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二章 第四皇子、白百合に謀略を聴く。(2)

 気づけばてのひらを相手の白い頬に触れさせて、意図せず、親指の腹で薄いくちびるをなぞっていた。 「殿下……?」  瓔偲は抵抗しなかったが、(いぶか)るような声を上げた。  くちびるに触れていた手指がほんのりとぬくもりを帯びた吐息を感じ、それで燎琉は、はっと我に返った。 「か、らだ……その……大丈夫、だったのか?」  手を離しながら言い訳のように口にしたのは、いかにも今更な、そんな問いだった。  瓔偲がはたはたと(またた)く。  最初は問いの意味がわからなかったのか、しばらく不思議そうにしていたが、やがてこちらの意図を理解したらしく、その口許がふわりと笑みのかたちにゆるんだ。 「はい。お気遣いありがとうございます」  相手は静かに答えた。  燎琉は、ほ、と、安堵の息を漏らす。  けれども、それがいったい、相手が無事を告げたことに対しての安堵か、それとも己がいま無意識にとってしまった行為を誤魔化(ごまか)せたことにほっとしたのだったかは、自分でもわからなかった。  そして、もしも後者ならば――……いったい、誤魔化すべき何が、我が心のうちには生じているというのだろうか。  燎琉は己の感情を掴みかねて、眉間に皺を寄せた。 「殿下は……お優しくていらっしゃいますね」  瓔偲がそんなことを言った。 「べつに」  燎琉はつい、ぶっきらぼうに返事をしている。思わず相手から顔を背けてしまった後で、ちらりと横目に相手を窺うと、瓔偲はやっぱりくちびるに()いたしずかすぎる微笑を崩さぬままだった。  いったいこの平静は、彼が自分よりも十歳(とお)近くも年齢(とし)が上だという、それゆえの余裕なのだろうか。燎琉は、ふと、そんなことを思う。 「お前は……いいのか? その……俺との、婚姻のこと」  それよりもなによりも、不慮の事故によって燎琉と間で番の関係が結ばれてしまったことを、彼はどう受けとめているのだろう。  ふいにそれが気にかかって、燎琉は顔を上げ、もうすぐにも自分の伴侶(はんりょ)となると定められた相手を見詰める。  燎琉の問いに、瓔偲はしばし黙した。  が、やがて真っ直ぐに燎琉を見返すと、言った。 「よい……わけがありません」  それは、あまり感情の籠らぬ声だ。  はっきりと聴こえたその内容に、燎琉は息を呑んだ。  だが、そんなこちらを気に留めるふうもなく、瓔偲は続ける。 「わたしは官吏です。下官に過ぎぬとはいえ、(まつりごと)の一端を担い、国のために尽くすべき身……癸性とはいえ、誰かに(めと)られ、妻となり、母となる人生など、これまで考えたこともございませんでした。それが、急に皇子殿下と婚姻せよだなどと命ぜられて、すぐに受け入れられましょうか? ――よい、わけがない。殿下はなぜ、あのとき、わたしを()んで……つがいになさってしまわれたのか」  黒曜石の眸が、真っ直ぐに燎琉を見る。その眼差しには、こちらをたじろがせるような、強い光が宿っていた。  燎琉は目を(みは)って、じっと息を詰めた。 「あ……」  なにを言って良いかもわからないまま、それでも何か言わずにはいられなくて、意味のない(うめ)き声のようなものをあげた刹那だ。 「そう言って……殿下をお恨み申せばよろしいのですか?」  ふと、瓔偲はやわらかく相好(そうごう)を崩した。   恨めばよいのかという不穏な言葉とはうらはらののふんわりとした表情に、燎琉(りょうりゅう)は困惑して言葉を失う。それを見て瓔偲(えいし)は、ふ、と、口許をゆるめた。 「そんなことを言ってみたところで、でも、それがいったい何になるというのでしょう? すでに起きてしまったことですから……受け入れるよりほか、しようがありません」  目を細めて、やわらかく微笑したままで言う。それから瓔偲は、燎琉に向かって、軽く頭を下げてみせた。 「申し訳ございません、殿下。先程のは、ほんの冗談(かるくち)にございます。わたしは殿下をお恨みなどしておりません。――すべて陛下の思し召し、殿下の思し召しの通りにいたす所存にございます。ですが、殿下には、わたくしの思いにまでお気遣いをいただき、ありがとう存じます」  そう言って頭を下げたときには、もう、先に瓔偲の眸に映った感情の光は、すっかり(なり)を潜めてしまっていた。  なんとも複雑なきもちで燎琉が相手を見詰めていると、顔をあげた瓔偲は、こと、と、ちいさく小首を傾げる。その動きに合わせて、絹のような、艶やかな黒髪がわずかに揺れた。 「ただ……先程申した中でも、もともと誰かと結婚するつもりがなかったというのは、本当です。わたしは、官吏として、生涯、我が身は国のために捧げようと思っておりましたから」  はたはた、と、瞬いた相手がそんなふうに言って、なんとも曖昧(あいまい)な、苦笑めいた笑みを頬に浮かべた。  すう、と、燎琉(りょうりゅう)のほうから逸らされた黒眸は、どこか遠くを眺めやるようである。結局、彼は、燎琉との婚姻についての本音をはっきり答えないままに黙り込んでしまった。  空間に沈黙(もだ)が落ちる。  痛いほどの静謐(せいひつ)の中、瓔偲は何か迷うような、言いあぐむような気配をみせていた。 「どうか、したか……?」  燎琉は堪りかねて、相手の端正な横顔に問いかける。 「言いたいことがあるなら、べつに、隠さずに言ったらいい」  そう続けると、瓔偲ははっとした様子で燎琉を見た。長い睫に縁どられた涼やかな目許が、驚いたように見開かれている。  しばらく戸惑うふうだったが、やがて、瓔偲は意を決したふうに真っ直ぐに燎琉を見詰めた。 「殿下……殿下には、信用がおける医師(くすし)に、心当たりはございますでしょうか?」  それはあまりにも唐突な言葉だった。 「医師(くすし)?」   突然変わった話題についていけず、鸚鵡(おうむ)返しにそう繰り返す。  いったいどうしたんだ、と、うかがう視線を相手に向けると、瓔偲は真摯(しんし)な眸で燎琉を見返していた。  あるいはそれは、どこか思い詰めたような表情だったのかもしれない。 「どうか、したのか……?」  燎琉が問い方を変えると、いえ、と、わずかに躊躇(ためら)う素振りを見せる。 「いいから、言え」  なにやら言いあぐむ相手に決心を促すように、燎琉はそう言葉をかけた。  瓔偲は、ふう、と、己を落ち着けるようにひとつ吐息を漏らす。それから、白くうつくしい手指(てゆび)を、しずかに(ふところ)へと忍ばせた。  取り出してみせたのは、何ら変わったところのない、ひと包みの薬包である。 「これは……?」  目の前に差し出された薬の包みを燎琉は我が手に受け取ってしげしげと眺めた。 「わたしが日頃服用していた、発情を抑制するための薬です」  瓔偲は端的にそう答えたけれども、それでもまだ、燎琉には、相手がそれを自分の目の前に出してきた意図がわからなかった。 「この薬が、どうかしたのか」  重ねて問うと、瓔偲は何かを訴えるような眼差しを燎琉に向けた。 「わたしは発情を抑制する薬を呑んでおりました……間違いなく」  強い声で、そう言う。 「二年前、いまの陛下の(おぼ)し召しにより、発情期のある()性の者にも、国官への道が開かれた。これは殿下ももちろんご存知のことかと思います。ですが、第弐性を有し、これが癸である者が国府に勤めるにあたっては、いくつか、条件が課せられる。吏部(りぶ)の医官が処方した薬を必ず服用しなければならないというのは、その規則(きまり)のうちのひとつでございます」  だからその通りに薬は服用していた、と、瓔偲は言う。 「では、なぜ……お前はあのとき、発情を起こしたっていうんだ?」  七日前、燎琉が昭文(しょうぶん)殿(でん)に足を踏み入れた時、先に室内にいた瓔偲は発情していた。それに誘引される形で燎琉も発情状態に(おちい)り、そのままふたりは身を(ちぎ)った上、つがいにさえなってしまったのだ。  だが、瓔偲が薬を服していたというならば、普通ならそんなことが――発情状態になるようなことが――起きるはずがない。 「わかりません」  瓔偲はちいさく(かぶり)を振った。 「わたしは、自分が第弐性を有することがわかってからずっと、薬を服用し続けてきました。ですが、これまで一度も、効かなかったことなどなかったのです。あのときが、初めて……だから」  そこまできて燎琉は、ようやく、いま瓔偲が信用できる医師(くすし)云々と言った意図をつかんだ。 「まさか……この薬に、なにか仕込まれた、と……? お前はそれを疑っているのか?」  燎琉は瓔偲から手渡されていまは我が手の中にある薬包をまじまじと見る。 「わかりません」  瓔偲はまたそう言って首を振った。 「確信などありません。でも……いいえ、だからこそ、調べていただきたいのです。むずかしいでしょうか?」  黒い眸が、強い光を宿して真っ直ぐに燎琉を見る。燎琉はその視線を受けて、こくり、と、息を呑んだ。 「わたしたちがつがってしまったのは、誰かの(たくら)みにはまったためだったのかもしれません」 「企み……?」 「はい。あのときわたしが身に付けていた(うなじ)を守る首輪(くびかざり)にも、細工(さいく)がなされていた可能性があります。あれもまた、法令で定められた、官製のもの……癸性の国官に着用が義務づけられているものです。本来なら、あんなにも簡単に、留め金が外れるものではないはず……誰かが、(あらかじ)め、ゆるめておきでもしなければ」 「っ、いったい誰が!?」  燎琉は思わず立ち上がって、強い口調で言っていた。  あの日、自分たちは望まずつがいとなり、そのために、いま婚姻までする羽目になっているのだ。  事故とはいえ、自分が瓔偲をつがいにしてしまったのでは事実だ。ならば父帝の命の通りに責任をとろう、と、燎琉は覚悟を決めた。  けれども、あれはそもそも、事故ではなかったのかもしれない。  誰かが、故意に、悪意を(もっ)て、自分と瓔偲とを敢えてつがわせた可能性があるということか。  誰がなんのために、と、燎琉はきつくこぶしを握りしめた。 「……わかりません」  苛立つ燎琉に、瓔偲はまた静かに首を振る。 「ただ」  そう、彼は言葉を継いだ。 「陛下は癸性の地位向上を掲げていらっしゃるけれども、まだ、癸性の者が社会に出ることへの逆風は強いことに変わりはありません。妻として、母として、家にいるべきだ、と……表だって口に出すことこそなくとも、そのように考えている者は、数多(あまた)おりますでしょう」 「……どういうことだ?」 「つまり、癸性のわたしが国官として勤めていることを、(こころよ)く思わぬ者は、いまだ、多い」  静かにこぼされた言葉に、燎琉はまじまじと瓔偲を見た。 「お前への、嫌がらせか何かだ、と」 「可能性は否定できません。もしもそうなら、それに巻き込まれた殿下には、ほんとうに申し訳なく……そのせいで、ご婚約まで駄目にしてしまって」  瓔偲は言いながら、やや顔を伏せがちにした。 「それは別に、お前のせいじゃないと言ったろ? もしも本当に誰かの企みだったというのなら、責められるべきは、その黒幕だ。ちがうか?」  燎琉はきっぱりと言って、再び瓔偲に視線をやる。すると彼は、ひどく驚いたふうに目を(みは)っていた。 「どうしたんだ?」  怪訝(けげん)に思って訊ねたが、いえ、と、相手は言葉を濁した。  それでもまだどこか戸惑うふうなのを(いぶか)るきもちはあったが、燎琉はそれ以上追及せず、もう一度椅子に腰掛けなおした。 「殿下、失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」  そこへちょうど、茶器を持った皓義が扉を開けて入ってくる。燎琉は正房へ足を踏み入れた侍者に、ちら、と、視線を向けた。 「皓義か。悪いが遣いを頼まれてくれないか」  早々に確かめるべきことがある。それで燎琉は、皓義にそう言った。 「はあ、それはもちろん、かまいませんが……急に何事です?」  皓義は茶器を卓子へ並べつつ、驚いたように目を瞬く。 「じぃを……(しゅう)太医(たいい)をここへ呼んでくれ」  ()にも(かく)にもまずは瓔偲の薬だった。これに混ぜ物がされていないかどうか、それを確認しなければならなかった。  燎琉(りょうりゅう)皓義(こうぎ)に命じて呼ぶようにいったのは、燎琉付きの太医(たいい)だった。  太医とは、皇家専属の医師(くすし)をいう。いつも燎琉を()ているのは、(しゅう)華柁(かだ)という名の老太医だった。  周太医を待つ間、燎琉は皓義が運んでくれた茶を(きっ)しながら、瓔偲(えいし)と向かい合っている。 「鵬明(ほうめい)叔父には、この件は話したのか?」  燎琉が訊ねると、いえ、と、瓔偲は首を横に振った。 「なぜだ?」  燎琉には、瓔偲の答えが意外だった。  鵬明は瓔偲にとっては直属の上司であったのだ。しかも、七日前の事故ののち――いまやそれは、事件なのかもしれないという疑いが出てきているわけだが――今日(こんにち)まで、瓔偲の身を預かっていたのも鵬明だった。  だから叔父は、瓔偲がまず真っ先に頼り、話をしていてもおかしくはない相手ではないのか。だが瓔偲は、燎琉の問いに対して、困ったように目を伏せて黙り込んだ。 「どうした?」  そう訊ねても、まだしばらくは、ただ瞬きをするばかりで口を(つぐ)んだままでいた。 「なにかあるのか……叔父上に」  鵬明に疑うべき何かがあるのだろうか、と、瓔偲の不自然な沈黙にそう勘繰(かんぐ)ると、相手は(はじ)かれたように顔を上げる。 「いえ……! ただの……可能性に過ぎません」  慌てて否定しつつも、ようやくそんなふうに口を開いた。 「この件が、単にわたしへの……()性の者への嫌がらせだというのなら、まだ、よいのです。国家の大事というわけでもございません」 「いや、たとえお前への嫌がらせだとしても、それは全然よくなはいだろうが。だって、お前の人生を歪めるようなことだ。悪戯(いたずら)にしては過ぎたことだし、許されることじゃない」  燎琉が不快に眉を(しか)めると、瓔偲はまたどこか驚いたように目を(またた)いた。 「殿下は……とても公正な方でいらっしゃいますね」  それから、ふ、と、口許をゆるめると、燎琉にはよくわからない、そんなことを口にした。 「別に普通だろ?」 「……そうでしょうか?」  どこか含みのある言い方で口にすると、相手は眉尻を下げて、ふう、と、嘆息する。けれどもそれ以上、その話題について語ることはせず、瓔偲は気を取り直したように燎琉を真っ直ぐに見た。 「殿下」 「なんだ」 「もしもこれが、わたしではなく、殿下を標的にした(たくら)みだったとしたら」 「俺?」  どういうことだ、と、燎琉も厳しい表情で瓔偲を見返した。 「標的が殿下だったと仮定すれば、これは、皇位に(から)む陰謀なのかもしれません。殿下は現皇帝陛下の皇子、しかも、皇后を御母上とされる、唯一の皇子でございます。すなわち、立太子こそまだでも、実質は皇太子に最も近い位置におられたとも言える。――それが、此度(こたび)のことで……わたしとの婚姻で、大きく、お立場が変わります」  瓔偲はそこで、ひとつ静かに呼吸した。 「先程も申しましたが、世間の、癸性の者へ向ける視線は、いまだ公正なそれとは申せません……殿下のそれとは、ちがって。癸性への風当たりは、いまだ、相当に強いものなのです。発情期を持ち、本能に支配される、(おと)った者だ、と……(はばか)ることなくそう言う者もおりますし、口に出して言わずともそのように思っている者の数は、もっともっと多いでしょう。賢明なる皇帝陛下はそれを(くつがえ)そうと様々な政策を打ってくださってはおりますが、まだまだ、そうした施策とて浸透しきってはいない状況です」 「それが俺の立場とどう関係するんだ?」 「この国の民の中にはまだ、わたしのような癸性の者を、皇太子妃として……いずれは皇后になる者として、受け入れる土壌が育ってはいないということにございます」 「つまり……お前はなにが言いたいんだ」  燎琉は腹の底にむかむかと気色の悪いものを覚えつつ、眉根を寄せた。決して、瓔偲に対して不快になったのではない。そうではなくて、彼の発言の中味は――それがこの世の現実の姿なのだとしても――聴いていて気分のいいものではなかった。  燎琉が声を低めたので、瓔偲はややたじろぐようだ。  けれどもすぐに顔を上げ、真っ直ぐにこちらを見た。 「わたしを妃として迎えることは、確実に殿下を皇太子の位から遠ざけるということです」  彼はきっぱりとそう言い切った。 「ですから、そういう陰謀であった可能性が」  それから、ちいさな声でそう付け足した。

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