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外伝 飴を溶かす⑧(那智視点)

8 融解、硬化 「うあっ……」  中学三年の秋。  突然、悠心に初めてヒートがきた。  悠心の部屋でいつものようにだらだらとしていると、甘い香りが部屋中を覆った。  もう嗅ぎ慣れたムスクのような匂いだが、いつもよりも濃厚で、脳が痺れるような感覚に陥る。    向かいに座る悠心の顔が赤い。困惑したように苦しげな表情を浮かべて、浅い呼吸をしながら胸を押さえている。  悠心の額に、首に、鎖骨に、汗が伝う。  赤く染められた髪がしっとりと汗で湿っていた。  那智はごくりと喉を鳴らした。  抗いがたい、甘くて濃厚な匂いが鼻をつく。    悠心と目が合う。  アーモンド形の目が、確かに那智を求めていた。    そう感じ取った瞬間、那智は悠心を引き倒していた。  白くて意外に華奢な鎖骨に顔を埋める。  悠心の甘いフェロモンに包まれ、頭のてっぺんまで痺れるような充足感に、くらくらする。  名前を呼びながら、黒い首輪を噛む。  外してしまいたい衝動に駆られながら首輪に歯を突き立てると、悠心の体がわずかにこわばる。  その反応にちくりとしたものを胸に感じながら、知らないふりをして悠心に触れ続けた。    熱に浮かされるような行為の中、恋人の顔なんて一瞬たりとも浮かばなかった。  悠心にも付き合っていた男がいた。それでも、止まらなかった。むしろ、悠心に恋人がいるのに、求められているという事実に興奮さえした。    つながる瞬間、また痛くて泣くのではないか、と一瞬だけ恐怖がよぎったが、悠心は痛がるどころか悩ましげに吐息を吐いて、那智の体を引き寄せた。 「なち……っ」  悠心のかすれた高い声が、自分の名前を切なそうに呼ぶ。    その瞬間、乾いていた胸の中心が喜びに震えた。  まるで恵みの雨のように、悠心の声は那智の中心に染み込んだ。    当然その後、那智と悠心は恋人たちと別れた。  悠心は罪悪感を持っていたようだったが、那智はそれほど気にしなかった。  悠心はそんな那智に「ひでえやつ」と少し引いていたが、自分も共犯者だからか、それ以来何も言わなくなった。  それから、那智と悠心の関係に、体の関係が追加された。  ◆   「なあ、那智。減煙しろよ」  いつものように体を重ねた後、タバコを吸う那智に悠心が苦言を呈した。 「減煙ね……」  最初は煙たくて大して美味くもなかったタバコが、今ではすっかり手放せないものになっていた。 「禁煙とは言わねえけどさ。ほら、これやっから」  そう言って渡されたのは飴玉だった。 「飴?」 「口寂しいならそれ舐めとけよ」 「……ガキみてえでやだ」 「ワガママ言うな」  悠心は那智からタバコを奪って自分の口に運ぶ。そして、そのまま何口か吸った後、ベッドサイドのテーブルにある灰皿へ吸い殻を押し付けた。  那智は包み紙から飴を取り出して口の中に放り込んだ。  酸味があって、少し甘いレモン味は思ったよりも口に合った。    しばらく飴を口の中で転がす。  外は、さらさらと雨が降り始めていた。 「……そろそろだな」  ふと、悠心がスマホの日付を見ながらつぶやいた。 「ああ」  那智は静かに頷いて目を閉じる。  優しい目をした愛犬を思い出した。 「フォス、向こうでどうしてんのかなあ」  悠心が窓の方を見ながらつぶやく。 「どうだろうな……多分、元気に走ってんじゃねえかな」 「はは。可愛いな」  可愛い。悠心が小さく笑って言ったその言葉に、胸の隅が震える。  あの時も、悠心はフォスを優しい目で見て、可愛いと言ってくれた。  那智は悠心の赤い髪の毛を撫でる。  あの頃は金髪だった。今は、色が違う。だけど、腕の中にある。 「あの時は……助かった」 「ん?」 「送ってくれたろ。……だから、間に合った」 「そっか」  悠心が口端を持ち上げて、目を和らげた。 「懐かしいな。あの時は那智、黒髪だったよな。小さかったし、可愛かったわ」 「今でも可愛いだろうが」 「何言ってんだ」  悠心がすり、と那智の胸に頭を擦り付けて笑う。    もうすっかり那智の身長は悠心を大きく抜かして、髪の色も金になり、耳にも唇にもピアスが開いている。 「まさか、悠心とこうなるなんて思わなかったけどな」 「たしかに」  ピンクの豹柄毛布の中で、足先が静かに擦れ合う。   「……てかさ、那智は進路どうすんの」 「ん? んー……お前はどうすんの」    そう聞き返しながら、先日父親と久しぶりに交わした会話をふと思い出した。   『——この中のどれかから決めろ』  そう言われて並べられた数冊のパンフレット。どれも名門校のものだった。  その中には白蘭もあった。  那智はパンフレットを開きもせず、これ見よがしにゴミ箱に放り込んだ。  しかめつらをした父親を無視して、踵を返す。 『あ、俺、中学卒業したら家出るから。アテならあるし』  振り返って言い放つと、父親がわずかにほっとしたような顔をした。それから、ハッとしたように眉をひそめる。 『アテってなんだ。また変な輩じゃないだろうな。良いか、お前は香山の――』 『そういうとこ』 『……なんだ?』  那智は軽蔑を込めて、父親を睨みつけた。   『そういうところが嫌いなんだよ。体面と自分のメンツしか見てねえ。あんたも……あの女も』  低く吐き捨てて、今度こそ父親に背を向けた。   「……」    その時のことを思い返して、一瞬気分が地の底へ沈む。   「俺は黒条行く」  その時、悠心の声で意識が引き戻された。   「んじゃ俺も」  そう答えると、悠心が「はあ?」と目をわずかに見開く。 「そんなんで良いのかよ」  そう言う悠心に、那智は目を細めた。 「寂しいかなって思って」  悠心はしばらく那智の横顔を見つめた後、いつものように明るく笑った。 「別に寂しくねえし!」  そう言いながらも嬉しそうな悠心に、那智の胸の中の隙間風が一瞬止む。  那智は飴玉を口の中で転がしながら、派手な髪をわしわしと撫でた。 「やめろや!」 「はいはい」    薄い笑みを浮かべる。  そのまま、また悠心の腰を撫でた。 「ちょ、もうヒート終わったって」  キスをする。リングピアスは同じ場所に開けたから、ぶつかり合わない。  飴を悠心に口移しすると、悠心からまた飴が戻ってくる。   「別に良いだろ。減るもんでもねえし。試したい体位あんだよ」 「え、なになに、どんなん」  途端に好奇心で乗り気になる悠心に苦笑しながら、那智は悠心の体に再び埋もれた。      ――それから二年後。  那智は思いもしていなかった。    自分と悠心の関係が、たった一人の男によって崩されるだなんて。  『え……好き……』。  そう言って見たこともないように顔を赤らめ、乙女のように目を潤ませている別人のような悠心。    その顔を見て、胸騒ぎがした。  口の中で転がしている溶けかけの飴が、ざらついて尖り、舌にぴりりとした痛みが走った。   番外編『飴を溶かす』end

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