸に顔を埋めると、いつもの柔軟剤の匂いがする。
——ああ、好きだ。
貴良の背中に腕を回して、悠心はしばらく肩を震わせていた。
その後、船内に戻って個室で少し休んだ。温かな室内で、ソファで二人で横並びに座る。悠心は貴良の肩に頭を預けて、手を繋いでいた。
やがて、控えめな足音が近づいて来た。
「貴良様、矢沢様。よろしいでしょうか」
加藤の声だった。ハッとして慌てて貴良にもたれていた体を起こすと、貴良が少し残念そうな顔をする。
「なんだ」
「旦那様がご到着になりました」
その言葉に、貴良が「来たか」と腰を上げる。
「え、誰?」
「父だ」
「はあ、父ね……。父……。えっ!?」
思わずバッと立ち上がった。
「ち、父って、お、親父さん!?」
「ああ。そうだ」
さらりと告げた貴良に、悠心は弱々しく悲鳴を上げた。
「だ、だから、そういうの先に言えって……!!」
「……すまん」
少しばつが悪そうに謝る貴良。悠心は今度は別の意味で泣きそうになった。
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