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完結編 獣と乙女⑦

 ◆ 「……ばかじゃねえの」  翌日の昼過ぎ。悠心はガラガラに掠れた声を漏らした。もう指一本たりとも動かせない。 「……すまん」  ベッドの前の床の上に座る貴良が、バツが悪そうに謝る。 「……すまんで済んだら、ポリなんていらねえ……」 「……ポリ?」 「……」  悠心は説明するのも疲れて、無言で枕に顔を埋めた。  げっそりとしながら悠心がベッドに沈んでいると、貴良が水の入ったコップを差し出してくる。  それを受け取って少し飲み下すと、ガサガサになった喉をじわりと水が潤していく。 (どこが……禁欲的なん……?)  正反対じゃないか。こんなの聞いていない。  セックスは慣れていると思っていた。でも、最後の方はもうよく覚えていないほど激しく抱かれた。  初めてだ、と言っていたはずなのに。  なんだか詐欺に遭った気分だ。  ふと、うなじを撫でられる。  思わずぴくりと震えると、貴良が感慨深そうに悠心のうなじを見つめていた。 「……ちゃんと、跡ついてる?」 「ああ」  貴良に噛まれたそこ。自分ではまだ確認していない。だけど、確かにそこには跡がついているようだ。 「やっとだ」  優しくうなじを撫でられて、思わず口元が緩む。 「……そんなに、待ってたん?」 「本当は、付き合ってすぐに番になりたかった」 「そうなの」  思わず間の抜けた声が漏れた。まさか、そんなふうに思っているなんて思っていなかった。 「全然そんな感じしなかったけど」 「我慢していた」 「……この二年、ずっと?」 「ああ」  頷く貴良に、悠心は胸がくすぐったくなるのを感じると同時に、少し怖くなった。 「本当、貴良って決めたことにはとことんだよな」  貴良は苦笑した。 「この件に関しては何度も揺らぎそうになったがな」 「……へえ」  にやにやとする。  揺らぎそうになった。そんなに悠心と番になりたかったのか。 「悠心が高校を卒業するまでは、待つと決めていた」 「なんで?」  首を傾げると、貴良は少し目を伏せた。 「……父さんには、運命の番とわかった時から、早く番になれと言われていた。他のアルファに取られる可能性を残す必要はない、と」 「まあ、たしかに」  苦笑する。いかにも、合理主義の塊のような貴成の言いそうなことだ。  顔を合わせれば『子供を楽しみにしている』と散々言われてきたのだ。簡単に想像がつく。 「でも、じゃあなんで?」  別に在学中でも良かったのではないか。そう思って貴良を見上げると、貴良は悠心の頭を優しく撫でた。 「番になったら、お前は今までと同じに過ごす訳にはいかなくなる。桜井家だけじゃない。周囲もお前に注目する。それは交際中の比じゃないだろう」 「……確かに」  婚約した後や、昨日の結婚式でそれは散々痛感した。思わず顔をしかめる。 「俺が早く欲しいという理由だけで、お前の人生を急がせたくなかった。……だから、待っていた」 「貴良……」  目を見開いて、目の前の堅物な夫を見つめる。胸の奥がじわじわと熱を持っていく。 「俺は、自由に楽しくやっている悠心が好きだ」  ——付き合ってから二年間。  キスより先へ進みたくて仕方がなかったのは、悠心だけではなかったらしい。いや、むしろ貴良の方がずっと強く我慢していたのかもしれない。  貴良の肩をそっと掴んで、引き寄せる。口付けをすると、抱きしめられる。 「……でもさ」  唇を離して、悠心は囁いた。 「俺、貴良になら、高校ん時に噛まれても良かったよ」 「そうだろうな」 「……わかってたん?」 「ああ」  貴良は悠心のうなじをそっとなぞる。 「お前は拒否しない。だから、俺が待つ必要があった」  指を絡める。そこには、揃いの指輪が光っている。 「……貴良」 「ん?」 「ありがと」  ぼそりと呟くと、貴良が薄く笑った。  結婚式の時、ずっと言われていた言葉たちが脳裏に浮かぶ。  ——運命の番。  ——桜井家の伴侶。  ——優秀な子ども。  誰も、悠心そのものを見ていないような気がした。  自分でも、いつのまにか自分を取りこぼしそうになっていた。  けれど、貴良のまっすぐな想いと行動が、悠心自身を肯定してくれる。 「……俺さ、ちょっと怖かったんだ」 「怖かった?」 「うん」  貴良の眉が寄る。  誰にも打ち明けなかった言葉を、ぽつりぽつりとこぼす。 「みんな俺じゃなくて、俺が産む子供の話ばっかしてて。まあ、運命の番だから、こうやって貴良といれるんだけどさ……それで上等だと思ってたし。でも……やっぱ、たまにわけわかんねえくらい不安になって……」 「……悠心」  情けない、弱々しい声が漏れる。 「貴良のことまで疑って……本当、バカだよな」  そう言って貴良の胸に頭を擦り付ける。  貴良はしばらく黙っていた。 「俺は」  やがて、貴良が口を開く。悠心は顔を上げた。 「お前が運命じゃなくても、好きだ。欲しいのは、悠心しかいない。それに変わりはない」  きっぱりと言い切る顔に迷いはない。  悠心は貴良を見つめて、それからくしゃりと相好(そうごう)を崩した。 「……だよな。俺も」  再び、唇を寄せる。 「俺も、貴良だから、好き」  そう言って、悠心は幸福な気持ちで好きな男にキスをした。  うなじの噛み跡が、愛おしく感じられた。

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