今までの多忙な日々が、まるで嘘だったかのように、千冬は病院のラウンジから空を眺めていた。 　名前も知らない鳥は、空を自由に飛び回り、一層千冬を惨めにする。 　千冬は籠の中の鳥だ。折角掴み取ったプロジェクトも、名前さえ知らない部長に外されてしまった。 　あれから何度か山城に電話もし、メールも打ったが、梨の礫(つぶて)だ。遠藤に連絡しても結果は同じで、千冬が知らないところで、何が起こっているのか想像がつかなかった。 　入院前よりは多少眠れるようになり、顔色も少しは良くなった。 　しかし、鏡の前に立ったとき、自分の目が死んだ魚のようで、千冬は思わず顔を逸らした。 　疲れや、仕事のストレスが、心を少しずつ蝕んでいたことに直面してしまったのだ。 　退院前日、山城が面会時間ギリギリの20時少し前に病室に訪れた。 「連絡できずにすみません」 　電話もメールも応答しなかったことの謝罪をしながら、明日は退院ですね、と言葉を紡ぐ。 　千冬はベッドから身を起こし、山城にはパイプ椅子を勧める。 「チームのみんなに迷惑を掛けたし、部長にも挨拶だけでもと思っているから、明日少し会社に寄るよ」 　山城はパイプ椅子に腰を掛けながら頷く。 「そういえば、遠藤さんはどうしてる？」 　遠藤とも連絡がつかなかったことが気になり、様子を窺う。 「最近かなりイライラしてるみたいです。オレも話しかけづらいって言うか……。ここ数日最低限の会話しかしてないです……」 　プロジェクトリーダーである千冬が抜けたせいで、サブリーダーの遠藤に負荷がかかっているのだろうか。遠藤がイライラしているところを過去に見たことがない千冬としては、頭を捻るばかりだ。 「僕の変わりのリーダーはどうなった？」 　少しでも会社の状況を知るために、千冬は矢継ぎ早に質問する。 「しばらくはリーダー不在で進めるみたいです。何考えてるんでしょうね、都築部長」 「都築……部長？」 　千冬の声で、山城は自分の失言に気づき顔を歪めた。 　千冬が知っている『都築』という姓は『都築恭吾』ただ一人だ。 　同じ姓の異なる人物の可能性があったが、山城の表情ですべてを察知した。 『都築部長』は『都築恭吾』のことを指していると。 　恭吾のことに関しては、口止めされていたわけではなかったが、入院中の千冬に伝えることはできなかった。 　先日「勝った」と喜んだあのコンペのライバル会社。そのプロジェクトマネージャーがうちの部長になった、など。 　コンペ自体、出来レースだったんじゃないかと噂する人間も少なからずいる。 　恭吾のレベルともなると、引く手あまただ。 　IT業界は慢性的な人手不足で、どこの会社も優秀な人材の確保に必死だ。 　決して大きいとは言えない千冬の会社にわざわざ来たのもしっくりこない。 「都築さんが……なぜ」 　千冬の口から零れた言葉は、山城に対する問いかけではなかった。 　遠雷が響いていた。 　雨脚が強くなった空を千冬は見上げた。