19 / 23

六章 第四皇子、白百合に冀う。(1)

「殿下……すこし、お休みになっては?」  燎琉(りょうりゅう)の背中に、皓義(こうぎ)が静かに、おずおずとした調子で、声をかけてくる。 「あまり無理をしては、今度は殿下のほうが身体を壊してしまいますよ」  いかにも(うれ)わしげな口調で言われたが、燎琉はそれに対して、うん、と、短く応じた。  それでも結局は、寝台の傍を離れることができないでいる。  あれから数日、この遣り取りとてももはやいったい幾度めになるものか、燎琉には記憶がなかった。  我が殿舎で、椒桂(しょうけい)殿(でん)正堂(おもや)である。正房の隣の臥室に()えられた牀榻(しょうとう)には、いま、瓔偲(えいし)が力なく横たわっていた。  眠り続けるその頬は、まるで(ろう)のように真っ白で、血の気がない。(しゅう)華柁(かだ)が懸命の処置を施してくれた結果、瓔偲はまだかろうじて命脈を保っていた。が、その頼りない命の灯火(ともしび)は、いつ絶えてしまうとも知れない状態が続いている。  心身が恢復(かいふく)して目を覚ますか、それともこのまま衰弱していって、やがて死の魔手に絡め捕られてしまうのか。あとはもはや瓔偲の生命力次第だ、と、周太医はそう言っていた。  だからこそ、燎琉は瓔偲の傍を離れられずにいる。  もしも自分が目を離したほんのわずかの間にも瓔偲が呼吸(いき)をするのをやめてしまったら、と、そう思うと(たま)らなく不安だった。あれ以来、片時も気を休めることができないまま、瓔偲の(かたわ)らにずっと付き添い続けている。 「瓔偲……」  燎琉は瓔偲の(あお)()めた頬を指の先でそっと撫でた。 「はやく、起きてくれ……」  たのむから、と、祈るように思う。  話したいことがあるんだ、聞いてくれるといったろう、と、そうおもう。 「瓔偲」  再び呼びながら、今度は己の顔をすこしだけ瓔偲に近付けた。そうすると、ふわり、と――かすかで頼りないけれども――たしかに百合の芳香(かおり)を嗅ぐ気がする。  それなのに、瓔偲はまだ薄い瞼を閉じたままで、いっこうに動かなかった。  もしかしたらこのまま二度と目覚めることなく、彼は儚くなってしまうのかもしれない。燎琉は顔をしかめた。  そも、瓔偲は、皇家に伝わる即効性の毒を(あお)ったのだ。本来ならばいま生きていること自体が奇跡のようなものだった――……それは、わかっている。それでもまだ、彼のいのちを諦められない。  あきらめたくない、と、おもう――……どうしてもだ。  燎琉は、きゅう、と、せつなく眉根を寄せた。 「殿下……」  皓義がまた心配そうにこちらの背中に呼びかける。  ふう、と、静かにひとつ息をついて、燎琉はようやく侍者のほうを振り返った。 「……桂花が、咲いたか」  口にしたのはそんな言葉だ。風を入れるために開け放してある扉から、秋の風とともに、わずかに、やさしく甘い香りが漂ってきた気がした。  院子(なかにわ)にある木が、あるいは、花をつけたのかもしれない。  そういえば、と、燎琉は思い出す。はじめて燎琉の房間(へや)に足を踏み入れたとき、瓔偲はたしか、桂花の香りがする、と、そんなことを言っていた。椒桂殿の名の通りここの院子にはその木があるから、と、燎琉のほうはそう(いら)えた。  あのときはまだ葉ばかりだった桂花木は、いま、ちいさく愛らしい花をつけたものと思われる。  さあぁん、と、秋風が吹いてくる。  牀榻の(とばり)の、薄い紗が揺れる。  秋風に運ばれて、やさしい桂花(きんもくせい)の香りが寝台のところにまで届いてきた。 「せっかくだ。ひとさし、折ってこようか」  燎琉は眠り続ける瓔偲にそっと語りかけた。  あのときの口振りからして、瓔偲は桂花の香を好ましく思うようだった。だったら、いま、彼の傍らに花をつけた枝を置いてやろうか、と、そう思い立つ。その香りに気付いた瓔偲がもしかしたら目を覚ます可能性だってあるのではないか、と、そんな万一の可能性にも(すが)るような気分だった。 「取ってくるよ」  燎琉が、そっと瓔偲に微笑みかけながら言って(きびす)を返しかけた、そのときだ――……血の気の失せた白い瞼が、ふいに、ふる、と、わずかにちいさくふるえた気がした。 「瓔偲……!」  その瞬間、燎琉は弾かれたように寝台の縁に取りついていた。間近から瓔偲を覗き込む。 「瓔偲」  名を呼ぶ。再びかすかにふるえた瞼が、応えるように、やがてゆっくりと持ち上がった。  はた、はたり、と、瓔偲は緩慢に(またた)きをする。  やがてその下の黒い眸が、ぼんやりとしてはいるが、たしかに燎琉を移し出した。  薄いくちびるから、ほう、と、長い息が漏れる。 「……殿、下」  掠れた声に呼びかけられた刹那、まだぼうとするばかりの相手に、それでも(たま)らずに()いついていた。力を籠め、その細い身を抱き締める。 「瓔偲……」  瞼が、目頭が、じん、と、熱くなる。 「瓔偲……!」  あふれる想いをこらえるように眉根を寄せ、肩をふるわせて、燎琉は繰り返し相手の名を呼んだ。 「っ、周先生を呼んで参ります……!」  皓義が慌てて正房から駆け出していき、やがて客房に控えていた周華柁とともに戻ってくる。老太医は、(しとね)の上でたしかに目を開けている瓔偲の姿をみとめると、ほ、と、ひとつ安堵の息をついた。 「ああ、ようございました。お目覚めになられましたのならば、まずは、ひと安心です。――皓義どの、水差しに水を。それから、重湯かなにか、瓔偲さまが口にできそうなものを用意させてくださいますかな」 「はい、すぐに!」  皓義は再び慌ただしく房間(へや)を出て行く。  周太医は瓔偲の傍へ寄ると、その手を取って脈を診た。 「ふむ、ふむ……大丈夫そうですな。あとは滋養のあるものを召し上がるなりなんなりして、体力さえ恢復いたせば、もう心配はご無用。ほんに、よろしゅうございました」  言いながら、まだ顔に心配をありありと浮かべている燎琉を振り返って、老太医は笑う。力強く頷いて見せる周華柁の言葉に、燎琉もようやく、ほう、と、心底からの安堵とともに、長い息をはき出した。  皓義が水差しを持って早足に戻ってくる。  燎琉は従者からそれを受け取ると、瓔偲の身体を支えて、ゆっくりと半身を起こさせた。  背のあたりに綿枕(わたまくら)を入れてやり、己の肩に相手の身を(もた)れかけさせるようにすると、瓔偲のくちびるに水差しをあてがって水を吸わせる。瓔偲は最初こそ軽く()せてしまったが、すぐに、こく、こく、と、水を飲んだ。  その、喉の動きに、燎琉の胸には熱いものが込み上げた――……同じような嚥下の動作でも、毒を呑み干したときとはちがう。今度のそれは、瓔偲の生を象徴する動きなのだ。  いくらか飲み終えたところで、ほう、と、瓔偲は息をついた。 「わ、たし……どうし、て」  毒杯を(あお)ったはずなのになぜまだ生きているのか、と、瓔偲が訊きたいのはそういうことだろうか。 「じぃの……周太医の調合した発情抑制の薬を、呑んだだろう、朝に。その薬の成分が、偶然、毒をわずかに弱めたらしい。その後は、周じぃが手を尽くしてくれた」  だから助かったのだ、と、燎琉は瓔偲に経緯を説明した。 「朝廷(ちょう)のほうの諸々は、鵬明(ほうめい)叔父が、門下(もんか)侍中(じちゅう)の手も借りて、なんとかうまくおさめると言ってくれている。だから、それも心配ない」  言いながら燎琉はあらためて、目の前で瓔偲が毒を(あお)り、その場に倒れ伏した瞬間のことをまざまざと思い出していた。  あのとき味わったのは、全身が冷え切るような、言明しがたい恐怖だ。瓔偲が、そのいのちが、この手の中からどうしようもなくこぼれ落ちていってしまう恐ろしさ――……けれども、紙一重の奇蹟で、燎琉は瓔偲を失わずにすんだのだ。  いままさにこの腕に抱えているぬくもりを、あらためて、限りなく貴く得難く、尊いものにおもう。瓔偲の肩を支える腕に、無意識に力が籠もっていた。 「ほんとうに……よかった」  燎琉はあらためて、心底から、しみじみとそう言った。  が、一方の瓔偲は、ちいさく柳眉を寄せて黙り込んでしまっていた。 「どう、して……?」  そう、先程と同じ言葉を繰り返す。  今度はそれに別の言葉が続いた。 「どうして、あのまま……わたしを、死なせてくださらなかったのですか」  ひそめ眉のまま、瓔偲は燎琉を見詰める。喉から絞り出すようにして瓔偲が言ったのは、まぎれもなく、こちらを責める言葉だった。 「な……っ」  信じられない想いで、燎琉(りょうりゅう)は目を(みは)った。  きつく眉を寄せたまま、いっそ目を潤ませて燎琉を睨みつける瓔偲(えいし)は、本気の憤りを眼差しに滲ませている。あのまま死んでしまったほうがよかった、と、言外にそう伝えてくる瓔偲を前に、燎琉は絶句した。 「な、ぜ……」  呆然とつぶやくことしかできない。 「だって……」  瓔偲はうつむき、ちいさな声で、自嘲するように言った。が、続く言葉を口に出来ないまま、己の顔をてのひらで覆ってしまった。 「瓔偲……」  燎琉は相手の細い肩に手をのせる。  それを受けて瓔偲は、己を落ち着けるかのように、ひとつ深呼吸をした。  顔を上げ、黒曜石の眸を燎琉へと真っ直ぐに向ける。 「だって、わたしは……()性の、わたしが、あなたさまのお傍にいては、いけないのです。それでは、あなたは皇太子になれない。わたしは、邪魔者です……あなたにとって。あなたの進むべき道を、閉ざしてしまうんだ。ほかならぬ、わたしが……閉ざしたくは、ないのに……だから」  いっそこの世からいなくなってしまいたかった、と、うつむき、顔をてのひらで覆ったままで、瓔偲は途切れ途切れに漏らした。その声は、どこかたまらぬ嗚咽(おえつ)じみていた。  彼が本来ゆくべき道を己が閉ざしたくはない、とは、燎琉もまた瓔偲に対し同じように思ったことだった。  瓔偲は国のために尽くす官吏、国官として生きるべきであって、そのためには、彼をつがいとして燎琉の傍らにとどめてはいけないのではないのか、と、そう思った。手放してやらなければならない、手放すべきなのだ、と、自分に言い聞かせるような思いで無理に納得しようとしたのだ。  けれども、それは、瓔偲をたいせつに思うからこそのことだった。彼が大事だから、ひとりの人間(ひと)としての彼を、彼の望みを、意思を、きちんと尊重したいと思ったのだ。  瓔偲も同じなのだろうか。燎琉のことを思ってくれるからこそ、彼はいま、なんともならない(うら)みの気持ちを吐露しているのだろうか。燎琉は眉根を寄せ、胸が詰まるのを感じながら瓔偲を見詰めた。  瓔偲はさらに――彼らしくもなく、訥々(とつとつ)と――言葉を継ぐ。 「あなたは、ちゃんと……あなたにふさわしい御方と、結ばれるべき、なのに……」  ふいに相手の口からこぼれた言葉に、ほんとうに唐突に、燎琉は己の中で怒りにも似た感情が烈火のごとく渦を巻くのを感じた。 「お前以上に俺にふさわしい者などいやしない……!」  気づけばそう声を荒らげている。 「お前は俺のつがいだ。生涯、絶ちがたい縁で結ばれた相手だろう! そのお前を()いて、いったい他の誰が、俺にふさわしいというんだ?! そんなやつはいない!」  いるわけがない、と、ぎりりとてのひらを握り込んで、きっぱりとそう言う。  燎琉の剣幕に一瞬気圧(けお)されるふうだった瓔偲は、けれどもすぐに、き、と、鋭い視線でこちらを()めあげてきた。 「いくらでもおります! いくらでも……!」  彼の返してきた言葉は、これまでになく、尖った鋭いものだった。 「お前……」  燎琉は息を呑んだ。  瓔偲はしばらく怒らせた眸で燎琉を睨みつけていたが、やがてはっと我に返る。その後は力なく視線を落としてしまった。 「すみ、ません」  眸を戸惑いにゆらめかせつつ、瓔偲はちいさな声で詫びた。ほう、と、しずかにこぼされた吐息が燎琉には切なかった。 「俺のつがいは、お前だ……瓔偲」  燎琉が言うと、ちら、と、相手は口許に自嘲めいた笑みを()く。 「そう……わたしと殿下はつがいで、これは切っても切れぬ(えにし)……殿下を縛りつけてしまう、要らぬ縁です。皇后さまもおっしゃていた通り、わたしがいなくなりさえすれば……それであなたは解放されて、あなたにふさわしい相手を得て、そうしたらきっと、皇太子の位だって、いつかは手に入れることが、出来るはずなのに……わたしさえ、いなくなれば」  瓔偲は弱々しい声ながらも、まるで頑是(がんぜ)ない小童のように、まだもってそう繰り返した。  そんな瓔偲を前に、燎琉はくちびるを引き結ぶ。ひとつ息を吸って、はき、それから相手を真っ直ぐに見詰めた。 「お前を手放してまで得る皇太子位に意味などない」  きっぱりと言う。 「すくなくとも俺は、そんなものに意味を見出せない」  燎琉の言葉に瓔偲ははっと顔を上げた。こちらと一瞬、視線を交わすと、それから、きゅうっと切なげに柳眉を寄せる。  黒い眸がゆらりと揺れた。  かと思うと、彼はそのまま、くしゃりと顔を歪めてしまう。 「あなたは……おやさしい。とても。だから……あなたに、そんなふうに言わせてしまうことが……わたしには、たまらなくくるしいのです、殿下」  瓔偲は深くうつむくと、またしても両のてのひらで顔を覆ってしまいながら、くぐもった声でそう(うめ)いた。 「わたしは、国官です。国に、民に、奉仕する者として……国のために、民のために、あなたには、皇太子になっていただくべきだと、おもう。それなのに、わたしのために、あなたにそれを投げ棄てさせてしまう。そのことが、つらくて、たまらない」  そう続けた瓔偲の肩は、いま、小刻みに揺れている。伏せた顔に彼が浮かべる表情は見えはしないけれども、てのひらで覆い隠すその下で、瓔偲は泣いているではないのか、と、燎琉はおもった。  そうだ、彼は泣いている。我が身のままならなさ、運命のままならなさに、声も立てずに嗚咽している――……そと悟った刹那、燎琉の喉からは、もうどんな言葉も出てこなくなっていた。  ただ黙って手を伸ばし、ひっそりと泣き濡れる瓔偲をやさしく包み込むように抱き締める。己が身を燎琉にふさわしくない、と、自分は燎琉の傍にいてはいけないのだ、と、そう繰り返していながらも、瓔偲はいま己を抱く燎琉の腕を拒むことはなかった。  おとなしく、こちらの腕の中におさまったままでいる。  そしてたぶん、それこそが、瓔偲の葛藤、懊悩(おうのう)(もとい)なのだ。 「やさしく、しないで……」 「いやだ」 「やめ、て……あなたから、離れがたく、なってしまう……いけないと、わかっているのに……なのに……桂花の匂いが、して……」  瓔偲はまだ声なき欷泣(ききゅう)に暮れたまま、燎琉の腕の中で、そんなことを言った。あまりにも憐れを誘う泣き方に胸を詰まらせながら、燎琉は瓔偲の頭を宥めるように撫でてやる。 「院子(にわ)の木が……花をつけたようだぞ」  そう言うと、瓔偲はふるふるとちいさく首を横に振った。 「ちがう。ちがいます。これは、殿下の香り……ずっと、最初から、わたしを包み込んでくれた、やさしい桂花(きんもくせい)の香り……包まれると……だめなのです。お傍に、いたくて……それは、わたしなどが、望んでいいことではないのに……殿下のために、ならないのに」  絞り出すように言いつつまだ静かに涙を流す彼をふと見ると、瓔偲は深衣(きもの)(えり)を強く握り締めて、苦しげに眉根を寄せていた。  衣に寄っている深い皺は、彼の苦悩の深さを象徴しているかのようだ。燎琉はくちびるを引き結んで、瓔偲の身を(いだ)き続けていた。 「――……お待ちください」  そのとき、不意に口を挟んだのは(しゅう)太医(たいい)だった。  燎琉ははっとして老太医のほうを見る。これまでふたりの遣り取りを傍らで黙って見守っていた周華柁(かだ)は、けれどもいま、呆然と目を(みは)っていた。  信じられない、と、その表情はそう言っているかのようだ。 「瓔偲さま……いま、何と……? 殿下の香り、と、たしかにそうおっしゃいましたな……」 「それがどうかしたのか?」  老太医の唐突な態度を怪訝(けげん)に思って、瓔偲に代わって燎琉が尋ねた。周華柁は燎琉の顔をまじまじと見たが、殿下、と、そう言ったきり、しばし言葉を探し(あぐ)むようにしていた。  だがやがて、燎琉と瓔偲とを交互に見ると、己を落ち着けるかのようにひとつ息を吐き、そして再び口を開いた。 「瓔偲さまは、殿下の芳香(かおり)を感じる、と、いまそうおっしゃいました」 「ああ、そうだ。だが、俺たちはつがいなのだから……」  瓔偲が燎琉の香りを感じ取っていても、それは普通のことではないのだろうか。燎琉は首を傾げ、周華柁のほうを見た。  老太医は燎琉の視線に、ちいさく(かぶり)を振る。 「いいえ、殿下。たとえつがいとて、発情期でもないのに、相手の匂いを感じ取ったりはしないのです」

ともだちにシェアしよう!