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四章 第四皇子、白百合と共に真相に迫る。(3)

 宋家の馬車だ、と、そう認識した途端、燎琉(りょうりゅう)は無意識に息を呑んでいた。  もちろん、馬車がそうだからといって、そこに乗っているのが宋家の令嬢――燎琉との婚約の話が持ち上がりかけていた、(そう)清歌(せいか)――だとは限らない。だが、その可能性が頭の隅を掠めて、なんとなく身を固くしてしまっていた。  できれば彼女と顔を合わせたくはない、と、おもう――……なぜなら、いまそばにいる瓔偲(えいし)は、彼女のことを、燎琉の想い人だと認識しているからだ。  ここで鉢合わせて、瓔偲に要らぬ誤解を与えたくはなかった。  そんなことを思って、ふと、いったい誤解とはどういうことだ、と、自分の思考を自分で(いぶか)った。  清歌は、婚約間近までいった、燎琉の想い人――……それでまちがいないのではないのか。好ましい相手だ、と、彼女と結ばれるならしあわせだ、と、燎琉はつい先頃まで、そう思っていたのではないのか。  自分の中に急激に起こりはじめている感情の変化に、燎琉は眉根を寄せた。  困惑は、たしかにある。わけのわからないきもちに戸惑っている。  けれども一方で、いま清歌と遭遇したくないという思いが自分の真情であることも、紛れもない事実として認めなければならなかった。  もしもすべての真相が明らかになり、燎琉と瓔偲とがつがったことが誰かの陰謀だと証明されたなら――……燎琉は瓔偲との婚約を破棄して、その後、再び、宋清歌との関係を築いていけるだろうか。瓔偲とのことなど何もなかったことにして、これまでと同じように、彼女と親しく付き合っていくだろうか。この少女をこそ妻に、と、望むだろうか。  つらつらと考え、ああそうか、と、燎琉は得心する。  つがいを得るというのは、あるいは、こういうことなのかもしれない。自分の中には、望むと望まざるとに関わらず、たしかな変化が起きてしまっている――……そして、そのことを、自分は決して不快に思うわけではないのだ。  もしかすると、だからこそ、いま宋清歌と顔を合わせたくないのかもしれないかった。  燎琉は、自分から急に身を離そうとした瓔偲を、むしろ再びそっと引き寄せる。彼が燎琉から離れようとしたのは、おそらくは、馬車に宋家令嬢が乗っているかもしれないと考えたからだろう。燎琉が宋家の(ひめ)と相愛だと思っている瓔偲は、だから、自分が燎琉にもたれかかっている様を彼女が見て、それで誤解でもしては大事(こと)だ、と、そう配慮したものだろうと思われた。  でも、そんなことは、気にかけなくてもいい。お前は俺のつがいなのに、と、自分の気持ちを掴みあぐみながらもそう思って、瓔偲を離さずにいるうちに、やがて馬車は燎琉たちの前を通り過ぎようとしていた。  が、そのまま行き過ぎるかと思いきや、ちょうどこちらの正面で馭者(ぎょしゃ)は馬を止める。瓔偲を腕に抱いたままで、燎琉は顔を上げた。 「お久し振りにございます、殿下」  馬車の小窓が開き、中から顔を覗かせたのは、まだまだあどけなさの残る少女だ。宋清歌である。 「お姿が見えましたので、ご挨拶を、と」  清歌はおっとりと微笑みながら言った。  彼女はいま華やかな(きぬ)を纏い、髪もまたうつくしく結い上げている。更にその身を、(かんざし)や耳飾り、首にかけた連珠、それから腕輪などで、煌びやかに(よそお)っていた。  くちびるには薄く紅を刷き、頬にもわずかに頬紅がはたかれている。あるいは、どこかへ出掛けていくところなのだろうか。 「これから後宮へ参りますの。(ばん)貴妃(きひ)さまからお呼びがありまして」  燎琉が訊く前に、清歌はそう教えた。 「そうですか。お気をつけて」  燎琉はごく素っ気なく、当たり障りのないことだけを言った。幾度か会って、親しく言葉を交わした間柄のはずだというのに、口調は妙に余所(よそ)余所(よそ)しいものになっている。  だが、燎琉のそんな態度に、清歌は何も思ったりはしないようだ。おっとりと笑ったまま言葉を継いだ。 「殿下がご婚約なさったと、父から聞きました。おめでとうございます。――あ、いけない。これってまだ内々の話でしたわね。でも、もしかして……いまご一緒なさっているのが、その方ですか?」  こそ、と、そう問う清歌の表情は、いかにも華やいでいて明るかった。そこには、これから燎琉の(きさき)になる相手への嫉妬も、燎琉が他者と結ばれることに対する(わだかま)りの(かげ)も、微塵もありはしない。  強がりではない、と、燎琉は本能的に察していた。  清歌はたぶん、心の底から、燎琉の婚約を喜んでいるのだ。 「うらやましゅうございますわ」  少女はさらに、うっとりと続ける。 「第弐性を持つ甲癸の間柄の中には、ときに、出逢った瞬間に惹かれ合う、天定めし魂のつがいとよばれる御二方がいらっしゃったりもするのでしょう? すてきですわよね。わたくしも、そこまで運命的でなくてもいいから、思いを寄せる殿方と結ばれたいわ。でも、実は……今度、それが叶うかもしれませんの」  恥じらう態で、はにかむように、彼女は微笑む。それは実に無邪気で、実に幸福そうな笑みだった。  燎琉とのことが白紙になり、早くも、清歌には次の縁談話が持ち上がっているのだろうか。宋家ほどの家柄ならば、その令嬢も引く手は数多(あまた)、この短期間にそうなったとしても殊更おかしいことではないのかもしれなかった。  自分との婚約も間近だと言われていた少女が、いまや他の男に縁付いていく。それでも不思議と、燎琉の胸は痛みはしなかった。ただ、そうか、と、それだけを思う。 「では、わたくし、参りますね。御機嫌よう、殿下」  おっとりと挨拶をした清歌が小窓を閉めるのとほぼ同時に、馭者が鞭を当てて、馬を再び馳せさせた。  馬車が去って行く。その後ろ姿がちいさくなるのを見送りながら、燎琉は、自分の中で、なにかひとつけじめがついたような気がしていた。 「良縁だと思っていたのは、そも、どうやら俺ひとりだったようだ」  宋清歌が喋りはじめてからこちら、(かず)いたままでいた燎琉の?子(うわぎ)の中で身をちいさく縮こませていた瓔偲に、燎琉は肩をすくめて見せる。口調は、意外にも、自嘲めいた響きを帯びなかった。  けれども、瓔偲は困ったような表情をする。 「わたしとの婚姻さえなくなれば……殿下にはまた、いくらでもふさわしいお相手が現れます。宋家の御令嬢ではなくとも」  慎重に言葉を選びつつ、相手は燎琉をそう慰めた。  けれども燎琉は、むしろ、慰めなど必要としてはいなかった。これもまた、別段、意地になっているわけでも強がっているわけでもない。  おそらく、自分は真実、さほど傷ついてはいないのだ。それはつまるところ――宋清歌にとっての燎琉がそうであったように――燎琉のほうでも、彼女が特別な何ものでもなかったということの証左だった。  結局は、ただただ申し分ない相手だ、と、その程度の想いしかなかったということだろう。  すくなくとも、相手に対する苛烈なまでの慾が、燎琉の中に存在していたわけではなかった。それがわかって、よかった。  気づきは一抹(いちまつ)寂寞(さびしさ)をこそ燎琉にもたらしたものの、堪えがたい大きな喪失感はありはしない――……むしろ、どこか、きもちは晴れやかだ。 「ああ、雨が()んだな」  燎琉は空を見上げて確かめ、瓔偲に笑みかけた。 「とっとと帰ろう。このままじゃふたりとも風邪をひく」  彼の手を引くと、南門のほうへと足を踏み出した。 * 「お戻りなさいませ……って、殿下、濡れてらっしゃるじゃないですか。瓔偲(えいし)さまも」  二人連れだって、城壁内、そこから国府を抜けて更に城墻(じょうしょう)の内にある楽楼(らくろう)(ぐう)まで戻った。椒桂(しょうけい)殿に帰り着くと、迎えに出てきた皓義(こうぎ)はまず目を(みは)って、そう、頓狂(とんきょう)な声をあげる。 「すぐに湯殿の用意をさせますから、とりあえず、おふたりともとっととお着替えになってください。――ああ、それから、殿下……(しゅう)太医(たいい)がいらしてます。客房にお通ししておりますから、後で対面を」  (しゅう)華柁(かだ)が訪ねて来ているという。瓔偲の薬のことで何か新たに判明したことがあったのかもしれない、と、そう思いながら、わかった、と、燎琉(りょうりゅう)は従者の言葉に短く応じた。  とりあえず、着替えのためにいったん正房(おもや)へと戻る。瓔偲は己に与えられた(ひがし)廂房(しょうぼう)へと入っていった。  燎琉はすっかり濡れてしまった長袍(きもの)を脱ぎ、(したぎ)も取り替えてから、臙脂(えんじ)色の深衣(しんい)(まと)う。帯を締め、乾いた布でまだ水滴を滴らせる髪を軽く(ぬぐ)うと、すぐに扉とびらを引き開けて、院子(なかにわ)へと続く(きざはし)を下りた。  客房は、華垂門(かすいもん)を越えてすぐのところ、東西の廂房に付属するかたちで並ぶ房間(へや)だ。そのうち、いまは東の客房の扉が開け放たれていた。周老太医はおそらくその房で燎琉を待っているのだろう。 「じぃ、何かわかったのか?」  燎琉は客房へと足を踏み入れた。  だがすぐに、客房内にいるのが周華柁だけではないのに気付き、わずかに息を呑む。 「皇子殿下にご挨拶を」  周太医とともに卓子の前の椅子に掛けていた青年は、燎琉が姿を見せると即座に立ち上がって、拱手の礼を取ってみせる。まだ年若いが、白の長袍を纏うところを見るに、どうやら医師(くすし)であるらしい。ひどく緊張した、蒼白な顔をしていた。  (かしこ)まる青年に、楽にしていい、と、燎琉は手を振って合図する。 「この者は?」  老太医に訊ねると、周華柁はひとつ重たい息を()いた。 「吏部(りぶ)の医局に勤める医師で、(そん)晁文(ちょうぶん)と申す者にございます。――火急のことにて、(わし)の助手ということにして、ここまで伴わせていただきました。どうぞご容赦を」 「それはいい。――だが、火急とは?」  燎琉は怪訝に思って周太医の顔をじっと見る。  太医は燎琉の視線を受け、いかにも難しい顔をすると、それが、と、口を切った。 「瓔偲さまが服用されていた発情を抑制する薬、その処方を問い合わせるのに、さっそく医局へ参りましたのです。すると、この者が……」  そこで周太医は、孫晁文のほうへと目をやった。  周華柁の視線を受けた途端、孫青年は、いきなりその場に(ひざまず)き、そのままがばりと平伏する。 「申し訳ございません……!」  震える声でそう言った。  が、詫びられたところで何のことやらわからずに、燎琉は面食らうしかない。いったい何事だ、と、うずくまるように頭を下げ続ける青年と、それから己付きの太医とを交互に見た。 「上から命ぜられて、己が発情抑制効果のない薬を調合した、と」  答えたのは周太医だ。 「では、瓔偲の薬は……」 「左様にございます。どうやらこの者が……ただし、それが誰に、何のために処方されるかは知らされなかった、と」  老太医が説明すると、孫晁文はまた、申し訳ございません、と、身を震わせながらちいさな声で詫びた。  ()性の者にとって発情を抑制する薬は、日常生活を(つつが)なく送るために欠かすことの出来ないものである。国府に勤める医師(くすし)であるならばそのことは十二分に心得ていただろう。それにも関わらず、この者は本来の薬効が望めない、いわば贋薬を調合したわけだ。 「いったいなぜそんなことを……良心は(とが)めなかったのか!」  燎琉はてのひらを握りしめ、目を怒らせた。 「お前のその薬の所為(せい)で、ひとりの官吏の人生が理不尽に(ゆが)められたんだぞ……!」  低い声で、(うな)るように言う。 「殿下のお怒りはごもっともです」  孫晁文は縮こまるように平伏し、震える声で言った。 「殿下……殿下。どうぞお静まりを」 「だが、じぃ……!」 「上の命に逆らえなかったとはいえ、この者の良心は、ちゃんと痛んでおったのです。で、あればこそ、儂が医局へ問い合わせをしましたときに、儂に己のしたことを告げ、ここへお詫びにも参じておりまする。どうぞ、この周じぃに免じて、ご寛恕(かんじょ)を」  生まれたときからのつきあいの、祖父にも等しい太医にそう請われては、燎琉とて(いたずら)に怒りをぶつけ続けることも出来ない。ふう、と、深く大きな息をついて、なんとか己を(しず)めようと努めた。 「……わかった。――よく、話してくれた。今日のところは帰るがいい」  燎琉が絞り出すように言うと、周華柁は、ほ、と、安堵の息を吐く。 「下がりなさい。殿下に感謝を。それから、このことは、決して他言なきように」  周太医にそう言われ、深く頭を下げた後、孫青年は客房を辞して行った。  燎琉は房間(へや)の隅に立つと、眉をひそめて額を押さえた。 「吏部……」  苦々しく、そうつぶやく。  (にせ)の薬を処方したのが吏部の医局であれば、また、首輪(くびかざり)の件も吏部が絡んでいる。それはおそらく、瓔偲が吏部に預けた後に細工を施され、吏部から瓔偲の手元に届いたときには、すでに癸性を守るものとしては役立たぬ状態にされていたのだ。  ふたつが重なればもはや、今度のことは、吏部が関与するものとしか考えられない。 「殿下、いまの吏部の尚書(ちょうかん)と申せば……」  燎琉のこぼした呟きを聞き咎めた周華柁は、けれどもその名を言うのを躊躇した。  かわりに、眉間に皺を寄せ、燎琉がそれを口にする。 「(そう)英鐘(えいしょう)だ」  それは宋家の現当主であり――……また、先程行き合った宋清歌(せいか)の父の名でもあった。 「まだ、確実にそうと決まったわけではないが」  もちろん、首謀者は吏部に属する他の誰かだという可能性だってあるわけだ。  しかし、と、燎琉は虚空を睨む。いまや胸の中に、奇妙に引っかかり、どうしても抜けぬ棘のような疑惑が生じていた。 *  周華柁は最後に、瓔偲のために新たに調合した発情抑制の薬を燎琉に託し、そのまま椒桂殿を辞していった。我が太医を殿舎から返した後、燎琉は客房から院子(なかにわ)へと出た。  真っ直ぐに正房(おもや)へ戻る気にはなれない。それに、とりあえず周太医から預かった薬を瓔偲に手渡さねば、と、そうも思うのに、それでもなんとなく、東廂房を訪ねていくのが躊躇(ためら)われた。  先程聴いたことを瓔偲に何と告げようか、と、おもう。  おそらく瓔偲は何を聴いても取り乱したりはしないのだろう。そうですか、と、事実を静かに受け止めて、ただただそんなふうに応じるような気がしていた。  けれども、燎琉にはそれが(たま)らないのだ。これまで我が身にふりかかる理不尽を黙って呑み込んできた瓔偲の在り方が、つらい。  様々なことを黙って諦めることにもはや慣れてしまっている瓔偲が、今度もまたその微笑の下に、たとえば憤りとか、恨み辛みとか、それらを抑え込んでしまうのなら、それは物凄くせつないことのように思われた。  燎琉はしばらく院子(なかにわ)桂花木(きんもくせい)の下でうろうろと逡巡(しゅんじゅん)する。  だが、いつまでもそこでそうしているわけにもいかなかったから、やがて意を決して、瓔偲のいる堂宇へ続く(きざはし)に足をかけた。  扉の前で、すぅ、と、ひとつ息を吸い、そしてはく。 「周じぃから薬を預かった。入るぞ」  そう一声かけて、扉を押した。  けれども、房内にいる瓔偲が見えた途端、燎琉は息を呑んだ。 「なにを、してるんだ」  目を瞠り、思わずそう言っている。  着替え終えたらしい瓔偲は(ながいす)に掛けていたが、その手には、燎琉が雨からかばうのに彼に(かず)けた燎琉の短背子(うわぎ)があった。  瓔偲は、丁寧に畳んだその背子(きもの)を抱くようにして顔を(うず)め、(なつ)いていたのだ。 「お前……」  燎琉は呻くようにつぶやいていた。

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