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五章 第四皇子、白百合のために抗す。(3)
「父上……陛下!」
皇帝の執務の場である内殿に、燎琉 は近衛 士卒 の制止を振り切るようにして駆け込んだ。
そこには意外なことに、母皇后 の姿もある。皇帝と皇后とがそろうその傍らには、数人の侍官や侍女が控えていた。
そして、彼らの前に、後ろ手に縄を受ける恰好 で拘束 された瓔偲 が、跪 かされ、項垂 れていた。
瓔偲の後ろにはふたり、棒を持った士卒がいる。それは完全に、咎人 が皇帝の前に引き立てられている、と、そんな様子だった。
「これはいったい……どういうことですか、父上」
なぜ瓔偲が、と、燎琉は父皇帝に鋭い視線を向けて言い放った。
皇帝は、ふう、と、息をつく。
「そなたとその者の婚姻については、現在 を以 て白紙だ」
父がそう宣し、燎琉は目を瞠 った。
「なぜ、急に」
「訴えがあった。この者は、自らが癸 性を有することを利用して、そなたを籠絡 せんとした、とな。発情抑制のための薬を敢えて服用せず、そなたの発情を誘って、つがいとなった。この所業は、我が皇子の身に生涯消えぬ傷を負わせたに等しい。――燎琉、そなたが皇后の産んだ唯一の子、次期皇太子とも目される皇子であったことを思えば、叛逆罪にも準ずる罪だ」
「っ、事実無根です! 瓔偲はそんなことはしていない! むしろ……!」
むしろそのことで罪に問われるならば、それは黒幕と判明した宋 英章 や、宋清歌 であるはずだ。場合によっては、第三皇子・朱 煌泰 の母である万 貴妃 や、その一族も、陰謀 には関わっているのかもしれない。
燎琉は皇帝の前に出て、そう訴えようとした。
だが、そうすることは叶わなかった。
「黙れ」
皇帝は鋭いひと言で燎琉の言葉と動作とを制すると、ちら、と、近衛の者に目で合図をした。それを受けた士卒がふたり動き、左右から、燎琉を羽交い絞めるように拘束する。
「っ、なにをする!」
燎琉は目を怒らせて抵抗を試みたが、こちらを捕える士卒の腕はすこし弛 まなかった。
「父上……陛下! なぜです! 瓔偲はなにも……!」
身体の自由を奪われながらも、父皇帝を真っ向から見据える。しかし、相手は表情ひとつ動かさなかった。その不自然なほど凪 いだ父の態度に、燎琉は、まさか、と、息を呑んで大きく目を瞠った。
「父上は、わかっておいでなのですか……もとより瓔偲に罪がないことは」
それでも敢えて瓔偲を断罪しようとしているのか。
「なぜ……?」
いったい、なぜだ。なぜそんなことになるのだろうか。
信じられない思いで父帝の顔を見て、燎琉は顔をしかめた。いったいこの件を最初に皇帝の耳に入れたのは誰だろう。宋清歌か、あるいはその侍女の口から、おそらくは宋英章へと事態は伝わった。そして、その英章が、たとえば六部を束ねる長官である万 尚書 令 に泣きついたとしたら、どうだろう。
万家の当主から、妹である万貴妃に話が伝わる。そして、貴妃の口から、今度は燎琉の父皇帝に訴えがいったのではなかったか。
さらに、事について聴き及んだ皇帝が、なによりも朝廷 の安定をまず第一に重んじたのだとしたら――……。
重鎮の宋家を、万家を、急に失墜させるわけにはいかない。万貴妃を、その子・煌泰を、その罪に連座させるわけにもいかない。もしもそんなことになれば、践祚 よりまだわずか二年あまりの父帝の朝廷にとって、たいへんな大嵐だからだ。
だったら、彼らの罪には目を瞑り、代わりに別の者を罪する――人身御供のように犠牲にする――ことで、この難局を乗り切ってしまうほうが早い、と、父はそう考えたのだ。その結果が、瓔偲に罪を着せるかたちでの、捕縛である。
「父上は……瓔偲ひとりにすべての責を負わせ、それで、今度のことを幕引きにするおつもりですか」
燎琉は父を見ながら、呆然と呟いた。それから、き、と、視線を鋭くする。
「っ、罪のない瓔偲に、父上は濡れ衣を着せるのか!」
宋家や万家は、いますぐは、失えない。だから、かわりに瓔偲を捨てるというのか。
瓔偲ならば、捨てても良いのか。呆気なく。迷うこともなく。犠牲にされても良いと言うのか。取るに足らぬ書吏 だからか。それとも――……癸性だからか。
燎琉は眉根を吊り上げ、声を荒らげた。
「そんなことが、赦されるはずがない……!」
父帝を真っ直ぐに睨 めつけて吐き棄てる。
父は不愉快そうに片眉を動かした。が、何かを――燎琉の発言に対する否定も肯定も――言うことはない。
その沈黙は紛 うことなき肯定だ、と、燎琉は思った。
「陛下……ご再考を」
歯を食いしばりながら、非難するように父を呼ぶ。
「黙りなさい、皇子」
そんな燎琉に対して、今度口を開いたのは母皇后だった。ぴしりとした口調で息子を咎めると、母はまるで不快なものでも見るときのように眉間に皺を寄せ、瓔偲に視線をやる。
「癸性の者など、もとより、あなたの妃 にはふさわしくなかったのです」
冷たい声で言い棄てる。
それを耳にした燎琉は、ふいに、叔父の鵬明 の言葉を思い出していた。
そういえば、この母は最初から、瓔偲に毒杯を賜 えと皇帝に訴えていたのだという。万貴妃や、その子・煌泰が失脚すれば、それは燎琉を皇太子にと望む母后にとっては喜ばしいことであるはずだ。だが、それをいったん措 いてでも、母はまず瓔偲を燎琉から引き離すことを優先することを選んだのだ、と、燎琉は諒解した。
だからこそ皇后はいま父帝とともにこの場にたっているのだ、と、燎琉は暗澹たる想いでうつむいた。父も、母も、瓔偲をなんだと思っているのだろう。彼だって心あるひとりの人間 なのに、自分たちの都合で、盤上の駒かなにかのように、好き勝手に扱おうとしている。
真っ赤な怒りが湧いた。燎琉は、ぎり、と、てのひらを握り込み、くちびるを噛んだ。
だが母皇后は、こちらのそんな様子には気がつかないらしい。
「父上に……皇帝陛下に感謝なさい、燎琉」
噛んで含めるようにそう言った。
「わたくしの、かわいい燎琉。その者とのつがいの関係が解消されれば、あなたは再び自由なのですよ……何の枷 もなくなるのです。そうなれば、あなたは今度こそ、あなたにふさわしい妃を娶ることが出来るわ。――こんな者ではなく、ほんとうに、次期皇太子にふさわしい相手を迎えれられる」
そう連ねられる母の言葉は、燎琉に激しい嫌悪感をもたらした。
吐き気がする。誰も彼も、ほんとうに、なんと身勝手なのだろう。瓔偲を何だと思っているのだ、と、昨日、宋家の令嬢 に対して感じたのと同じ思いが、ふつふつと湧いた。
だがそこで、ふと、聞き捨てならぬ母皇后の言葉を聞き咎める。
「つがいの関係を、解消……?」
母はいま、そう言わなかっただろうか。
けれども、そんなことは不可能だ。
甲 癸 の間で一度 結ばれたつがいの関係は、終生にわたって続くはずである。どちらかが死ぬまで、それは解けることなどない。一方の死、それによってのみしか、解消されえないものだった。
「ちち、うえ……?」
燎琉は息を呑み、目を瞠って皇帝を見た。
父は苦々しい表情をしている。それを見て、燎琉は一瞬で悟った――……間違いない。父帝は瓔偲に死罪を言い渡すつもりなのだ。
そも、父は瓔偲の罪を、叛逆罪に準ずると言ったではないか。その刑罰は、もとより、死罪である。母がはじめからそうするよう求めていたとおりの賜杯 ――毒の入った酒杯を賜うこと――だ。
「っ、そんなのは、おかしい……!」
そんなことが赦されてなるものか。だって、瓔偲に罪はないのだ。ただただ懸命に国官として勤めてきただけなのに、こんな理不尽があるだろうか。
「させるか……!」
燎琉は歯を食いしばり、己を押さえつける士卒の手を振りほどこうと思い切り暴れた。だが、ますます力を籠めて押さえつけられ、ついには、腕を捻 りあげられ、動きを封じられてしまう。
「っ、瓔偲……!」
必死に声を上げる。
すると、それまでずっとおとなしく黙ったままで首を垂れていた瓔偲が、その瞬間、わずかに視線を持ち上げた。
黒曜石の眸が燎琉を見る。なにか眩 いものでも見るときのように、瓔偲はすぅっと目を眇めた。
「殿下」
やわらかな声が燎琉を呼ぶ。燎琉ははっとして真っ直ぐに相手を見詰めた。
瓔偲は――もはやすべてを諦めた者のように――かすかに、わらう。仕方がない、慣れている、だってわたしは癸性なのだから、と、彼のしずかな微笑は、あまりにも深くかなしい諦念を滲ませて、そう語っていた。
「瓔偲……」
燎琉が歯を喰い締めて名を呼んだとき、皇帝の声が辺りに響いた。
「第四皇子、朱燎琉を害した廉 により、郭瓔偲に毒杯を賜う」
皇帝は、瓔偲 の死罪を無情にも宣告し、手を振って侍官に合図する。
「っ、ふざけるな……!」
燎琉 は、己の立場も顧 みずに、父帝を真正面から罵 った。
「燎琉、黙りなさい! この者の罪は、皇子に対する叛逆です。その罪をこの者ひとりに止 めて、親戚縁者九族に及ぼさぬだけでも、陛下の御温情に感謝すべきです」
「なにが、温情だ……! なにが! 罪なき者にすべての罪をかぶせ、死を賜 って終いにしようとするのが、皇帝の温情ですか! それが万民を導く皇帝のすることかっ!」
「っ、口が過ぎるぞ、皇子。――早 う、郭瓔偲に毒杯を」
はっきりとした皇帝の命を承 けて、近侍官が動いた。瓔偲は後ろ手の縄を解かれ、けれども棒を構えた兵卒に油断なく見張られながら、その手に毒酒の入ったちいさな杯を与えられている。
「瓔偲……!」
燎琉は羽交い絞めにされたまま、必死に相手を呼ばわった。
跪 かされたままの瓔偲は、手渡された毒入りの酒杯を、いっそ恭 しく両手に戴 いている。そのまましばらく動かず、何を思うのか、ただじっと毒杯の中味を見詰めていた。
「……やめろ!」
燎琉は縋 るように言う。
「やめろ……呑むな! 呑むんじゃない! たのむから……!」
遮二無二頭 を振って、瓔偲に訴えた。
「――殿下」
そのとき、それまで毒杯を見詰めていた瓔偲が、ふと燎琉のほうを見た。しずかな眸に、燎琉ははっと動きを止める。
「殿下。わたしは……」
瓔偲が言いかけたときだった。控えよ、と、母皇后が声高に叫んで瓔偲の発言を咎めた。
「誰が口をきいて良いと言ったか」
鋭い叱責の言葉だったが、しかし、これは父が軽く手を上げて制する。
「かまわぬ。――郭瓔偲、なにか言い残すことがあるか」
皇帝に訊ねられ、瓔偲はそちらへと視線をやった。
「陛下のご厚情に感謝いたします」
事ここに及んでも、実に平静に、官吏然として、丁寧に皇帝に頭を下げて礼を示している。
「わたくしなどが言うまでもないことにはございましょうが、殿下は……燎琉さまは、やさしく、誠実で、素晴らしい御方にございます。きっと後々は、陛下の施政を引き継ぎ、この国にさらなる繁栄をもたらされるにちがいない。ですから、陛下、どうかわたくしがこの杯を呷 りましたあかつきには、ぜひとも殿下を皇嗣 にお据えになることをお考えくださいますよう、僭越とは存じながら、伏してお願い奉 ります」
どうか約束を、と、瓔偲はその黒眸を、まるで臆 することも怯 むこともなく、皇帝と皇后とに真っ直ぐに向けていた。
「あい、わかった」
皇帝がうなずく。
それを聴いた瓔偲は、ふ、と、安堵したように口許を綻ばせた。
それから再び燎琉のほうへと向き直ると、今度はやさしく目を細めた。
「殿下」
「っ、瓔偲……」
燎琉は眉を寄せる。くちびるを噛んで、声を詰まらせる。
瓔偲はただしずかに、すこしだけせつなげに、燎琉に微笑みかけてきた。
「そんな表情 をなさらないでください、殿下。そう、殿下も昨日、おっしゃっていたではありませんか。わたしを咬まねばよかった、と……ごもっともだと、思いました。急にこんな者とつがってしまい、あまつさえ、妃にせよとまで命じられて……けれども、わたしがこの杯を干 せば、それですべては、元の通りですから」
瓔偲が微笑みながら紡 ぐ言葉に、燎琉は目を瞠った。ちがう、そうじゃない、と、声にならない声で言って、必死に頭 を振る。が、瓔偲はどこか切なげに、しずかに微笑むばかりだった。
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