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三章 第四皇子、白百合を知りゆく。(2)

 燎琉が瓔偲を連れていったのは、昨夜(ゆうべ)彼と話をした正房(いま)の隣室、牀榻(しょうとう)が据えられた臥室(がしつ)とは正房をはさんで反対側に位置する、普段は書房として使っている一間(ひとま)だった。  瓔偲は燎琉の唐突な行動に驚いて目を瞠っている。燎琉はそんな彼をおいて書卓へ駆け寄ると、そこにある一冊の冊子を持ちあげた。  瓔偲に歩みより、彼の前でその冊子を(ひら)く。 「見てくれ。これは、堤工事の案件を任されたあとすぐに、工部(こうぶ)書架(しょか)で見つけた冊子なんだが」  勢い込んで瓔偲の前に示してみせるのは、ここ最近、燎琉が寝食の時を惜しんでまで読み込んでいる冊子だった。 「これは……」  燎琉が指し示す冊子に、瓔偲は驚いたように目を(みは)って、それから燎琉を見上げた。  ふわ、と、ひかえめに、清々しく、百合が香る。その香りに(いざな)われるように、ふと、燎琉はこの冊子を見出した日のことを思い出した。  職場である工部官舎の奥、物置のようになっている一室の、(うずたか)く積まれた書物の中に冊子はあった。古紙と墨と、それから(ほこり)っぽい独特の匂いの漂う室内で、そこの空気だけが、不思議なほどに清澄なそれのように思われた。  それはまさに、まるでなにかに導かれたかのような瞬間だったのだ。凛と澄んだ気に気を引かれるかのごとく、気がつけば燎琉は、その冊子を手に取っていた。 「これはどうも、数年前、匿名で前帝のもとへと奏上されてきた書き付けらしい」  瓔偲(えいし)の問いに答えるように、(りょうりゅう)は言った。 「内容(なかみ)威水(いすい)の堤の普請についてだったから、そのまま工部尚書(しょうしょ)の手に渡ったということなんだが……ほら、見てくれ。威水の氾濫の歴史が、その時の雨の様子、河の様子、それから越水時の被害なんかも含めて、子細に渡って、まとめ記されているだろう? その上で、堤の構造について考え得る工夫なんかも書かれている」  燎琉が現在たずさわっている案件からすれば、この冊子に記された内容は、実に有り難い示唆に富むものばかりだった。偶然これを見つけて以来、常に携行し、読み込んで、様々な検討を進めている。 「本当は、これを書いた者に会えればいろいろと話を聴けて一番いいんだが、なにしろ、誰が送ってきたものかもわからない。だからせめて、この冊子の内容を手掛かりに、俺もいろいろ調べてみようと思って……それで、(しょう)(ぶん)殿通いをしていた」  そこまでを勢いのままに一気に語った燎琉は、ふと、瓔偲がますます大きく目を(みは)って、(またた)きながらこちらを見ているのに気が付いた。 「どうした?」  相手の表情を不思議に思って目を瞬いてから、自分が一方的につらつらと喋っていた状況はっと気がついた。 「す、すまない。その……つい、熱くなった」  どことなく恥ずかしく、口籠るように言う。 「つまらなかったか?」  興味がなかっただろうかと案じて、窺うように問いかけた。 「まさか」  瓔偲はきっぱりと首を振る。 「ただ……」 「なんだ?」  はっきりしない態度を怪訝(けげん)に思って眉をしかめたら、それでも一拍黙った後で、瓔偲は微笑した。 「その……すこし、驚いたのです」 「いったい何を驚くというんだ?」 「いえ、その……皇族がたは国府にそれぞれ職掌を得られておられますが、それはほとんどが名誉職のようなものでしょう? でも、殿下は違うのだな、と、そう思って」  つまり、燎琉が工部で実際に職務を担っているようなのに驚いたということらしかった。  事実、皇族男子は成人と同時に国府に出仕するようになるとはいえ、大抵の場合、それは名目上のことに過ぎない。例外といえば、現在、戸部(こぶ)員外郎(いんがいろう)として実質的に勤めている――しかも敏腕との呼び声高い――叔父、皇弟(おうてい)鵬明(ほうめい)くらいのものだろう。  だが(しゅ)鵬明(ほうめい)という人は――甥の燎琉から見ても――皇族において、少々変わり者の部類に入る人物である。一般の皇族の在り方の参考にはならなかった。  自らは皇弟であり、かつ、その母は、現帝の実母ではないとはいえ、皇太后の位にある。しかも母方の伯父は門下(もんか)侍中(じちゅう)という最高位の官僚であるからこそ、好き勝手していても、誰も表立っては文句を言えないだけのことだった。  そんな叔父を除いては、皇族の国府における職務は、たしかに普通は名ばかりのそれでしかなかった。 「威水(いすい)(つつみ)修繕(しゅぜん)を担っておられるといっても、殿下の、すなわち皇帝の御子(みこ)御名(おんな)の下に行われれば、民はそれだけで安心します。ですから、殿下の職掌も、あるいはそういうことなのかと……鵬明殿下からは、殿下が任されていらっしゃるお仕事について聞いてはおりましたのに、すみません、無意識に殿下を()(くび)っていたのかもしれません」 「別に……進士のお前からしたら、俺のやっている仕事など、実際、たいしたものでもないのかもしれんが」  ふん、と、ちいさく鼻を鳴らしたら、また驚いたように目を(みは)った瓔偲が、とんでもない、と、首を振った。 「堤のこと、先程、殿下が(おっしゃ)いました通りかと……威水の傍に暮らす民のためにも、ぜひとも、良いお仕事をなさってくださいますよう、僭越ながら心よりお願い申し上げます」  どうかよろしく、と、そんなことを微笑みながら言われたとき、燎琉はいままでに味わったことのない感情が胸のうちに湧くのを覚えた。なんだろう、くひどくすぐったいような、誇らしいような、不思議なきもちだ。 「どうかなさいましたか、殿下……?」  燎琉の変化を目敏く見て取ったらしい瓔偲が、ちいさく首を(かた)げる。 「別に、なんでもない……!」  燎琉は、ついつい、そう強がるような返答をしていた。けれども、湧き起こった言明しがたい想いは、たしかに燎琉の胸にじんわりと沁みている。  そういえば、と、燎琉は思い出していた。  母の計らいで幾度か宋家令嬢である清歌(せいか)に会った時にも、同じように、燎琉は自らの(たずさ)わる仕事の話にふれたことがあった気がする。そのときの相手は、いま瓔偲が微笑を(もっ)て燎琉の話を聴いていたのと同様に、おっとりと笑いながらこちらの話を聴いてくれていた。  だが、いまのような気持ちは、燎琉の中に湧きはしなかった。  清歌は燎琉よりも年下の娘である。おそらくは、燎琉の話す堤の修繕のことになど、さして関心がなかったのではないかと思う。一応は頷きながら耳を傾けてくれてはいたが、形ばかり。ただ、それだけのことだった。  だが、瓔偲は違う。  いま彼は、燎琉の携わる仕事についてきちんと理解し、受け止めた上で、こちらに言葉を返してくれたのだ。それがなんともうれしいような、照れくさいような、そんな不可思議な気分だった。  燎琉が自分の中に生じた奇妙な感覚に戸惑ううちに、瓔偲はこちらをしっかと見詰め、それから丁寧に頭を下げる。 「いっていらっしゃいませ、殿下」  そう見送りの言葉を口にしてから、あ、と、思い当たったように顔を上げた。  その表情は、しまった、と、そんなふうな色をありありと浮かべている。 「お支度と、朝餉(あさげ)が先ですね」  ちいさく苦笑を浮かべられて、たしかにな、と、燎琉は起き抜けのままの己の恰好(かっこう)を思い出した。  こちらも苦笑して、身支度を整えるために、書房から正房(いま)へと戻る。ふと思いついて、こちらの半歩ほど後ろに付き従った瓔偲を振り返った。 「工部での仕事が早く済んだら、その後、戸部(こぶ)へ寄ってきても良いか? お前の同僚の話も聞きたいし」  戸部は瓔偲の勤めていた部署だった。  たとえば瓔偲の飲んでいた薬に何らかの手が加えられていたとするなら、それを為したのは瓔偲を恨んだり嫉んだりしている者かもしれない、と、彼は言っていた。ならば彼の周囲に関する情報を集めておきたい、と、そう考えての燎琉の発言だ。  だがこれに瓔偲はふと息を呑み、わずかに複雑そうな表情を見せた。 「……どうした?」  気になってそう問うたが、いえ、と、相手は首を振る。 「なんでもありません」  そう言ったときにはもう、何かを奥に押し込めるかのような静かな微笑が、瓔偲の頬には張りついていた。 「あの、殿下」 「ん?」 「殿下がお留守の間、わたしはこちらの書房にいてもかまわないでしょうか?」  そう言って、いま後にしたばかりの、燎琉の書房を振り返る。 「わたしはすでに戸部を辞しましたし、いまは手持無沙汰にございます。いたずらに時を持て余すだけなら、この房間(へや)の書籍の整理などをさせていただければ、すこしは殿下のお役に立てるものと……」  目を眇めながらそう言われて、燎琉はむっと押し黙る。眉を寄せたのは瓔偲の言が気に喰わなかったのではなくて、言われてようやく、房間(へや)の惨状に思い至ったからだった。  春にこの殿舎へ移ったとき、もとの殿舎から運び入れた巻帙がある。また、その時期から工部で職掌を得て、様々な書類も増えた。それらが、この書房には、いま雑多に置かれたままになっているのだ。 「……頼む」  燎琉は()まり悪くぼそりと言った。 「はい。何か仕事があるほうが、わたしも張り合いがあります」  瓔偲は(てら)いなく返事をした。  相手の表情は朗らかに明るく、書籍の山を見詰める黒曜石の眸もきらきらと輝いている。瓔偲の見せるその表情に、燎琉は、官吏たる自分に誇りを持っている、と、瓔偲が昨夜口にしていた自負の言葉を思い出していた。 * 「(かく)瓔偲(えいし)が辞めたって?」  工部(こうぶ)での己の職務を終えた燎琉(りょうりゅう)戸部(こぶ)官府(やくしょ)を訪ったとき、ふと耳についたのは、誰かの発したそんなささやきだった。  瓔偲の名が耳に入り、燎琉は反射的に立ち止まる。  そのまま、図らずも、聞き耳を立てるふうになってしまったが、どうも話をしているのは瓔偲と同じ戸部の書吏(しょり)の者たちのようだった。 「あいつ、()性だろ? もともとおとなしく家にいりゃあよかったのに」  そもそも国府へ官吏として出仕しているのが間違っている、と、そんなふうに言う男の声が聴こえた。 「そうそう」  笑いながら同意する声が続く。 「癸性なら癸性らしく、男を(くわ)え込んで、(はら)んで、産んでって、そうしてりゃあいいんだ。それがお似合いだろうに」 「いまからじゃ、年齢(とし)的には完全に()(おく)れだけどな。まあ、顔だけは綺麗だったし、囲いたがる好き者の一人や二人はいるんじゃないか?」  はははは、と、男たちは下卑た笑い声をあげた。 「鵬明(ほうめい)殿下に気に入られてたからって、調子に乗りやがって。鼻持ちならなかったんだよな」 「殿下のことも誘惑して取り入ったんじゃないのか。発情期にさ」 「なんせ癸性だからな。ありそうなことだ」  まだ続いた言葉に、燎琉は呆然と立ち尽くした。  まさか瓔偲が同僚からこんなふうに心ない言葉を()かれているとは信じられず、耳を疑わずにはいられない。それと同時に、聴くに堪えない話を笑いながらしている男たちに、(たま)らない不愉快と、抑え難い怒りとが募ってきた。  自然とくちびるを噛み、きつくてのひらを握り締めている。  眉を(ひそ)め、ぎりり、と、奥歯を噛み締めた。  瓔偲はたしかに、昨日、癸性の己が国官として勤めることを良く思わない者もいると言っていた。が、癸性の官吏登用を決めたのは、ほかならぬ、皇帝なのである。先帝の時代まで漫然と続いていた癸性の者への(いわ)れなき扱いについては、すべてこれを撤廃すべし、と、そのために国が定めた方向性に、瓔偲は従っただけのことだった。  不当に何かを得たわけでもないのに、この言われようは、いったい何だ。  込み上げる(いきどお)りのままに、場に乗り込んで文句を言ってやろう、と、足を踏み出しかけたときだった。燎琉の肩を、とん、と、後ろから軽く掴んだ者がある。燎琉ははっとして振り返った。 「叔父上」  そこにいたのは(しゅ)鵬明(ほうめい)だ。彼は珍しく、静かな、けれども厳しい表情をしている。  鵬明は、いまにも書吏(しょり)たちのいる(へや)へと踏み込もうとしていた燎琉を無言の視線だけで一歩下がらせる。そして、そのまま、自分のほうが先に立って房内へと入っていった。  燎琉は叔父の背に続く形となる。  鵬明が戸を開けた瞬間、瓔偲を口汚なく(ののし)っていた男たちはしんと黙った。鵬明は彼らを、冷たく鋭い視線で()みつけた。 「私はこれでも、職務に関しては、公正な男のつもりでな。部下は能力に応じて使っておる。癸性だからと退(しりぞ)けもせぬし、逆に、癸性だからと贔屓もせぬ」  敢えてのことなのだろう、低く(うな)るような声で鵬明はきっぱりと言った。  鵬明の様子に気圧(けお)されるらしく、男たちは黙りこくったままだ。おどおどとたじろぐ者さえいる。 「瓔偲を重宝していたのは、あれがここの誰よりも優秀だったからだがな。誠に残念なことに、事情あって、あれは職を退()かざるを得なくなった。お前たちにはあれのいなくなった穴を埋めてもらわねばならぬが、さて、それが出来る者は果たしているかな。――無駄口を叩いていないで、さっさと仕事をしないか」  最後に叔父は、どすの利いた低い声でぴしりと言った。 「さて、我が甥御(おいご)どの……うちの者のみっともないところを見せたな。悪い」  部下のみながそれぞれに職務へ戻ったところで、鵬明は燎琉を振り返った。眉を寄せて、苦々しい表情を浮かべている。 「叔父上……瓔偲はいつも、あんなことを言われていたのですか」  我が耳で聞いても信じられず、燎琉は叔父に訊ねた。 「ああまであからさまに、表立っては言わんさ。あいつのいる前ではな。だが、陰口などしょっちゅうだったろうよ」  そう言って、鵬明は溜め息をつく。 「あるいは、陰口を(よそお)って、故意に聴こえるように言う者くらいはあったかもしれんが。――まあ、瓔偲は莫迦(ばか)じゃないんだ。たとえ耳には入らずとも、自分を取り囲む空気の棘々(とげとげ)しさなど、百も承知だったろう」  鵬明の言葉に、ああそうか、と、燎琉ははたと気がついた。  だから今朝、燎琉が戸部を訪ねると口にしたとき、瓔偲はなんとも複雑そうな表情をのぞかせていたのかもしれない。戸部を訪ねれば、燎琉が、瓔偲に関する――聞いて気持ちのよいものではない――風聞を、あるいは耳にするだろうと察していたのだ。  燎琉は腹の底で、重たい憤りがぐるりと蜷局(とぐろ)を巻いたのを感じた。 「なぜ……!」  きつく拳を握り、くちびるを噛む。 「なぜって」  鵬明は深い息を吐き、肩を竦めた。 「これが世間の普通だぞ、燎琉。だからこそ兄上……陛下自らが、癸性の者の地位向上を、殊更(うた)われるんじゃないか」  そうしなければこの状況が――癸性を有する、と、ただそれだけで偏見の目に曝され、(おとし)められ、(ないがし)ろにされて、世の中でまともに活躍させてもらえないという状態が――変わらないからだ、と、鵬明は言った。 「が、兄上の場合は、父上……亡くなった偉大なる先帝への反発という面が大きいし、どこまで本気の政策かはわからんがな。そういう意味では、まだまだ道は遠い」  含みのある言葉を発し、鵬明は嘆息を漏らした。  それから叔父は、ちら、と、燎琉に一瞥(いちべつ)をくれると、回廊のほうへと顎をしゃくる。 「ついて来い。ついでだ、瓔偲の宿舎にあいつの荷物をまとめさせてあるから、持って行け。行李(こうり)ひとつ分だから、お前ひとりで持てるだろう。錠を開ける」  矢継ぎ早に言うが早いか、鵬明は燎琉の前に立って、すたすたと歩きだした。

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