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二章 第四皇子、白百合に謀略を聴く。(3)

 燎琉自身は、なにも皇太子の位を積極的に望んでいるわけではなかった。  そもそも自分は皇帝の第四皇子なのだ。五年前、先帝の崩御に伴って父が皇帝の位に()き、その機に合わせて母が立后(りっこう)されるまでは、決して皇嗣(こうし)に近いとは言えない、一皇族に過ぎなかった。  燎琉の上には異腹の兄が三人いたし、長幼の順を重んじるならば、そもそも皇嗣が自分であるはずがない。いずれ父帝は皇太子を定めるのだろうが、三人の兄のうちの誰かが――もちろん、まだ下にいる弟皇子でもいいわけだが――選ばれるなら、別にそれで構わないと思っていた。  ただ、母皇后にとって、自分が唯一の皇子であるのは確かである。だから、母が燎琉をこそ皇太子に、と、そう考えていることも知っていた。  燎琉の成人を機に、本格的に目的を達するために動きはじめていることも――宋家の令嬢(ひめ)である清歌との婚礼を目論(もくろ)んだことも、その一環だと――わかっている。  燎琉にすら、わかるのだ。ならば周囲には、燎琉こそ皇太子に最も近い候補である、と、そう考えている者がそれなりの数にのぼるだろうことは、紛れもない事実だった。  燎琉が皇太子となることを望まない誰かが、燎琉が甲性であることを利用して瓔偲と無理につがわせ、燎琉を皇嗣に近い立場から引き()()ろそうとしたというのか。  たとえば、事故に見せかけ、敢えて癸性の者とつがわせてしまう。現皇帝のこれまでの施政方針を(かんが)みれば、ひとたびそうなったなら、皇帝がその癸性の者と燎琉とを(めあわ)せる方向に動くことは、あるいは、予想の範疇(はんちゅう)といえるかもしれない。  燎琉は、癸性の妃を持つことになる――……まだ、民にとっては受け入れることの難しい、癸性の妃を。 「お前を利用して、俺を(おとしい)れる陰謀だったと……? なんだそれは? ふざけるな」  燎琉は眉を顰めて歯噛みした。 「もちろん、すべては可能性の話です。ですが、もしもそうだと仮定すれば、殿下が皇太子の位から遠ざかったことで、逆にそこに近付く者の中に……つまりは、首謀者の候補の中に、先帝の皇子である鵬明さまも、確実に、いるのです」  瓔偲の言葉に、燎琉は目を瞠った。 「叔父上が、まさか」  そんな莫迦な、と、燎琉にはそうした想いしかない。だが、瓔偲は難しい顔をしたままだった。 「鵬明さまご自身でなくとも、皇弟(おうてい)殿下の周囲にいる者が画策(かくさく)することだってありえますから……鵬明さまでないとすれば、他には、(ばん)貴妃(きひ)のお産みになった(しゅ)煌泰(おうたい)さま。貴妃のお父上は、いまの尚書(しょうしょ)(れい)――()()(れい)(へい)(けい)(こう)の国府六部を束ねる実力者です」  瓔偲が続けて口にしたのは第三皇子、燎琉にとってはすぐ上の兄の名であった。その裏には、国府の権力者の影までがちらつくのだと彼は言う。  単に不慮の事故であったのだと思っていたことが、実はそうではないのかもしれない、と、そう告げられて、燎琉は(たま)らないきもちになっていた。無意識にこぶしをきつく握りしめている。 「もしも、そうなら」  瓔偲が言葉を継ぎ、それではっとしたときには、爪がてのひらに食い込んでいた。 「殿下のお怒りはごもっともです。ですが、だからこそ……そこに一縷(いちる)の望みがあるとも言えますでしょう」  燎琉の心情を(おもんぱか)りつつ、瓔偲は静かに微笑んで言った。 「一縷(いちる)の望み?」  燎琉(りょうりゅう)瓔偲(えいし)の言葉の意図をはかりかね、鸚鵡(おうむ)返しにそう訊ねた。瓔偲は、ええ、と、ひとつ頷いてみせる。 「もしも七日前のことが事故ではなく、誰かの仕組んだ陰謀であったことが明らかになれば……あるいは、陛下にわたしとの婚姻の命を取り下げていただくよう、お願いすることができるかもしれません。もしもそうなら、わたしとつがったことについて、殿下の負うべき責任はございませんでしょう?」  瓔偲はやわらかく微笑して言った。 「もしも悪意を(もっ)て誰かに(おとしい)れられただけだとわかれば……わたしとの婚儀を、なかったことにしていただけるかもしれない。そうなれば殿下は、殿下に相応しい御方……宋家のお嬢さまと、改めてご婚約がかなうかもしれません。――婚儀まであとひと月ではございますが、まだ、かろうじて希望はある。それまでに真相が明らかになれば……」  そのためにも出来る限りのことを、と、そう口にする瓔偲に、燎琉は先程とは違った意味で(たま)らない気分を味わわされていた。 「でも、お前は……?」  もしも燎琉と瓔偲との(ちぎ)りが誰かに仕組まれてのことだったとしたら――それが瓔偲への嫌がらせにせよ、あるいは燎琉を皇太子位から遠ざけるための謀略(ぼうりゃく)だったとしても――瓔偲とて、まぎれもなく、被害者なのだ。  誰かによって理不尽に将来(さき)(ゆが)められてしまったのかもしれないのに、瓔偲自身は、そのことに腹立ちを覚えないのだろうか。燎琉の今後のことだけではなく、己自身のことをも、もっと考えないのだろうか。 「お前は……どうするんだ? だって、俺とのつがいの関係は、もう、生涯解消できないだろう?」  どちらかが死ぬまで、それは一生涯に(わた)って続く(きずな)である。甲性の燎琉はともかく、()性である瓔偲は、もはや、燎琉以外の他の誰かに縁付くことが出来ないのだ。 「それでも……いいのか」  燎琉が眉根を寄せると、瓔偲は苦笑した。 「それはべつにかまいませんが……ただ」 「なんだ?」 「いえ、その……もしも我儘(わがまま)をひとつ聞いていただけるのであれば、殿下との婚姻がなくなった際には、出来れば官吏に戻していただけると有り難いのですが。国官でいるのが難しいなら、地方官でも、かまいません」 「それは、むろん……そうなったときには、父帝には掛け合うが」  それでいいのか、と、燎琉は(なお)も問いを重ねたが、瓔偲はひとつちいさく頷いた。 「それだけで、結構でございます。実は恥ずかしながら、(ゆえ)あって、父から勘当された身でございまして……生活もありますので、職を失うわけには参りません。それに……」 「それに?」 「これでも、誇りを持って、国のために尽くしてきたつもりでございます。官たることを、わたしは自らの存在意義と思って参りました。ですから、ぜひとも、そのときには官吏に戻してください」  それだけで満足だ、と、彼はしずかにわらう。燎琉は相手の顔に浮かぶ悟ったような――あるいは、もう()うになにかを諦めきってしまった者のような――透明な微笑に、なぜか、ふと胸ふたがる想いがして、言葉を詰まらせた。  ちょうどそのときだった。 「この周じぃをお呼びですかな、殿下」  扉の外から、のんびりとした声が聴こえてきた。  燎琉ははっとすると、立ち上がって扉へ駆け寄る。 「じぃ、よく来てくれた!」  扉を引き開いて、その向こうに立つ(しゅう)太医を正房へと迎え入れた。  (しゅう)華柁(かだ)は、いかにも医師らしく、白い長袍姿をしている。燎琉を目の前に、すっと目を細めて会釈(えしゃく)すると、房間(へや)の奥、卓子のところにいる瓔偲(えいし)のほうへと視線を向ける。 「あちらが、殿下のお妃さまになられる御方ですかな?」  婚儀のことはまだ内々の話でしかないはずだが、おそらくは、皓義(こうぎ)がある程度の経緯(いきさつ)に言及したものとみえる。そういえば、七日前、瓔偲の発情に誘引される形で発情を起こした燎琉を()たのもこの周太医だったので、相手はそもそもまるで事情を知らないというのでもなかった。 「(かく)瓔偲(えいし)だ。鵬明(ほうめい)叔父の部下だった」 「なるほど、鵬明皇弟(おうてい)殿下の。それでは、優秀な御仁でいらっしゃるのですねぇ」  ほっほっほ、と、周太医はのんびりと笑うと、房間(へや)のうちへ足を踏み入れた。抱えてきた薬筺(くすりばこ)を、よっこらせ、と、卓子の上に置く。 「周華柁と申す医師(くすし)にございます。お生まれになって以来、ずうっと、燎琉殿下のお身体を拝診してきました者でございますが、これからは、殿下のお妃さまとなられる瓔偲さまも、この(わし)が診させていただくことになりましょう。どうぞお見知りおきを」  周太医は瓔偲に向かって拱手(きょうしゅ)した。  瓔偲は立ち上がると、こちらもまた老医師に拱手と目礼を返している。 「郭瓔偲です。わたしが殿下にお願いして、周先生をお呼びいただきました。急にお呼び立ていたしましたこと、まずはお詫びを」 「いえいえ、御遠慮なくなんなりと」  周太医は人の()さそうな笑みで応じた。そうすると(まなじり)に深い皺が刻まれる。そんな穏やかなままの表情を、老医師は、今度は燎琉のほうへと向けた。 「それにしましても、殿下。赤子の殿下をこの手で取り上げ、産湯(うぶゆ)を使わせ(たてまつ)りましたのが、まるで昨日のことのようでございますが、その殿下がもはやお妃をお迎えになるとは。じぃは感激しております。なに、いつか殿下のお子様を我が手で取り上げるのが、この老いぼれめの密かな夢でございましてなぁ。ついにその日も近かろうかと思えば、感に()えませんなあ」  よよよ、と、いかにも嘘くさい泣き真似までしてみせる。燎琉は――なにしろ赤子の折からこちらのことを知っている相手の言だけに――少々げんなりしながらも、とりあえず周太医に椅子(いし)を勧めた。 「まあそれはいいから、まずは俺たちの話を聞いてくれ、じぃ」 「そうでした、そうでした。何かございましたかな、殿下」 「うん。これなんだが」  燎琉はそう言って、先程瓔偲から手渡された薬包を周太医の前に差し出した。  老太医は怪訝(けげん)そうにそれを受け取り、目の位置まで持ち上げると、しばらく、()めつ(すが)めつ眺めていた。が、やがて、ふむ、と、(うな)るようにひとつ頷く。 「吏部(りぶ)の医局で処方された、発情抑制の薬ですかな」  そう言う。 「わかりますか」  驚いたように口にしたのは瓔偲だった。 「包み紙が医局のものですからな。(わし)もかつて、吏部の医局におりましたし。しかし、それにしても、これが何かございましたか?」  周華佗は瓔偲のほうへと視線を向けた。  瓔偲はうかがうように燎琉に目配(めくば)せしてくる。話してもよいか、と、その確認だろうと思われた。 「周じぃは、間違いなく信のおける者だ」  燎琉は瓔偲にむけて、ひとつ力強く頷いてやる。  それを受けた瓔偲が、改めて周華柁の顔を真っ直ぐに見詰めた。 「周先生に、調べていただきたいことがございます」 「ふむ」 「この薬……おっしゃるとおり、癸性の官吏について定めた規則に従い、わたしが医局から処方されて服用していたものでございます。飲み忘れなどはなかった。それにも関わらず、わたしはあの日、発情を起こしました。そのせいで、御身(おんみ)限りなくお大切な第四皇子殿下と、大変な事にまでなってしまって……殿下のお側の方にも、何とお詫びしてよいか」  最後のほうの瓔偲の声は、縮こまるような小さなそれだった。 「なるほど。妃殿下には、薬に何か混ぜ物をされたのでは、と、それをお疑いですかな?」  周華佗の(さと)い問いに、瓔偲は頷く。 「あるいは、薬自体をすり替えられたのかもしれませんが。とにかく、これにおかしな点がないか、まずはそれをはっきりさせたいのです」 「ふむ、ふむ……これは、開けてみても構いませんかな?」  周太医に訊ねられ、はい、と、瓔偲は短く応じた。  老医師は慎重な手つきで薬包を開くと、中の粉末をまじまじと見たり、鼻を近づけて匂いを確かめたりしている。しばらくすると、人差し指の先に粉末を取って、ぺろりとひと()めしてみせた。 「うぅむ、見た目や匂い、口に含んだ時の感じは、一般的な発情抑制のための薬となんら変わりありませんな。――瓔偲さま、こちらは持ち帰ってもよろしゅうございましょうや? 詳しく調べてみますほどに、一日、二日、いただけますかな」  周太医は言った。 「じぃ、たのむ」  燎琉は我が太医を真っ直ぐに見る。 「お手間をおかけいたしますが、よろしくお願いいたします」  瓔偲は深々と頭を下げた。 「はいはい、周じぃにお任せあれ。殿下とそのお妃さまの御為(おんため)でしたら、なんなりといたしましょうほどに」  老太医は(ほが)らかに笑んで請け負ってくれ、燎琉も瓔偲も、ほっと安堵の息を()いた。 「あの……周先生」  そこでおずおずと、どこか躊躇うふうに、瓔偲が周太医に声をかけた。 「その……わたしはまだ、殿下の(きさき)ではございません」  瓔偲(えいし)(しゅう)華柁(かだ)に向かって言ったのは、そんなことだった。 「妃殿下だなどと……わたしのような者がそう呼ばれては、大切な殿下の御名に傷がつくかもしれません。それに、殿下のお気にも(さわ)るでしょうから、どうぞ、ただ瓔偲とだけ」  妃の呼称をやめてほしい、と、瓔偲はしずかに微笑して請う。 「べつに……!」  気に障ったりなんかしない、と、燎琉は言いかけたが、けれども、妃の呼称で構わない、と、そう言ってしまうのも躊躇(ちゅうちょ)されるものがあった。  それで、結局は、黙り込むしかない。  むすっと押し黙ったこちらを、周太医(たいい)はなぜか目を細めて見る。それから、ふう、と、息をはいた。 「周じぃ、なんだその溜め息は? どういう意味だ?」  燎琉は老太医を(にら)むように見たが、いえいえ、と、のんびりと答えた相手からは、まるで我が子、我が孫を見るような視線を向けられるだけだった。  そこで老太医は瓔偲のほうへ向きなおる。 「さてさて。せっかくここまで出向きましたからには、殿下、ついでと申してはなんですが、瓔偲さまのお身体を()せていただいてもよろしいですかな」  場の何とも言えぬ空気を読んでのことだったのか、周華柁はころりと話を変えて、そんなことを申し出てきた。その提案について、殊更(ことさら)、燎琉に拒む理由などはない。 「好きにしろ」  肩を竦め、そう言ってやった。 「え?」  逆に驚いた顔をしたのは瓔偲だ。だが周太医は、瓔偲に向かって笑んでみせる。その笑顔は穏やかでありつつも、有無を言わせぬ迫力があった。 「先程も申しましたが、今後、(わし)めが定期的に瓔偲さまのお身体を診察させていたくことになりますからな。つがいを得られたばかりの()性は、お心にもお身体にも、いろいろと大きな変化があるもの。ご不調にも(おちい)りやすい時期にございます。――と、いうわけで。とりあえず、脈だけでも、少々診()させていただけますかな」  さあそこに横になって、と、周太医が示したのは窓辺の(ながいす)だった。促された瓔偲は、戸惑いつつも、言われた通りにそこへ仰向けに寝そべる。  周太医は瓔偲の腕を取り、袖を(めく)って、透けるように白い腕を(あら)わにした。そのまま手首のあたりに自分の三本の指を当てて、しばらく目を閉じ、脈を聴いている。 「ふむ、ふむ。落ち着いておられますな」  やがて目を開けるとそう言って、問題ないようです、と、ひとつ頷いた。 「いまは、発情を抑える(たぐい)の薬は、飲んでおられますかな?」 「はい。鵬明(ほうめい)殿下付きの太医が処方してくださいましたので、それを朝夕、日に二度」 「その薬の残りは? まだありますかな?」 「念のためにと、あとしばらくの分までは、いただいております」 「では、その後のものは、早々に儂のほうで処方いたしましょう。いったんは吏部の医局に問い合わせて、これまで通りの薬を出しましょうかの。ただ、つがいを得て、今後はお身体に変化があるやもしれませぬゆえ……お身体のご様子を診ながら、瓔偲さまに合う処方を、おいおい工夫してまいりましょうか」  周太医は穏やかな口調で瓔偲に語りかけた。瓔偲は目礼しつつ、ありがとうございます、と、口にした。 「そのほか、いまお飲みになっている薬などはございますか?」 「それは、その……」  周華佗からの問いに、それまではきはきと応答していた瓔偲が、やや言いよどむ。ちらり、と、彼が窺い見たのは、なぜか燎琉のほうだった。  なんだろう、と、思ううちに、相手は意を決したのか、周華柁のほうへと視線を戻してしまう。 「懐胎を、防ぐための薬を……」  瓔偲が口にしたのは、そんな言葉だった。  燎琉ははっとする。 「これも、鵬明殿下付きの太医の方から七日分を処方されて……今朝、最後のものを飲み終えました。周先生、あの……わたしには、懐妊の兆しがあったりは、しないでしょうか?」  (はら)んではいないか、と、そんな瓔偲の言葉に、燎琉はますます息を呑んだ。  そうだ、と、おもう。燎琉と瓔偲とは、あの日、互いに発情状態での交わりを持ったのだ。そのときに瓔偲が懐妊した可能性は、十分に考え得るものだった――……どうしていままで思い至らなかったのだろうか。甲癸(こうき)の発情時の交合における懐胎の確率は、ほぼ十割とさえ言われているのに。  理性を飛ばして相手を()き抱いていた瞬間が、ふいに脳裡(のうり)に思い起こされる。  意識は最初からほとんど朦朧(もうろう)としていたから、はっきりとは覚えていない。けれども燎琉はあのとき、たしかに瓔偲と繋がって、その(はら)の中に吐精したのだ。奥を何度も突き上げて、腰を押し付けるようにしながら、たっぷりと彼の中に気を()き尽くした。  曖昧(あいまい)な記憶の糸を手繰(たぐ)った刹那、ふわ、と、あまやかに白百合の香がただよったような気がした。  それに意識を囚われるように、燎琉は、ふら、と、(ながいす)のほうへと近寄っている。そこに横になる瓔偲のほうへ歩み寄ると、恍惚(うっとり)と我を忘れたままで、その場に(ひざま)いた。  気づけば、相手のほうへと自然と手指を伸べている。 「――……おほん、うぉっほんっ!」  そのとき、瓔偲の脈を診ていた周華佗が、いかにも大袈裟(おおげさ)咳払(せきばら)いをした。それで燎琉ははっと我に返る。 「殿下。残念ながら、そこにはまだ、どなたも宿ってはおられぬようですぞ」  老太医に言われ、それでようやく、燎琉は己が横たわる瓔偲の腹のあたりを無意識に手で撫でさすっていたことに気が付いた。  弾かれたように手を離し、その場から飛び退()くようにしている。その慌て振りを見て、周太医はちらりと苦笑した。  それから、再び瓔偲のほうへ視線を落とすと、あらためて、ゆるゆると首を振った。これが先の瓔偲の問いへの(いら)えのようだ。 「薬が効いたのでしょう。まだ確かとまではいえませぬが、おそらく、此度(こたび)のご懐妊はないものと」  それを聴き、瓔偲は、ほ、と、息を吐く。そのままゆっくりと身を起こすと、己の所業に気まずく黙り込んだままでその場に立ち尽くしている燎琉を見上げた。 「殿下」 「……なんだ」 「不慮のこととはいえ、勿体なくも殿下のお種をこの(はら)にいただきながら、此度(こたび)は勝手をいたしました。申し訳ありません」  瓔偲は静かに口にして目を伏せがちにする。種を肚に、と、その発言に、燎琉はかっと頬を染めた。  瓔偲の肚――……先程この手が触れた薄い肚の中に、自分はあのとき、深々と這入(はい)り込んでいた。そして、そこはもはや、終生、(つがい)である燎琉の熱だけを受けとめる場所となっている。  瓔偲の子宮(はら)は、もう、燎琉の種を宿すためだけのもの――……たとえ燎琉が瓔偲との婚姻関係を結ぶことがなくとも、つがいとなった以上、その事実が消えることは、生涯に(わた)ってありえないのだ。  そんなことを考えながら、燎琉は瓔偲の瞼を縁どる長い(まつげ)が、その白い(はだ)(かげ)を落とす様を、息を呑んで見詰めていた。  こくり、と、喉が鳴る。  けれども、今回はまた己が百合の香に意識を奪われそうになっていることに気が付いて、努めて、相手から顔を背けた。 「……お前が謝ることじゃない」  仕方のないことだろう、と、ぶっきらぼうにそう言う。 「はい」  そうちいさく答えて微笑んだ瓔偲が、そのままじっとこちらを見ているふうなのが、燎琉にはどうにも居た(たま)れなかった。

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