26 / 49

第26話 生涯

「いいえ。お会いするのは初めてでございます」 「あ、そうなんすね。すいません」  そう答えながらも、悠心はもう一度女性の顔を見た。  何かが引っかかったが、結局その正体はわからなかった。    船内にいるほとんど全員と顔合わせをしたところで、悠心は疲れ果てていた。  気がつけば猫背になってしまうのを懸命にこらえ、敬語も崩れそうになるたびに言葉に詰まる。慣れない革靴を履いた足も痛くなってきた。  こんなに大切な場に出るなら、事前に敬語の練習とかしてきたのに……!  そう思い、少し恨み目で貴良を見上げる。貴良は悠心を見ると、何かを察したように腰にそっと手を当てた。 「少し抜けるか」  そう言って、貴良に連れられる。人々の間を抜け、船内の奥へと進んでいく。  やがて貴良が扉を開けると、冷たい潮風が頬を撫でた。 「わ……」  目の前いっぱいに、夜の海が広がっていた。 「すげえ……」  思わず呟いて手すりの方へ向かう。力強い音と共に波を掻き分けて進む船体に、悠心はきらきらと目を輝かせた。街の明かりを反射して光る波が幻想的で、ため息を吐く。 「座れ」  貴良に促されて見てみると、そこにはソファがある。 「助かったぁ……」  言われるが早いか、悠心はソファにどさりと腰を下ろした。 「足、痛かっただろう」 「気づいてたのか?」 「途中から歩き方が変わっていた」  悠心は恋人を見上げて笑った。 「ありがと」  貴良は薄く口角を上げる。 「てか、こんな大切なことなら、事前に言っといてくれよ。そしたら俺だっていろいろ練習したり、心構えできたりしたのに……」  少し膨れながら言うと、貴良がハッとしたように瞬きをした。 「確かに……そうだな。すまない。……つい、お前を紹介したい気持ちが先走ってしまった」 「そ、そうなん? じゃあ、仕方ねえけど……」 「次からは気をつける」  そう言った貴良に、悠心はソファから身を起こした。 「次もあんの?」 「嫌か?」  ぶんぶんと首を振る。 「そんなことねえよ。確かにちょっと疲れるけど……でも、嬉しい」  へへ、と笑って、それから少し俯いた。 「……でもさ、大丈夫かな」 「何がだ」  悠心は自分の足元に目を落とす。 「黒条だし、全然庶民だし。敬語もあんま自信ねえし……」  貴良がどんなコミュニティに属しているか。それを今日は嫌と言うほど知った。 「俺、わりとなんでも顔に出ちまうし」  今日会った者たちは誰もが優雅な所作で、そして内心では悠心をどう思っていたのかは知らないが、表面上はにこやかに挨拶をしてきた。  感情を表に出さない。それがきっとコミュニケーションの取り方なんだろう。  心が見えないやり取りに、少し疲弊していた。  貴良があまり表情が豊かではないのは、もしかしたらそういう教育が理由なのだろうか。 「悠心」 「ん?」  貴良が隣に静かに腰掛ける。ぐっと近い距離に、一瞬どきりとする。 「俺は、そんなお前が好きだ」  まっすぐに見つめられる。思わず目を見開くと、貴良に頬を優しく撫でられた。 「面白みも何もない俺といて、楽しそうにしてくれた。桜井ではなく、俺個人を見てくれていた。ころころと変わる表情も、俺のために頑張る姿も……全部、目が離せない」  珍しく饒舌な貴良。その目には、はっきりと悠心への熱が灯っていた。 「悠心が、俺を変えてくれた」 「貴良……」  見つめあって、悠心はきゅっと唇を引き結んだ。 「お、俺も……!」  ——もともと楽しいことや、刺激的なことが好きだった。中学に上がってすぐ、やんちゃな先輩たちとつるむようになって、夜遊びを覚えた。彼氏もたくさんいた。中にはほろ苦い恋もあった。    でも、目が合ってうれしくなったり、話すだけで緊張したり、タバコや酒を控えたり、勉強を始めたり。失恋しても、相手のことを想い続けたり。  そんな自分は初めてだった。  そして……そんな自分は、今までの自分よりも、好きだった。 「俺も、貴良のおかげでちょっと変われた気する。てか、変わりたいって思えた」  はにかむと、眩しそうに見つめ返される。  手を握られて、指を絡め合う。 「悠心」  名前を呼ばれる。貴良の目に、悠心が映っている。 「俺と生涯を共にしてくれ」  波の音が消えた。    ——生涯。  貴良の目に映る悠心の顔が、泣きそうに歪んだ。  しばらく、言葉が出なかった。  気持ちを伝え合って、交際が始まって、一月も経っていない。しかもお互い、まだ高校生で。それなのに、生涯を共にしてくれと言う。  とてつもなく重い。  普通なら、とてもじゃないが頷くことなどないだろう。  それでも、悠心の口から出て来たのは。 「……い、良いの?」  やっと絞り出した声は、少し震えていた。  掠れて潮風にかき消されそうなそれを、貴良はしっかりと拾って頷く。 「悠心。お前だから、欲しい」  飾り気のない剥き出しの思いが、まっすぐに胸に沁みる。  気がついたら、悠心は頷いていた。 「う、うん。うん……、うん……」  何度も頷く。  そのうち、熱いものが頬に一筋こぼれる。 「俺も、欲しい。貴良のこと、欲しい……っ」  気持ちのまま言葉にすれば、体を引き寄せられた。そのまま抱き込まれて、悠心は世界で一番安全で幸せな場所に身を預ける。  優しく頭を撫でられる。  胸に顔を埋めると、いつもの柔軟剤の匂いがする。  ——ああ、好きだ。  貴良の背中に腕を回して、悠心はしばらく肩を震わせていた。  その後、船内に戻って個室で少し休んだ。温かな室内で、ソファで二人で横並びに座る。悠心は貴良の肩に頭を預けて、手を繋いでいた。    やがて、控えめな足音が近づいて来た。 「貴良様、矢沢様。よろしいでしょうか」  加藤の声だった。ハッとして慌てて貴良にもたれていた体を起こすと、貴良が少し残念そうな顔をする。 「なんだ」 「旦那様がご到着になりました」  その言葉に、貴良が「来たか」と腰を上げる。 「え、誰?」 「父だ」 「はあ、父ね……。父……。えっ!?」  思わずバッと立ち上がった。 「ち、父って、お、親父さん!?」 「ああ。そうだ」  さらりと告げた貴良に、悠心は弱々しく悲鳴を上げた。 「だ、だから、そういうの先に言えって……!!」 「……すまん」  少しばつが悪そうに謝る貴良。悠心は今度は別の意味で泣きそうになった。    

ともだちにシェアしよう!