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第10話
結局、恭吾はあの電話でお客さんから呼び出されたようで、千冬が会社にいる間に戻ってくることはなかった。
自宅のベッドの上でプラチナリングの内側に刻まれた『A to K』の文字を眺めながら、千冬は何度目かのため息を吐いた。
イニシャルの横には4年前の8月5日と刻印されていて、その日が結婚記念日なのだろうと容易に答えにたどり着く。その日まで、あと1週間と少し。
「早く返さないと……」
とうの昔に決着がついたはずの想いは、今も心の奥底でくすぶったままだ。
恭吾に守るべき家族がいるという事実を、千冬はまだ受け入れられずにいた。
お昼休憩のチャイムが鳴り、恭吾が席を立ったのを見計らい、指輪を渡そうと千冬も席を立つ。
少しタイミングが遅く、休憩ルームで恭吾はプライベート用の携帯で会話をしているようだった。
「綾 ?」
小声で会話はよく聞き取れなかったが、ひたすら謝っていたようだった。
断片的に聞こえた『見つからない』という言葉は、きっと千冬が預かっている結婚指輪のことだろう。
掌にある指輪を、そのまま捨ててしまいたい衝動に駆られる。
背後から肩を叩かれ、悪いことを考えていた千冬はビクッと肩を震わせ、急いで指輪をポケットに突っ込んだ。
恐る恐る振り返ると、そこには山城が立っていた。
「佐宗さん。お昼、ちょっと付き合ってもらえませんか?」
「え? あ……うん。いいけど」
突然の申し出に千冬は頷く。
同じチームだったときは遠藤と山城と千冬の3人でよく昼食に行っていたが、チームが変わった今、一緒に昼食に行くことはなくなっていた。
山城の希望で、最近会社近くにオープンしたカフェに向かった。席も適度に離れていて、雰囲気のいい店だ。
「単刀直入に聞きますが、佐宗さん、都築部長のこと、どう思ってますか?」
「尊敬できる人だと思ってるよ。ただ、プロジェクトから外されたのはショックだったし、まだ少し引きづってる」
まだ立ち直れていない千冬は、顔を伏せる。
「都築部長は、佐宗さんのことを想ってプロジェクトから外したんだと思います」
「……僕のことを思って? どうして?」
山城がどうしてそんな結論に至ったのかがわからず、思わず顔を上げる。
「一番の功労者の佐宗さんがプロジェクトから外されるって聞いたとき、オレもなんでって思いました。でも、今ならわかります。あの時の佐宗さん、今にも死にそうな目してました。実際、倒れましたし……。あのまま、もし佐宗さんが仕事を続けてたら、もしかしたら最悪な結果が待ってたんじゃないかって……」
山城が真剣なまなざしで、言葉を選びながらゆっくり語る。
「佐宗さんたちと一緒に、ゴールデンウィーク明けぐらいに客先に打ち合わせに行ったとき、トイレで偶然都築部長に会ったんです。実は、その時言われたことがあって……『佐宗から絶対目を離すな』って。その時は何のことかさっぱりわからなくて。ライバル会社の人が何でそんなこと言うのか。それでずーーっと考えてたんですけど、結局答えはわからず仕舞いで。
佐宗さんが倒れたとき、あぁ、あの人は佐宗さんがあのまま仕事を続けると倒れるって、きっと予測してたんだと思います。結局、オレには助けられなかったんですけど……。都築部長は佐宗さんのことを、しっかり見てたんです。違う会社の人間だったせいで、佐宗さんを助けてあげれなかったことを、後悔してるんだと思います。言い方は乱暴だし、本質はわかりづらいけど、いつも人のことを優先して考えられる、優しい人なんですよ。都築部長は」
恭吾と長い付き合いがあるような言い方に聞こえ、千冬は少し違和感を覚えた。
しかし、そんなことより山城が一生懸命自分を励ましてくれてるのが伝わり、千冬は少し笑顔を取り戻した。
「ありがとう。山城にも心配かけて、ダメだな僕は……」
「ダメなんかじゃありません。佐宗さんはいつでもオレの憧れの人ですから!」
褐色の肌に映える白い歯を見せ、山城がにかっと笑った。
恭吾がヘッドハンティングの連絡を受けたのは、まだ防寒具が手放せない冬の日だった。
かなりの好条件を提示されたが、恭吾の心は動かなかった。
しばらく回答を待ってくれる、との先方からの好意に甘え、かなり引き延ばした。
春になり、その会社に千冬が勤めているということを知ると同時に、かなり過酷な状況が予測されるプロジェクトのコンペを担当していることを知ることになった。
最悪なことに、恭吾はそのコンペに関しては名ばかりのプロジェクトマネージャーで実質指示などを一切していなかった。
恭吾が指示をしていたら、何としてでも千冬に勝つことを許さなかっただろう。
千冬がもしこのコンペで勝利し、プロジェクトを受けてしまったら、激務に耐えられず間違いなく心に致命傷を受ける。
ゴールデンウィークに偶然同じ電車に乗り合わせた千冬を見たとき、恭吾はそう確信した。
だから、もし千冬がコンペで勝ってしまったら、ヘッドハンティングを受ける決心をした。
千冬の会社が「外資系企業のの社内システムのコンペで勝った場合」という条件を取り付けた。
その条件が満たされれば、ヘッドハンティングを受けると――。
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