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五章 第四皇子、白百合のために抗す。(2)

 宋清歌と侍女とは、その後、逃げるように馬車に乗って行ってしまった。が、こちらにはそれを追うことのできる手勢もない。鵬明(ほうめい)は苦い顔をしたものの、仕方があるまい、と、最後にはちいさく息をはいた。 「まあ、いい。知りたいことはわかった……知りたかった以上のこともな。後の手は、早々に私が打っておこう」  叔父はそう請け負ってくれた。 「入り口はあの娘の色恋に端を発した思いつきと身勝手のようだが……とはいえ、吏部(りぶ)尚書(しょうしょ)である(そう)英鐘(えいしょう)の意図がそれだけであるはずもあるまい。瓔偲を排除することによって吏部の不正を隠し、かつ、燎琉、お前を皇太子位から遠ざけ、(ばん)家と結んで煌泰(おうたい)を擁立しよう、と、そんな一石何鳥もの心算であったなら、立派に朝廷(ちょう)(はか)るべき事件だ。ただ……舵取りは、少々、厄介だな」  燎琉よりも、瓔偲よりも、ずっと長く国府に身を置いてきている鵬明は、口許に手を当てて(うな)るように言った。 「宋吏部尚書、万尚書(しょうしょ)(れい)は、ともに朝の重鎮だ。このふたりがそろって失脚ともなれば、兄帝の朝の均衡が一気に崩れかねん。陛下に真実を訴え出ればそれで終わり、と、そう簡単なことではないが……伯父に……門下(もんか)侍中(じちゅう)に、助力を願ってみよう。――必ず何とかする。ただ、すこし、時間をくれるか」  鵬明が言い、燎琉はうなずいた。 「鵬明さま」  それに口を挟んだのは瓔偲だ。 「なんだ、瓔偲」 「陛下にこのことを訴え出るその際には、殿下とわたしの婚姻の件についても、陛下にご再考をお願いしていただきたいのです」  瓔偲の言葉を聞いて、どこか消沈するように俯きがちになっていた燎琉は、はっと顔を上げた。  まじまじと瓔偲を見る。燎琉の視線を受け、瓔偲は、ふ、と、目を細めてしずかに笑った。 「殿下とわたしの件は、殿下の故意でないのはもちろんのこと、事故ですらありませんでした。殿下は陥れられただけであって、何の落ち度もない……であれば、わたしのようなお荷物を、殿下が負わされたままである()われはないはずです。――どうか、陛下にご再考をお願いしてください」  最後、瓔偲は鵬明のほうを向き直り、深々と頭を下げた。 「それはかまわんが……いいのか?」  鵬明が、ちら、と、気にするように見たのは燎琉だ。燎琉は叔父のうかがうような視線を受け、くちびるを引き結んだ。  瓔偲との婚姻を白紙に戻す。それはもともと、燎琉と瓔偲との最終目標ではあった。  けれども、いまそれが実際に可能かもしれないという段になって、燎琉の心には奇妙な躊躇(ためら)いがある――……瓔偲との婚姻をこのまま白紙にしてしまって、ほんとうに、いいのだろうか。  燎琉はてのひらをきつく握り込んだ。  けれども、と、おもう。皇帝から下された燎琉との婚姻の命がなくなれば、瓔偲は自由になり、あるいは国官にも戻れるのかもしれない――……それならば、瓔偲のためにも、きっと婚姻はなかったことにしたほうがいいのだ。  彼は、国に尽くす官吏たることを強く望み、そして、ようやく二年前にそれを叶えた。燎琉とのことがなければ、いまなお、鵬明のもとで国官として日々を過ごしていたはずなのだ。  それが瓔偲のあるべき姿であり、彼がその生活に戻ることを望んでいるのならば、燎琉の自儘(じまま)によって、その望みを(つい)えさせてしまっては、きっと、いけない――……燎琉は何かを堪えるように奥歯を噛んだ。  そのはずだ、それが正しい選択にちがいない、と、けれども心中(しんちゅう)につぶやいた言葉は、まるで己に言い聞かせるかのようなものになった。 「叔父上から父に……再考を」  眉を顰めながら、かろうじて、ちいさく頷く。 「そうか」  短く応じた叔父は、なぜかこちらに憂わしげな眼差しを向けた。  その後、いったん三人で椒桂殿まで戻り、鵬明とは門前で別れた。 「とりあえず明日、椒桂殿(ここ)でまた話そう。それまでに伯父には連絡をとっておく」  そう言い置いて去っていく叔父の背中を見送って、その後、燎琉は瓔偲を門の中へと促す。ともに正堂(おもや)へ、と、そう声をかけたが、瓔偲はちいさく首を振った。 「今夜は……ひとりにしてください」  すみません、と、俯く相手に、無理強いが出来るはずもなかった。うん、と、頷いて燎琉は引き下がり、こちらもひとり、眠れない夜明かしをした。 *  一夜明けた、次の日の朝である。正堂(おもや)の扉を押し開けた燎琉は、院子(なかにわ)桂花木(きんもくせい)の下に瓔偲の姿を見つけて、思わずはたと動きを止めていた。 「あ……」  意味のない、呻くような声が口からもれる。それで燎琉に気がついたらしい瓔偲が、しずかに視線を持ち上げ、こちらを見た。 「おはようございます、殿下」  彼は丁寧に頭を下げた。 「おは、よう」  昨日の今日で、何をどう言っていいものかわからず、燎琉は相手からわずかに視線をを逸らしながら素っ気なく答えた。  瓔偲はじっと燎琉のほうを見ているようだ。ずっと扉の前に立ち尽くしているわけにもいかず、意を決した燎琉は、院子(なかにわ)へと短い(きざはし)を下りた。  そのまま瓔偲の傍まで歩み寄る。傍近くでうかがい見れば、いつもと変わらずしずかな微笑を浮かべている瓔偲の、その涼やかな目許がわずかに腫れぼったく、赤くなっているのがわかった。 「お前……」  燎琉はつぶやいて、瓔偲の(まなじり)に人さし指の背で触れた。  昨夜はあの後、眠れなかったのだろうか。それとも、彼はひとり、声を殺して泣いていたりしたのだろうか。そう思うと、いま瓔偲が見せている静謐な微笑さえかえってせつなくて、燎琉は眉根を寄せた。  彼が穏やかな笑顔のもとに上手に隠してしまう胸の中、その真情を知りたい。出来ることなら寄り添って、包むように抱き締めてやりたい。燎琉は、ほう、と、息をついた。  そう思いはするのに、うらはらに、瓔偲の心の中へ踏み込んでいいものかどうか、情けなくも、二の足を踏んでいる自分もいた。その臆病が逃げるように手指(てゆび)を引っ込めさせるものの、それでも相手の顔をじっと見詰める。  そのまま燎琉が黙っていると、瓔偲は微笑んで、桂花の木を見上げた。 「じきに咲くのでしょうか。よい香りがしたように思って」  黒曜石の眸を瞬きながら、落ち着いた声で言う。 「そうだな」  うなずきを返したとき、ふと、相手がいま髪に挿しているのが、己が贈った白翡翠(ひすい)(かんざし)であることに気がついた。 「これ」  目を瞠って、瓔偲の黒髪のほうへ手を伸べる。 「あ……その」  けれども瓔偲は恥じらうように目を伏せ、燎琉の手から逃れてしまった。 「すみません……()してみたくなって」  自分の行動に恥入るような表情を見せつつ、白い指で(もとどり)にふれる。口許に浮かんだはにかむような微笑を見た刹那、燎琉はふと、あたたかな何かが胸をいっぱいに満たしたような気がした。 「その……似合って、る」  くすぐったいような気分に戸惑いつつ、ぼそ、と、言う。すると瓔偲は、はっと顔をあげた。  燎琉をまじまじと見詰め、それから目を細めると、まるで春先に枝についた(つぼみ)がやさしく(ほころ)ぶときのように口の端をゆるめた。 「ありがとうございます……殿下の、お選びくださったものですから」 「……うん」  ぼう、と、なりながらそう応じて、けれども燎琉は、いったいあと幾度、彼とここでこういう遣り取りが出来るだろうか、と、そんなことを考えていた。  叔父の鵬明(ほうめい)が動いてくれれば、遠からず、皇帝から自分たちへ下された婚姻の命は、取り消されるのかもしれない。そうなれば、瓔偲は国官に戻ることを望むだろうし、それは叶えられるべきことだった。  その望みが叶うときには、彼が椒桂殿(ここ)に――燎琉のもとに――留まる理由はなくなってしまうのだ。  いいのか、と、昨日叔父に問いかけられた言葉が、耳の奥に甦って奇妙に反響した気がした。  自分はほんとうに、それでいいと思っているのだろうか――……燎琉はきゅっとくちびるを引き結び、あらためて瓔偲のほうへと手を伸ばす。白百合のほのかに甘い香りに誘われるように彼の頬に手を触れさせ、そっとそこを撫でた。  あたたかい。  やさしい香りがする。  胸が詰まるようにせつなくなって、燎琉は眉をひそめた。 「瓔偲……」  無意識に彼の名を口にすると、まるでそうするのがごく自然であるかのように、瓔偲は燎琉のてのひらに頬を寄せた。それから、血の色の透ける薄い瞼を、ゆっくりと落としてみせる。  あたかもくちづけを待ち望むかのような恰好だ。  燎琉は、ぼう、と、なって、誘われるように瓔偲に顔を寄せた。 「瓔偲」  燎琉は再び相手の名を、どこかうっとりと呼んでいた。  薄いくちびるを親指の腹でなぞっても、瓔偲は嫌がらなかった。身を逃れさせようとするでもなく、しずかに目を閉じたままでいる。  くちびるが重なる寸前、ほう、と、ちいさな吐息がもれた。燎琉は自分も目を伏せ、そ、と、瓔偲のくちびるに己のそれを重ねる。 豊かに甘く、清らかに澄んだ、白百合の香りがした。 「殿下……」  くちびるが離れた刹那、瓔偲がちいさく燎琉を呼んだ。彼我の吐息が混ざる距離で見詰めあう。黒曜石の眸が潤んでいた。その熱っぽさに至近距離で出逢った刹那、堪らないきもちになって、燎琉は瓔偲を()(いだ)いた。  (むさぼ)るようにくちづけする。  細い肩を抱く腕に力が籠り、ぎゅう、と、いっそ(たわ)めるほどに強く抱擁しながら、しばらく接吻を続けた。口中に舌を差し入れ、絡め、息を乱して夢中で味わう。  瓔偲はすこしも(いや)がらなかった。されるがままになりながら、けれども、再びふとくちびるが離れた瞬間、熱っぽく潤んだ黒眸を、間近からじっと燎琉に向けた。 「殿、下……どうし、て」  濡れたくちびるから漏れた小声に、燎琉ははっと我に返った。 「あ……わ、わるい」  瓔偲の身体を離し、気まずさから目を逸らしている。 「その……(しゅう)じぃの、薬」  慌てたように相手から距離を取りつつ言った言葉は、別に、たしかな意味があったわけではない。単に自分の先程の行動を誤魔化すように、口にしただけのものだった。  けれども、言ってから、思う。(しゅう)華柁(かだ)から預かった薬は、そういえば、瓔偲の房間(へや)まで届けたものの、いろいろと慌ただしくするままに、結局は説明もなにもなしに置いてきた形になっていたのではなかったか。 「じぃからの薬、昨日、きちんとは手渡せなかったが……大丈夫だったか?」  たしかめると、こちらもどこか、ぼう、と、なっていた瓔偲も、それで我を取り戻したらしかった。はたはたと瞬いて、気を落ち着けるようにしたその後で、はい、と、短く返事をする。 「先程呑みました。だいじょうぶです」 「そうか」  燎琉は、ほう、と、息を吐いた。 「呑まなければ、殿下にだけは、ご迷惑をおかけすることになりますから……これからも気をつけます。殿下には、ご安心を」  続けてそう言われて、燎琉は思わず息を呑んだ。  そうだ。燎琉とつがいになった瓔偲は、()性とはいえ、もはやつがいの(こう)性である燎琉のほかには、その発情時の芳香に反応する者はない。つがいとは、そういう特別な間柄(なか)なのだ。  ふいに(たま)らない感情に駆られて、燎琉は瓔偲のほうに手を伸ばした。その身を引き寄せ、再び抱き締める。 「殿下……?」  瓔偲は不思議そうにしたが、燎琉は腕をゆるめることが出来なかった。  彼は自分のつがいだ。唯一の(きずな)を結んだもの――……いま堪らず抱き締めたいと思うのも、先にくちづけてしまったのも、自分たちがつがいだからだろうか。  そうなのかもしれない、と、おもう。  それでも、燎琉の中にはひとつだけ、確かなことがあった。  いま自分が瓔偲に対して抱く想いは、宋清歌に対して抱いていたものとは、確実に違っている。たとえば家柄や年齢(としのころ)が申し分ないだとか、おっとりとしていて好ましいだとか、そんな消極的なそれではなくて、肚の奥から滾々と湧くような切実な感情だ。  これがたとえつがいになったから生じた想いだとしても、燎琉はそれでも構わなかった。だって、それでも、燎琉の中にその感情(きもち)が存在しているのは確かなのだ――……ほんとうは、手放したくない、と、思ってしまっている。  この先も、瓔偲にはずっと、燎琉の傍にいてほしかった。  けれども、と、燎琉は瓔偲を抱き締めながら眉を寄せる。  己のその望みを叶えることは、瓔偲の国官への想いを、国への、民への、奉仕の想いを、踏みにじるのと等しいのだ。  瓔偲には望む道を歩んでほしいと思う。  けれども一方で、彼を傍に留めておきたいのも本当だ。  どうしたらいいのだろう。  わからない。  わからないけれども、自分の気持ちに嘘を吐きとおすことが出来るとは、思えなかった。いままでのように、聞き分けのいい己ではいられない。燎琉は瓔偲を抱く腕に力を籠めた。  いまの燎琉は、身勝手にも、瓔偲に訴えてしまいたいのだ――……皇帝の勅命は白紙にしなくてもいい、と。むしろ、このまま自分は瓔偲を娶りたいとおもっているのだ、と。  瓔偲を抱き締めたままの燎琉は、ほう、と、長く息をついた。  泣きそうだ。眉をひそめる。  頬が歪む。清歌の身勝手を責めておいて、それなのに、自分だってまた勝手を通したいと願っていることに反吐(へど)が出そうだった。だから、浮かぶ笑みは自嘲のそれだ。  それでもなお、燎琉は、この想いを瓔偲に真っ直ぐに伝えてみたいと思っていた。  清潔で、甘くやさしい、百合の香りが燎琉を包みこむ。  それと離れるのを名残惜しく想いながらも、燎琉はまた、ほう、と、ひとつ息をついて、瓔偲を抱く腕をゆっくりとほどいた。 「仕事、いってくる。帰ったら……お前と、話がしたいんだ。――聞いてくれるか?」  燎琉は眉根を寄せて(こいねが)うように言う。瓔偲は燎琉の表情に戸惑うふうを見せながらも、やがて、こく、と、ちいさく頷いてみせた。  それを確かめて燎琉は、ふ、と、口許をゆるめた。 「行ってくる」 「いっていらっしゃいませ、殿下。――あの、今日も、書房の整理をしていても、ご迷惑ではありませんか?」  おずおずと訊ねられ、燎琉は目を瞬いた。  そんなことにすら迷惑という言葉を持ち出す瓔偲の在り方が、すこしだけ、せつない。迷惑だなんて思うわけがないのに、と、泣きそうな笑みとともにそんな想いをこめて、瓔偲の白い手指の先をそっと握った。 「うん、たのむ……たすかるよ」 「ありがとうございます。殿下には、よいお仕事を」  瓔偲に見送られながら、燎琉は椒桂(しょうけい)殿(でん)の門へと向かった。  帰ったら瓔偲に言おうと思う。彼は自分の唯一のつがいだからだ。彼をつがいにして、その人生を掻き回してしまった者としての責任も、燎琉にはあるからだ。  伝えてみようと思う。  たとえ国官への想いゆえに瓔偲がそれを受け入れてはくれなかったとしても、それでも、きちんと話をしておきたかった。伴侶(つま)になってほしい、と、この先も傍にいてほしいのだ、と、そう、自分の言葉で、自分の想いを、自分のつがいである彼に正直に伝えたかった。 * 「――……殿下っ! 燎琉殿下っ!!」  血相を変えた皓義(こうぎ)が、燎琉のいる工部(こうぶ)官府(かんふ)へ飛び込んできたのは、その後、(ひる)をいくらか過ぎた頃だったろうか。  普段飄々としている侍者がめったと見せることのない慌て振りを目にした刹那には、もう、燎琉は肝の冷える思いを味わっていた。 「どうした、皓義!?」 「瓔偲さまが……瓔偲さまが」 「瓔偲がなんだ!? 何があった!?」  問う燎琉に、ここまで駆けて来たらしい皓義は息を乱したままで、近衛(きんえい)が、と、そう告げた。 「陛下の勅で、近衛の士卒が椒桂殿に……瓔偲さまが縄を受けて、内殿へ引き立てられていきました。第四皇子殿下に対する叛逆の罪で捕縛する、と」  皓義の口にした信じられない、また事実無根の罪状に、燎琉は息を呑む――……先手を、打たれた。  宋家が、もしかするとあるいは万貴妃の周辺も、燎琉たちに先んじて動いたのだ。彼らが皇帝に働きかけたこと以外に、いまのこの事態の原因としては、考えられなかった。 「皓義、叔父上にも連絡を……!」  燎琉は従者に短く言い置くと、弾かれたように走り出した。

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