21 / 23

六章 第四皇子、白百合に冀う。(3)*

 それから、半月程が経った吉日の宵である。  瓔偲(えいし)を乗せた華轎(はなかご)の到着を椒桂(しょうけい)殿(でん)正堂(おもや)で待つ燎琉(りょうりゅう)は、緊張の面持ちをしていた。  いま椒桂殿は、門や(なかにわ)、それから(へや)の中など、すべてこれから執り行われる婚儀のために特別な飾り付けがなされている。燎琉が(まと)うのも、金糸で伝統的な龍の(ぬいとり)を施した、華やかな深紅の婚礼衣装だった。  とはいえ、この婚儀は、皇子のそれとしてはごくごく質素なものだ。  すべての儀礼は燎琉個人が与えられているこの殿舎で行い、父皇帝・母皇后の列席もない。もちろん他の皇族も、叔父の鵬明を除いては、いない。  それでも、鵬明が自分たちを祝ってくれるのは、心強かった。 「最初に燎琉に瓔偲との婚姻を命じたのは兄上なのに、本人たちが納得したこの()に及んで、まさか前言を撤回などされませんね」  叔父は兄皇帝に対してこう迫って――表面ばかりは穏やかな笑顔で――この婚儀の最後の御膳立てを整えてくれたらしい。約束通り、新娘(はなよめ)となる瓔偲の家の代理として、華轎(こし)を出してもくれていた。  瓔偲は、だから、鵬明の殿舎である繍菊(しゅうぎく)殿(でん)から、鵬明の養子格の身分で燎琉に嫁ぐこととなった。  今日、この日。自分たちの婚儀は、それでも、皇嗣とも目される皇帝の子の婚儀とは思われない、いかにも内輪のものといった(てい)である。  ただ、質素な婚儀だからといって、燎琉には不満はなかった。  これは、正式に瓔偲を(きさき)として迎えるための儀式だ。かたちも規模も関係ない。燎琉は瓔偲を妃にと望んでおり、瓔偲はその意を()れてくれた。この先、まだ遠い理想に向かって共に生きていくのだ、と、その決意を形にするためのものである。  自分たちは、今宵、正式な伉儷(めおと)になる。  それを周囲に明かすための、これはけじめの儀礼だ。  燎琉は己を落ち着けるように、ふう、と、ひとつ静かに息をはいた。無意識に門のほうへと視線をやっている。  瓔偲の姿は、まだ、見えてはいなかった。わたしなど、と、時折己を軽んずるところのある瓔偲は、果たして、この期に及んで逃げ出したりせずに、燎琉のところへちゃんと嫁いで来てくれるだろうか。  ふと不安が過ぎったその時だった。 「新娘(はなよめ)の御到着ー」  瓔偲を載せた華轎(かご)が椒桂殿の表門へ到着したことを告げる声が響いた。  開け放した正堂(おもや)の扉から、侍女の介添えを受け、彼女らに先導されながら、華垂(かすい)門を越えてくる瓔偲の姿が見える。こちらも深紅の婚礼衣装――銀糸での鳳凰(おおとり)の刺繍がうつくしい――を(まと)っていた。  頭には紅蓋頭(こうがいとう)と呼ばれる、顔を隠すための、(きら)びやかな薄い(きぬ)(かず)いている。  だから、その表情は見えない。  けれども、薄暮の空の下、甘い百合の香がふわりとここまで漂ってくるようで、ほう、と、燎琉は長く息を吐き出した。  きてくれた――……それだけで、燎琉の胸はいっぱいになる。  ちゃんときてくれた、と、もう一度思いながら、燎琉は、いまや院子(なかにわ)を越えて、しずしずと(きざはし)を上ってくる相手を、正堂(おもや)へと迎え入れた。  介添えの者に代わって瓔偲の手を取り、己の隣の席へ座らせる。己も座る。また、ふわ、と、清冽な百合の芳香をかいだ気がした。 *  それからも婚儀は粛々と進められた。けれどもその間のことを、燎琉はあまりよく覚えていない。緊張していたのとはすこし違うけれども、それに似て、頭に血が上ったみたいに、終始、ぼう、と、しているようなところがあった。あるいは、気持ちが浮き立っていたのだろうか。  婚儀に置いて最も重要な儀礼は、新郎(はなむこ)新娘(はなよめ)とが(そろ)って行う三拝礼だ。並んで(ひざまず)き、まずは天地に一拝、続いて祖霊に一拝、最後に瓔偲と向かい合って、互いに礼を交わしたとき、床に手を付き深々と(こうべ)を垂れた瓔偲の、紅蓋頭の隙間からわずかに覗いた黒髪が綺麗だったのを覚えている。  次の儀は交杯酒だった。新郎・新娘が腕を交差するように絡めて酒杯を干すというものだが、ちいさな玉杯に満たす酒としては、皓義が桂花陳酒を選んでいた。  酒杯の中で透明に澄んだ黄褐色の液体がゆれていた。  酒にじっくりと漬け込まれた桂花(きんもくせい)が甘く華やかに香っていた。  互いに右手に杯を持ち、腕と腕とを絡め合う。そのとき瓔偲は、自らの顔のすべてをすっぽり覆うように(かず)いたままでいる紅蓋頭を、左の手でわずかに持ち上げた。薄く紅を刷いた口許が覗く。そこへ我が杯を近づけた刹那、くちびるから、ほう、と、うっとりとした息が漏れた気がした。それが、きれいだった。  後から思い起こしてみても、儀礼の間の燎琉のたしかな記憶といえば、そんなようなものでしかない。  そして、一連の婚儀の最後に待つのが入洞房、新郎新娘がひとつ牀榻(ねま)で夜を越す、洞房(どうぼう)華燭(かしょく)()――初夜の床入り――の儀礼だった。  瓔偲は一度、侍女に伴われて場を下がっていった。  それに合わせて、燎琉も一度、座を退いた。この後、用意が整えば、瓔偲が待つはずの牀榻(ねま)を訪ねることになる。  合図があったのは、四半時ほどが経った頃だったろうか。瓔偲についていた侍女に促されて燎琉が臥室(しんしつ)となる房間(へや)へと進むと、婚儀の際のとくべつば蝋燭(ろうそく)である華燭(かしょく)がいっぱいに(とも)された室の奥、深紅に飾り付けられた牀榻(ねま)の中で、瓔偲は寝台の端に腰掛けていた。  (くれない)の婚礼衣装はまだそのままだ。こちらも(かず)いたままになっている紅蓋頭(こうがいとう)が顔を覆っていて、だから、燎琉の訪いを待つ瓔偲の表情は窺い知れなかった。  この後、あの煌びやかな深紅の(きぬ)を、燎琉が我が手で持ち上げて、瓔偲の顔をあらわにする。  それは、新郎新娘がはじめて互いに伴侶(はんりょ)と対面する刹那、初夜の(しとね)の象徴的な儀礼でもあった。  もちろん燎琉は瓔偲の容姿をすでに知ってはいるけれども、それでも、訳もなく、緊張にも似た昂りを覚えていた。燎琉との初夜を前に、いま瓔偲は、いったいどんなきもちでいるのだろうか。知りたいようで、知りたくないようで、燎琉はまだしばらく牀榻を前に立ち尽くした。  華燭の(ほのお)が薄暗がりにゆらりと揺らぐ。  燎琉はひとつ息を吐いた。それから牀榻の中の瓔偲の側へと歩み寄る。  燎琉が傍らに立つと、瓔偲はこちらを仰ぐように軽く顔を上げた。燎琉は相手の顔を覆っている薄い紗へと手をかける。それを合図に、牀榻の仕切の(とばり)を、控えていた侍女が物も言わずにするすると下ろした。 「失礼いたします」  そう一言だけを残して、侍女がが房間を去った気配があった。  それでなくとも、(とばり)を下ろされた牀榻の中は、もはや燎琉と瓔偲のふたりきりだ。  百合の香が場に匂い立った。こくり、と、無意識に息を呑んでいた。  ゆっくりと紅蓋頭を持ち上げる。  それにつれて、こちらを見詰める白い(かんばせ)があらわになった。  瓔偲の頬が、ほんのすこしだけ薄紅に染まってみえている。蝋燭のほの灯りのせいだろうか。それとも、さっき酌み交わした酒のためだったりするのだろうか。  燎琉と視線が合うと、瓔偲は躊躇(ためら)うようにわずかに目を伏せてしまった。時に真っ直ぐにこちらを見詰めてくる黒曜石の眸は、いま、恥じらいを映してゆらいでいる。それがなんだかたまらなくて、燎琉は瓔偲の頬にそっとてのひらを添えると、相手の眸を間近からのぞき込んだ。 「瓔偲」  呼びかけると、相手は、ほう、と、ちいさく息を吐く。  燎琉を見て、はた、はたり、と、ゆっくり瞬きを繰り返した。 「殿下」  瓔偲が囁くような声で燎琉を呼んだ。  その刹那、それまでようやくのところで堪えていたものが、ついに堰を切って一気にあふれだすのを、燎琉は感じていた。 「瓔偲……!」  相手の頬を両手で包むようにすると、そのまま顔を近づける。吐息の混ざる距離で、刹那、見詰め合い、それから溜まりかねたように、相手にくちづけをした。  しばらく、ちゅ、ちゅ、と、軽く(ついば)むような、触れるばかりのくちづけを幾度か繰り返した。一度くちびるを離して、吐息の交ざり合う距離で、瓔偲(えいし)と眼差し見交わす。相手の涼やかな目許は、いまはほんのりと薄紅に染まっていた。 「(かんざし)……」  燎琉は、ほう、と、吐息をこぼしながら言う。紅蓋頭(こうがいとう)をとってしまった後、あらわわになった瓔偲の艶やかな黒髪を飾っているのは、いつか燎琉が買って与えた白翡翠の簪だった。  きれいに結い上げられた髪に挿してあるそれに、燎琉はそっと手を伸ばす。とろりと目を眇めながら触れた。 「婚礼なんだから……もっと華やかなものを挿せばよかったのに」  そんなことを言いながらも、うらはらに、相手が己の贈った装身具で身を飾っていてくれるのが嬉しくてたまらない。 「殿下がくださったもの、ですから」  簪に指を伸ばしながらどこか気恥ずかしそうに瓔偲が答えるので、燎琉はますます笑みを深めた。 「外してしまうの……なんか、勿体ない気がする」  ほう、と、吐息しつつ言いながらも、瓔偲の髪からしずかに簪を抜いてしまう。はら、と、絹糸みたいな黒髪が背に流れる。それを丁寧に手櫛で()いてから、ひと房とって、くちびるを寄せた。 「似合ってた。すごく、きれいだ」 「あ、りがとう……ございます、殿下」  俯いてしまった瓔偲の戸惑うような声を聴きながら、燎琉は今度は、相手の頬に両のてのひらをそえた。   こつ、と、額と額を軽くぶつけるようにする。  それからまた、どちらからともなく接吻を交わした。  けれども、今度のそれはすこしだけ大胆だ。幾度か触れあわせたあとで、角度を変え、互いに深く重ねあった。燎琉は瓔偲の細い身体に腕を回し、()(いだ)くようにしながら、何度も相手のくちびるを貪った。 「ん……ん、ぁ」  鼻にかかった甘い吐息が漏れ聞こえる。たまらない気持ちになって、燎琉は身を傾け、()し掛かるようにして瓔偲を(しとね)に横たえた。  とさ、と、軽い音がする。黒髪が褥にやわらかく広がった。 「瓔偲」  一度、接吻をほどいて、燎琉は瓔偲を間近から見下ろした。潤んでゆらぐ黒曜石の眸が、こちらを見詰めている。はあ、と、息をつき、改めて瓔偲にくちづけた。  褥に押し付けるようにして、指を絡め合う。()し掛かった恰好で、燎琉はくちづけを続けた。うっすらと開いたくちびるの隙間から舌を挿し入れ、歯列を割って、相手の熱い口の中を探る。 「ん、ぅ……殿、下」  中に入れた舌先で上顎をからかうようにすると、驚き、おびえるごとく、瓔偲の舌は口中で縮こまった。それを追いかけ、絡め、そのまま、ちぅ、と、軽く吸う。慣れぬ行為に戸惑うらしく、瓔偲の吐き出す呼吸(いき)はわずかに乱れていた。  すこし苦しげな、荒い吐息。  けれども、止められるはずもなかった。  燎琉は瓔偲に覆い被さったまま、相手の身体からくたんと力が抜けてしまうまで、しばらく熱心にくちづけを続けていた。息継ぎの間にそっと窺うたび、瓔偲の黒眸を覗き込む。いつも理知の光を宿す眸が熱にとろりと潤んでいるのが、なんとも、かわいくてたまらなかった。  ほう、と、相手が漏れこぼす吐息を聞くだけで、燎琉の身体の奥が熱くなる。 「瓔偲……瓔偲」  繰り返し熱っぽく名を呼びながら、燎琉は瓔偲の着物の(あわせ)に手指をかけた。もう片方の手では腰の帯を解き、急くように(ころも)を剥ぎ取って、そのまま瓔偲の素肌を探っている。  首筋にくちづけをする。白くやわい肌を、ちぅ、と、吸うと、華のような薄紅の痕が散った。たまらなく昂奮する。鎖骨に、肩に、と、次々とくちびるを落としていった。その間も、手指は袷を開いて顕わに剥いてしまった胸元を愛撫し続けている。 「殿下……殿下、あ、の」  そこで瓔偲が困ったようにちいさな声をあげた。 「どうした?」  相手の身体を撫でる手を止められないまま、燎琉は熱い呼吸の下で問い返す。こちらを見上げる瓔偲の眸は、潤みつつも、どこか戸惑いに揺れていた。 「あの、もし、殿下がこれをつがいの義務とお思いなら……その、無理にまで、していただかなくても、だいじょうぶです」  途切れ途切れに紡がれた言葉の意味がよく呑み込めなくて、燎琉は目を瞬く。 「どういう意味だ?」 「えっと、その……わたしはいま、発情期では、ありませんし……だから、御子を授かることは、ないと思いますので」 「……どういう意味だ?」  問いを繰り返す声は、今度はすこし低くなった。  この期に及んで、いったい、瓔偲は何を言っているのだろう。ようやく手を止めた燎琉は、すこしばかり眉をひそめて瓔偲を見た。 「それは……お前は、子づくりのため以外では、俺とはしたくないということか?」  もしもそうなら、瓔偲を前にいま身体が熱をあげつつあるのを自覚している燎琉としては、つらい。けれども瓔偲は、妻になることも母になることもこれまでは想定外だったと言っていたし、もしも彼の心がいまこの場で身も心も燎琉の伴侶(つま)となることに追いついていないならば、無理強いはしたくなかった。 「い、いえ! わ、たしの、ことは……よいのですが。殿下が……」 「俺はお前と(むつ)みたい」  瓔偲の言葉にかぶせるように、燎琉はきっぱりと言った。  相手ははっと息を呑む。 「俺は、したい。子が出来る時期でなくとも、お前と、想いを交わすために、抱き合いたい。義務とかじゃなくて、お前のことが……好き、だから」  だから膚を重ねたいと思う、と、そう言って瓔偲を抱き締める。 「殿、下……あの」 「俺はお前が好きなんだ。なのに、なんでいまさらお前は、義務だとか、無理をしているだとか、口にするんだ。俺の気持ちが伝わったから、今日、お前は俺のもとに来てくれたんだと思ってたのに……ぜんぜんじゃないか」  はあ、と、溜め息を吐く。  それから燎琉は、瓔偲を見下ろしつつちいさく苦笑した。  先程はお互いに夢中でくちづけを交わしたと思ったのに、ふとした瞬間に、瓔偲の中には、卑屈ともいうべき感情が芽吹くらしい。けれども。それにはきっと、これまで瓔偲が癸性だからと不当に扱われた経験の積み重ねが影響しているのだ。だったら、どれだけ時をかけてでも、燎琉は瓔偲の中のそうした想いを払拭してやりたかった。否、そうしなければならないのだ。  邪魔などではない、お前が大事だ、お前が唯一だ、と、そう、燎琉が彼にそう伝え続けていけば、いつか、瓔偲がなんの(てら)いもなく、心の底から笑ってくれる日が来るだろうか。  努めねば、と、そう思って、燎琉はひとつ大きく息をついた。 「俺はお前が好きだ」  真っ直ぐに伝える。 「好きなんだ。だから、抱きたい。無理じゃないし、義務でもない。わかったら……おかしなことを言ってないで、黙ってこのまま俺に抱かれろ」  そこまで言い、けれど、ちら、と、口の端に微苦笑を浮かべる。 「でも、な。もしもお前が厭だと思うのなら……俺は、やめるよ。お前の心をだいじにしたいから」  蔑ろにはしたくないんだ、と、相手を真摯に見詰めると、瓔偲はこちらの直截な言葉に面食らったような表情を見せた。  そのまましばらく、彼は黙り込んでしまう。  けれどもやがて、恥ずかしそうに頬を染め、わずかに燎琉から視線を逸らしながら、言った。 「……いや、では……ありません、殿下」  ちいさな、ちいさな、声だ。  けれども、それはたしかに、こちらをゆるすことばだった。

ともだちにシェアしよう!