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完結編 獣と乙女②
パジャマに着替えた悠心は、貴良が手配したルームサービスに目を輝かせた。
「うおおお……美味そう」
式の最中も豪勢な料理がずらりと並んでいた。けれど、食べる余裕も時間もなかったため胃は空っぽだ。
美味しそうな和牛ステーキの香ばしい匂いが鼻に抜ける。腹が盛大に鳴った。
テーブルマナーなんて気にもせず、ナイフで雑に切って大口でステーキを頬張る。
「ん〜……!! 最高……!!」
バターライスをかきこみ、春キャベツのポタージュをスプーンも使わずに飲み干す。
我ながら行儀が悪いとは思ったが、ほとんど丸一日何も食べていないのだ。
食事を口に入れると舌の付け根がじんと痺れて、少しずつ体に力が戻ってくる。
「ほら」
がっついて食べていると、目の前にグラスが差し出された。
「さんきゅ」
グラスを受け取ってごくごくと音を鳴らして飲み干す。
「ぷはあ……!」
そこで大きく息をついて、ようやく悠心は少し余裕を取り戻した。
「えーっと……」
きちんとカトラリーを持ち、肉をちまちまと切り始める。
「いつも通り食べろ。俺しか見ていない」
貴良に薄く笑われた。悠心はじわじわと胸の奥が温かくなっていく。
「た、貴良ぁ〜……!」
思わずカトラリーを置いて感動していると、貴良は笑みを浮かべたまま上品に食事を口に運んだ。
——貴良の、こういうところがたまらなく好きだ。
自分は作法を崩すわけではない。けれど、悠心に強制はしない。
悠心は大きく切った肉を頬張りながら、幸せな気持ちでディナーを堪能した。
悠心はここ最近のことを思い出す。
『目上の方に「了解」はお使いにならない方がよろしいでしょう』
『ご紹介を受けた際は、先方がお名前を名乗り終えてからご挨拶を』
『お食事の際は、カトラリーは外側からお使いください』
『悠心様、もう少しだけ胸を張ってください』
『こちらは海外のお客様への基本的なご挨拶で——』
散々、加藤からマナー指導を叩き込まれた。
俺はやればできる子、俺はやればできる子、Y D K 、愛する貴良のために……。
そう自分に言い聞かせながら必死で食らいついてきた。けれど、やっぱりどうしてもしんどくなる。
最初は少し楽しかった。今まで気にもしていなかった礼儀作法一つ一つにきちんと意味があることも初めて知ったし、自分がどんどんまっとうな人間になっていくような気がして、嬉しかった。
別に今までの自分を卑屈に捉えているわけではない。ただ、校則違反や飲酒喫煙は日常茶飯事、中学時代はバイクの無免許運転だってしてきた。自分が世間的に見てどう思われているかなんて充分知っている。
今まではそんな自分を変える気なんてなかったし、機会もなかった。だけど、貴良に出会って、桜井家に婿入りすることが決まって、少しずつ変わりたいと思うようになっていた。
だから、こうしてマナーを学んだり勉強をしたりすることは楽しかった。
だけど、姿勢を正されるたび。言葉遣いを指摘されるたび。本心を見せないような笑顔を浮かべなければならないたび。
だんだん、自分が誰なのか分からなくなる時が増えた。
指導してくれる加藤が悪いわけではない。むしろ感謝している。
そうではなくて、だんだんと自分が『矢沢悠心』ではなくて、『桜井貴良の運命の番 』という、なにか別の生き物にされたような気がしていた。
貴良と交際を始めてすぐに、貴良の正式な婚約者として迎え入れられた。それはものすごく嬉しかったのだが、一点だけずっと引っかかっていることがある。
『検査の数値には異常がないようだ。素晴らしい』
正式に婚約をする前に、婦人・オメガ科で身体検査をされた。生殖機能の程度や病気の有無を調べる、いわゆる『ブライダルチェック』だ。
オメガは男性であっても子宮が存在するし、男性器とは別に特有の生殖口がある。そこは女性の膣のように刺激と興奮で濡れるようになっている。
悠心の検査結果について、機能に問題がないことを知ると、貴良の父親である貴成は満足そうに頷いていた。
『ぜひ、元気な子を産んでくれ』
そう肩を叩かれた。はたから見れば、義父が孫の顔が見たいと期待をしている——それだけなのかもしれないが、なぜか小さな違和感が残った。
貴成や加藤をはじめ、桜井家は悠心を大切に扱ってくれている。それはもう、過保護なほどに。
だが、その大切さは『貴良の嫁』というよりは、もっと個人を殺した——そう、『次期後継者を産むための母体』として見られているような気がしてならない。
貴成は分かりやすく、悠心と顔を合わせるたび、体調はどうかと聞いてくる。心配してくれるのは嬉しいが、ことあるごとに子供のことについて言われる。
悠心と貴良は世にも珍しい、運命の番だ。
生物的な相性が極めて高いとされ、運命の番たちの間に産まれる子は知能や運動神経等、あらゆる能力に秀でることが分かっている。けれど、運命の番に出会う確率はごく稀で、ほとんどの人が出会わないまま人生を終えていく。
『運命の番を見つけるなんて、さすが桜井様』
『お二人の間に産まれるご令孫が、今から楽しみですね』
『これで、桜井家もさらに盤石 ですな』
社交パーティーのたびにかけられる言葉たちに、貴成はひどく満足そうに笑う。
運命の番だから、悠心は貴成に認められた。
それはもう紛れもない事実だ。
最初は、貴良と正式に結婚できる材料になってラッキーとしか思っていなかった。そのうち、いくらでも交流はできる。人柄は後で知ってもらえれば良いと思っていた。
けれど桜井家は皆が忙しく、ほとんど家にいることがない。そのため、悠心も義両親だというのにまだ数えるほどしか顔を合わせたことがない。
来月からは二人のための新居に移り住むことになっている。桜井家の敷地内にある別邸だ。新しく悠心たちのために建てられたそこは、やっぱり気後れするほど立派だった。
もう完成していて、いつでも住める。けれど、悠心は入居を引き延ばしていた。
夢の同居生活。そのはずだった。
けれど、悠心はなかなかふんぎりがつかなかった。
最近では夜な夜なバイクで爆走をするようになった。
フルフェイスのヘルメットをかぶって、誰からも悠心だと気が付かれないようにして、ただひたすら夜の道路を走る。顔に風は感じられないが、それだけが悠心の唯一の心休まる時間になっていた。
那智と宏樹も誘うが、集まりが悪くて一人で走ることも多い。二人は最近、なにやら忙しいらしい。
昔とは違うんだな、と思う。
以前なら声をかければ、どちらかは大抵つかまった。三人で馬鹿みたいに走って、くだらないことで笑っていた。
これが、変わっていくってことなんだろうか。
——そして、待ちに待った初夜。
そのはずなのに……なぜか鉛を飲み込んだように気分が晴れなかった。
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