39 / 49
外伝 飴を溶かす⑧(那智視点)
8 融解、硬化
「うあっ……」
中学三年の秋。
突然、悠心に初めてヒートがきた。
悠心の部屋でいつものようにだらだらとしていると、甘い香りが部屋中を覆った。
もう嗅ぎ慣れたムスクのような匂いだが、いつもよりも濃厚で、脳が痺れるような感覚に陥る。
向かいに座る悠心の顔が赤い。困惑したように苦しげな表情を浮かべて、浅い呼吸をしながら胸を押さえている。
悠心の額に、首に、鎖骨に、汗が伝う。
赤く染められた髪がしっとりと汗で湿っていた。
那智はごくりと喉を鳴らした。
抗いがたい、甘くて濃厚な匂いが鼻をつく。
悠心と目が合う。
アーモンド形の目が、確かに那智を求めていた。
そう感じ取った瞬間、那智は悠心を引き倒していた。
白くて意外に華奢な鎖骨に顔を埋める。
悠心の甘いフェロモンに包まれ、頭のてっぺんまで痺れるような充足感に、くらくらする。
名前を呼びながら、黒い首輪を噛む。
外してしまいたい衝動に駆られながら首輪に歯を突き立てると、悠心の体がわずかにこわばる。
その反応にちくりとしたものを胸に感じながら、知らないふりをして悠心に触れ続けた。
熱に浮かされるような行為の中、恋人の顔なんて一瞬たりとも浮かばなかった。
悠心にも付き合っていた男がいた。それでも、止まらなかった。むしろ、悠心に恋人がいるのに、求められているという事実に興奮さえした。
つながる瞬間、また痛くて泣くのではないか、と一瞬だけ恐怖がよぎったが、悠心は痛がるどころか悩ましげに吐息を吐いて、那智の体を引き寄せた。
「なち……っ」
悠心のかすれた高い声が、自分の名前を切なそうに呼ぶ。
その瞬間、乾いていた胸の中心が喜びに震えた。
まるで恵みの雨のように、悠心の声は那智の中心に染み込んだ。
当然その後、那智と悠心は恋人たちと別れた。
悠心は罪悪感を持っていたようだったが、那智はそれほど気にしなかった。
悠心はそんな那智に「ひでえやつ」と少し引いていたが、自分も共犯者だからか、それ以来何も言わなくなった。
それから、那智と悠心の関係に、体の関係が追加された。
◆
「なあ、那智。減煙しろよ」
いつものように体を重ねた後、タバコを吸う那智に悠心が苦言を呈した。
「減煙ね……」
最初は煙たくて大して美味くもなかったタバコが、今ではすっかり手放せないものになっていた。
「禁煙とは言わねえけどさ。ほら、これやっから」
そう言って渡されたのは飴玉だった。
「飴?」
「口寂しいならそれ舐めとけよ」
「……ガキみてえでやだ」
「ワガママ言うな」
悠心は那智からタバコを奪って自分の口に運ぶ。そして、そのまま何口か吸った後、ベッドサイドのテーブルにある灰皿へ吸い殻を押し付けた。
那智は包み紙から飴を取り出して口の中に放り込んだ。
酸味があって、少し甘いレモン味は思ったよりも口に合った。
しばらく飴を口の中で転がす。
外は、さらさらと雨が降り始めていた。
「……そろそろだな」
ふと、悠心がスマホの日付を見ながらつぶやいた。
「ああ」
那智は静かに頷いて目を閉じる。
優しい目をした愛犬を思い出した。
「フォス、向こうでどうしてんのかなあ」
悠心が窓の方を見ながらつぶやく。
「どうだろうな……多分、元気に走ってんじゃねえかな」
「はは。可愛いな」
可愛い。悠心が小さく笑って言ったその言葉に、胸の隅が震える。
あの時も、悠心はフォスを優しい目で見て、可愛いと言ってくれた。
那智は悠心の赤い髪の毛を撫でる。
あの頃は金髪だった。今は、色が違う。だけど、腕の中にある。
「あの時は……助かった」
「ん?」
「送ってくれたろ。……だから、間に合った」
「そっか」
悠心が口端を持ち上げて、目を和らげた。
「懐かしいな。あの時は那智、黒髪だったよな。小さかったし、可愛かったわ」
「今でも可愛いだろうが」
「何言ってんだ」
悠心がすり、と那智の胸に頭を擦り付けて笑う。
もうすっかり那智の身長は悠心を大きく抜かして、髪の色も金になり、耳にも唇にもピアスが開いている。
「まさか、悠心とこうなるなんて思わなかったけどな」
「たしかに」
ピンクの豹柄毛布の中で、足先が静かに擦れ合う。
「……てかさ、那智は進路どうすんの」
「ん? んー……お前はどうすんの」
そう聞き返しながら、先日父親と久しぶりに交わした会話をふと思い出した。
『——この中のどれかから決めろ』
そう言われて並べられた数冊のパンフレット。どれも名門校のものだった。
その中には白蘭もあった。
那智はパンフレットを開きもせず、これ見よがしにゴミ箱に放り込んだ。
しかめつらをした父親を無視して、踵を返す。
『あ、俺、中学卒業したら家出るから。アテならあるし』
振り返って言い放つと、父親がわずかにほっとしたような顔をした。それから、ハッとしたように眉をひそめる。
『アテってなんだ。また変な輩じゃないだろうな。良いか、お前は香山の――』
『そういうとこ』
『……なんだ?』
那智は軽蔑を込めて、父親を睨みつけた。
『そういうところが嫌いなんだよ。体面と自分のメンツしか見てねえ。あんたも……あの女も』
低く吐き捨てて、今度こそ父親に背を向けた。
「……」
その時のことを思い返して、一瞬気分が地の底へ沈む。
「俺は黒条行く」
その時、悠心の声で意識が引き戻された。
「んじゃ俺も」
そう答えると、悠心が「はあ?」と目をわずかに見開く。
「そんなんで良いのかよ」
そう言う悠心に、那智は目を細めた。
「寂しいかなって思って」
悠心はしばらく那智の横顔を見つめた後、いつものように明るく笑った。
「別に寂しくねえし!」
そう言いながらも嬉しそうな悠心に、那智の胸の中の隙間風が一瞬止む。
那智は飴玉を口の中で転がしながら、派手な髪をわしわしと撫でた。
「やめろや!」
「はいはい」
薄い笑みを浮かべる。
そのまま、また悠心の腰を撫でた。
「ちょ、もうヒート終わったって」
キスをする。リングピアスは同じ場所に開けたから、ぶつかり合わない。
飴を悠心に口移しすると、悠心からまた飴が戻ってくる。
「別に良いだろ。減るもんでもねえし。試したい体位あんだよ」
「え、なになに、どんなん」
途端に好奇心で乗り気になる悠心に苦笑しながら、那智は悠心の体に再び埋もれた。
――それから二年後。
那智は思いもしていなかった。
自分と悠心の関係が、たった一人の男によって崩されるだなんて。
『え……好き……』。
そう言って見たこともないように顔を赤らめ、乙女のように目を潤ませている別人のような悠心。
その顔を見て、胸騒ぎがした。
口の中で転がしている溶けかけの飴が、ざらついて尖り、舌にぴりりとした痛みが走った。
番外編『飴を溶かす』end
ともだちにシェアしよう!

