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五章 第四皇子、白百合のために抗す。(4)

 燎琉は、己の発言を激しく後悔する。  たしかに昨日、自分は、瓔偲を咬まねばよかった、と、そう言った。でもそれは決して、いま瓔偲が言うような意味ではなかったのだ。  瓔偲を邪魔者だと思ったのではない。望まぬつがいを持ってしまったと、己の不運を嘆いたのではなかった。  そうではなくて、理性を以て己を(とど)めることができずに瓔偲を咬んで、国官としての彼の未来を閉ざしてしまった我が行為を、どうしても悔いずにはいられなかっただけだ。  それは瓔偲を疎んだがゆえの発言ではなかった。  むしろ、彼をひとりの人間(ひと)として尊重し、たいせつに思うがゆえの、後悔だった。  瓔偲の願いを、瓔偲の望む在り方を、最後の最後の一線で踏み(にじ)ってしまったのが己の行為だというその事実が、燎琉にはつらくてならなかった。ただそれだけで、邪魔だなんて、思うはずもない。 「それに、今朝も……わたしの存在が無意識に殿下を惑わせてしまうのを快く思わないから、薬を呑んだか、わざわざお確かめになったのでしょう? でも、私がこの世から消えれば、憂いは永遠になくなります。もう二度と、殿下のお心を(わずら)わせることはありません」 「ちがう、瓔偲……ちがうんだ……!」  燎琉は絞り出すように、苦しげに(うめ)く。  それもまた、そんなつもりではなかった。  誘われるようにくちづけてしまったのは、事実かもしれない。けれども、そのことを厭だなどと思いはしなかった。心の底から湧き出すように滾滾とあふれる想いに戸惑いこそすれ、あたたかくゆたかに己の身体を満たしていくその想いを手放してしまいたいだなどと、燎琉は、決して望んではいない。  ほんとうは、かなうことなら、瓔偲を自分の傍らから離したくはない。ずっと傍で、言葉を交わし、微笑み合って、そうやって、もっともっとふたりで時を紡いでいければいいと思っている――……ああ、そうだ。今日、仕事を終えて椒桂(しょうけい)殿(でん)に帰ったら、瓔偲にそう告げるはずだった。  それなのにどうしてこんなことになっているのだろうか。  燎琉は、己の不甲斐なさへの悔いや理不尽への憤り、瓔偲の在り方へのかなしみやせつなさ、そういったものの一切が綯い交ぜになった感情に、うつむいて、ぐぅ、と、(うな)った。眉をしかめる。昂った感情に、目の奥が、じん、と、熱かった。  そんな燎琉とはうらはらに、瓔偲は、にこ、と、清潔で静謐な笑みを口許に浮かべた。 「殿下はお優しかった、とても……わたしのような者にも、しかも、突然押し付けられたにもかかわらず、何の(てら)いも(へだ)てもなく、やさしさをくださいました。もったいないほどに……だから」  瓔偲はわずかに目を伏せ、白い(かんばせ)をうつくしく笑ませる。  ふわ、と、やさしい白百合の香が漂った気がした。 「だから、わたしは……殿下で、よかったな、と」 「瓔偲……?」  「ほんのわずかのご縁でしたけれども、わたしのつがいが殿下で、よかった。身の程を弁えよとお怒りを買うかもしれませんが、でも、いま心から、そう思うのです……死んでもいい、と」  え、と、息を呑んで、燎琉は瓔偲をまじまじと見詰めた。  瓔偲はどこまでも透明に澄んだ、清らかな微笑を浮かべている。すべてを諦め、けれども、どこか満ち足りたような、透きとおった陽射しのごときほほえみだ。 「死んでもいいと、おもうのです。あなたさまの、ためなら。それが殿下の御為(おんため)になるのなら、わたしは……」  そこで言葉を紡ぐことを()めた瓔偲は、ただそっと燎琉に視線を送った。  それから手に持った杯に視線を落とし、はた、はたり、と、ゆっくりと二度ほど瞬く。 「やめろ……!」  燎琉は瓔偲に向かって喉から絞り出すような声を上げ、かつ、自分を押さえつける士卒の手を再び振りほどこうとする。 「やめてくれ……!」  押さえ込まれて、動作もままならぬまま、瓔偲を見据えて乞うよう言う。瓔偲はまだじっと毒の入った酒杯に視線を注いでいたが、すこしだけ顔を上げると、ごくゆっくりと、どこまでもていねいに、燎琉に頭を下げてみせた。 「殿下に御礼と……お別れを」  声は、静かだ。  どこまでも、静かだ――……いっそ、かなしいほどに。  頭が下がるのに合わせ、瓔偲の艶やかな黒髪が肩からこぼれる。その髪を飾っているのは、燎琉が彼に贈った(かんざし)だった。覗いた白い(うなじ)には、彼と燎琉との(ほだし)の証である咬傷があるはずだ。  それなのに彼は、いま、燎琉のもとを去っていこうとしている――……もう二度と、手の届かないところにまで。  いっそ官吏然として凛として見える瓔偲の姿に、燎琉は息を詰まらせた。 「どうか殿下は、ふさわしい御方と結ばれ、皇太子におなりになってくださいませ……そして、国に繁栄と、民に安寧を。――殿下のお幸せと万歳とを、心より、お祈りいたします」  言い終るや否や、瓔偲は躊躇いなく杯に口をつけた。  瀟洒な酒杯を両手に掲げるようにして、そのまま一気に呷ってしまう。  白い喉が、こくり、と、嚥下のかたちに動いた。時の流れがそこだけ遅くなったかのような光景を、燎琉はただ、言葉にならぬ絶望とともに、見詰めていることしかできない。  一瞬のような、永遠のような静寂が(わだかま)った。  瓔偲が杯を取り落とす。床に落ちたそれ、カン、と、甲高い音を立てて転がった。かと思うと、瓔偲の細い身体がぐらりと傾ぐ。  とさ、と、その身が地に倒れ伏す音は、いっそ呆気ないほどのかそけさだった。目の前の光景には、まるで現実味がない――……否、(うつつ)だと、信じたくない。 「瓔、偲……」  燎琉はつぶやいた。ようやく兵卒の手がほどけた途端、(まろ)ぶように瓔偲に駆け寄っている。 「瓔偲……瓔偲! 返事をしろ!」  すでに力なく地に倒れ伏した相手を抱き起こし、燎琉は必死で呼びかける。  だが、(いら)えはなかった。ただ、胸に抱いた瓔偲の口許から、つう、と、(あか)い血が一筋こぼれている。  燎琉は暗然消魂となる。目の前が真闇に塗り潰されたかのように真っ暗だった。 「燎琉……!」  燎琉が瓔偲を抱きかかえたままで深くうつむき、絶望に暮れていたまさにそのとき、ふいに場に飛び込んできた者がいる。皇弟(おうてい)鵬明(ほうめい)だった。  叔父はおそらく、報せに走った皓義(こうぎ)の話を聞くやいなや、ここへと駆けつけてくれたのだろう。めずらしく、わずかに呼吸を乱している様子である。何か予感するものがあったのか、後ろには燎琉付きの太医(たいい)である(しゅう)華柁(かだ)をも伴っていた。  内殿の入り口でざっと場を見まわした鵬明は、そのまま真っ直ぐに燎琉の傍へ駆け寄ってくる。周太医もまたそれに(なら)った。 「瓔偲さま……!」  周華柁は、燎琉の腕に抱かれてぐったりしている瓔偲をひと目見るなり危急を感じ取ったようだ。血の気の失せた蒼い顔を覗き込み、力なく垂れた白い腕を取って、脈を診る。 「燎琉、これは……?」  燎琉の隣で片膝を折った鵬明は、こちらを覗き込むようにしてそう訊ねた。 「これはいったいどういうことだ」 「毒杯を、呑みました」  叔父の問いに、燎琉は弱々しく答える。 「皇家の毒か……」  ちら、と、転がった杯を見遣ると、鵬明は厳しく眉を寄せ、重々しい口調でつぶやいた。  瓔偲を看ている老太医もまた深刻な表情をしている。しばらく脈を聴いていたようだが、そのままひと言も口をきかぬままに、瓔偲の口許に指を当てて呼吸(いき)を確かめた。 「どうだ。周じぃ」  燎琉は祈る思いで周太医に問うた。 「どうなんだ……!」  焦れるような思いで、燎琉は思わず声を荒らげていた。けれども周華柁はまだしばらく黙ったまま気を研ぎ澄ませて瓔偲の様子をうかがっている。  やがて顔を上げると、じっと燎琉を見詰めてから、ちいさく首を横に振った。  燎琉は目を瞠り、ひゅ、と、息を呑む。 「そん、な……瓔偲」  呆然と呟いた。 「瓔偲……瓔偲」  己の腕に力なく身を預けている相手を見下ろす。  繰り返し、名を呼ぶ。  身体を揺すぶってもみたが、それでも、相手が動く気配はなかった。 「瓔偲……!」  燎琉は再び彼を呼ぶ。答えろ、答えてくれ、と、泣きそうに眉根を寄せた。  傍らの周華柁は痛ましそうな顔をしている。鵬明もまた、忸怩たる表情をみせ、くそっ、と、そう悪態を吐いた。 「瓔偲……なぜ、お前は……」  いったいどうして、と、おもう。なぜ、たったひとつの反論すらもせぬままに死など選ぶんだ、と、相手の選択を責めるようなきもちで、燎琉はいまやぴくりとも動かない瓔偲の身体を、きつく、きつく、抱き締めた。 「瓔偲……!」  堪らないきもちで彼の首筋に顔を埋めたときだ。燎琉ははっと息を呑んだ。  ふわり、と、鼻腔をやさしい香りが掠めた――……白百合の香だ。  運命のあの日にかいで以来、ずっとずっと慕わしかった、瓔偲の芳香(かおり)だ。 「……っ、じぃ!」  燎琉は弾かれたように顔を上げると、叫ぶように周華柁を呼んだ。 「百合の香が……瓔偲の香が、まだ、絶えていない……瓔偲は生きている、まだ……!」  生きているはずだ、と、燎琉は(すが)りつくように周太医の顔を見た。 「たのむ、もう一度、瓔偲を、みてくれ」  途切れ途切れに、懇願するように、燎琉は必死に言い募った。  老太医はうなずき、再び瓔偲の手首を取る。目を閉じて、じっと耳を澄ますようにした。  やがて息を呑み、はっと燎琉の顔を見る。 「これは……ごくごく弱いものではございますが、たしかに、まだ脈が。殿下、瓔偲さまは亡くなってはおられませんぞ」  聴いた途端、燎琉は、ああ、と、長い息をついた。全身から力が抜ける。よかった、と、瓔偲の身体に懐くと、また百合がやさしく香って、それだけで嗚咽が漏れた。 「よし、瓔偲をお前の殿舎に運ぶぞ! 一刻も早く処置を」  立ち上がった鵬明が言う。そうだ、呆けている場合ではなかった、と、燎琉はうなずいて、瓔偲を横抱きに(かか)え上げた。 「燎琉……!」  そのとき、なお咎め立てるようにこちらの名を呼んだのは皇后である。 「その者には(わたし)が死を賜ったのだぞ。それを、()が命に背いて、助けようというつもりか」  父皇帝もまた責める調子で低く言った。  けれども燎琉はふたりを振り向かぬまま、きっぱりとした冷静な声で応える。 「父上。それから、母上にも。申し上げておきます。――瓔偲がどうなろうが、俺の……私の(きさき)は、生涯、これだけだ。私のために躊躇いなく命を(なげう)つ者を()いて、他に娶る気など、私にはありません。決して……」  言い棄てるように宣言して、燎琉は内殿を後にした。 「兄上……陛下」  その燎琉の背後で、今度、皇帝を呼ばわったのは鵬明だった。 「私は燎琉を幼い頃から存じておりますが、これが自儘(じまま)を言うのを……こんなふうに我を通そうとするのを、これまで、見たことがない。時おり可哀想になるくらい、燎琉は聞き分けのよい子だった。――そうは、思われませんか、陛下?」  鵬明は兄である皇帝に静かに問う。  皇帝も、隣に立つ皇后も、刹那、返す言葉に詰まって黙り込んだ。 「授けられたものは受け、自らでは欲しがらず……まるで、それが皇家に生まれたものの宿命(さだめ)であり、それを呑んで生きるのが皇族の責任だとでもいうように。燎琉は、我が甥御どのは、幼いながらも自然と、皇族のなんたるか、皇族とはどうあるべきか、それを理解していたからでしょう。いっそ痛ましいほどに……だが」  そこで鵬明は一端言葉を切り、改めて皇帝を見据える。 「その燎琉が、いまはじめて、我が意志を通そうとしている。立場を越えて父帝に逆らってまで、守ろうとしているものがあるんだ。――尊重してやろうではありませんか、兄上」 「しかし」 「陛下……兄上。私はこれまでずっと、あなたの忠実な弟皇子であり、臣下であった。――ですが、どうぞお忘れになられぬように。我が母は後宮の半ばを押さえる皇太后の地位にあり、そして、我が外伯父(おじ)はあなたの朝廷を掌握する門下(もんか)侍中(じちゅう)……後ろだてとしては、十分だ。もしも私に野心があれば、陛下、あなたのその至尊の位も、決して安泰ではありえない」 「っ、無礼な! 皇弟殿下、そなた、天子を脅そうてか?」  皇后がいきり立つが、鵬明は、ふん、と、軽く鼻を鳴らしてこれをあしらう。 「可愛い甥のためだ。――ああ、そうそう、(そう)家と(ばん)家の件については、すでに伯父(おじ)の耳に入れてある。陛下には、どうぞ、朝の舵取りについて、門下侍中とよくよくご相談いただいて、お決めくださいますように」  では、と、最後に人を喰ったような笑みを浮かべると、呆然とする皇帝と皇后を後に残して得、鵬明もまた(きびす)を返した。

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