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ドラゴン、何かを言いたい
「パパ、鈴虫って鈴虫用のエサがあるんだって! あと鈴虫用育成マットと、苔と、鈴虫用とまり木と、シェルターと、霧吹きと、水入れが必要みたい」
「え、専用の餌なんかあるの? 止まり木?」
虫のくせに生意気だな。
畳んでいた洗濯物から顔を上げ、恭平は眼鏡を押し上げた。
飼育書の鈴虫の項目を開けた朝陽が、得意げに本を突きつけてくる。
「ほら!」
いや別に疑っているわけではないけれど。
「明日買いに行こ!」
「いいよ、帰ってきたらホームセンター行こうか」
「絶対だからね!」
「はいはい、それより明日の準備はできてるのか? もう何か足りなくても持っていったりしないからな」
「あっやってない!」
ランドセルを開く朝陽といっしょに明日の準備をし、寝室へ向かわせる。
洗濯物の残りを終わらせて、洗い物をする。一通り終わったところでコーヒー用のお湯を沸かしていると、風呂から楓が戻ってきた。
「あ、楓さんも飲みますか?」
「お願いする」
楓が出してきたカップにもお湯を注ぐと、ふわりと香ばしい匂いが立ち上った。ストレートは苦手らしいので、お湯は少なめにしてカフェオレにした物を渡す。
「今日はありがとうございました」
「ん? 何のことじゃ」
「鈴虫の件です」
大きめの飼育ケースに移された鈴虫は、玄関で飼うことになった。とりあえずキュウリをあげている。
「ああ。よい声じゃろ。メスや他のオスもいたほうが良く鳴くからの、飼う準備ができたらもっと数を増やそうな」
にこにこと目を細める楓の表情からは、単純に鈴虫を朝陽と恭平に見せたかっただけなのか、それとも気を利かしての行動だったのかわからなかった。
リーン、と玄関から鈴虫の鳴く声が聞こえる。
「ええ、いい声ですね」
液面を見下ろしながら、恭平はコーヒーに口をつけた。音としてはそこそこ大きいが、しみじみとした静けさを感じる響きだ。あんな小さな体で鳴いていると思うといじらしくもある。
顔を上げると、楓がオレンジの目でじっと恭平を見つめていた。
何か気になることがあるのに、言い出せない。察してほしいと訴えてくるような視線だ。
「……あの、どうしましたか」
しかし何も心当たりはない。見つめ返した恭平の視線を避けるように、ぱっと楓は視線を外した。
「恭平、その……」
「はい」
「……再婚するつもりなどは、ないのか?」
「再婚ですか?」
「う、うむぅ」
聞き返すと、楓の耳がしゅんと下がった。大きな手でもじもじとコップを弄る。
「なんというか……な。一人で子を育てるのは、大変ではないか?」
今日の苛つきを見透かされていたのだろう。
自分の至らなさを指摘されたようで、一瞬だけ息が詰まる。
「まあ……大変と言えば大変ですけど。再婚は考えてませんね」
恭平の答えに、楓は怯んだように尻尾を巻いた。
「いやもちろん、その、前の妻がよかったということはあるじゃろうが……」
「ああ、そういうのじゃないですよ」
調理台に寄りかかり、恭平はまたカップに口をつけた。
「……また別れることになったりしたら、朝陽がかわいそうじゃないですか」
「朝陽、なのか」
目を丸くした楓が、カップ越しに恭平を見る。
「あの子の母親のときは、生まれてすぐだったから覚えてませんでしたけど。今は朝陽も相手のこと覚えてますし、必ずうまくいくとも限りませんからね」
人間というやつは自分が生んだ子ですら捨てていけるのだから、血も繋がっていない相手となんてうまくいく気がしない。朝陽を悲しませるかもしれないことに、踏み出す気にはなれなかった。
むうう、と唸った楓が、恭平を見たまま小さく首を傾げた。
「それは……恭平自身は、どうなんじゃ?」
「え、俺ですか?」
考えたこともなかった。
朝陽と二人になってから、親としてどうすべきかは常に考えてきた……と思う。
だが、自分自身がどうしたいか、というのは、ずっと思考の外側にあった。それどころではなかったし、親となった以上優先すべきは自分よりも朝陽のことだし。
コップを調理台に置き、恭平は顎に手を当てた。
「うーん、そうですねえ」
「誰か……支えてくれる人など、欲しいと思わぬのか?」
「いたらいいですけど、別にもういいですかね……」
誰か、人生を共に歩める相手がいたらいいとは思う。元々、そういう生活に憧れがあって結婚したのだし。けれどももう、再挑戦したい気持ちにはなれなかった。
「何も知らない他人と出会って、また恋愛から始まって、距離を探りながら少しずつ関係を築いて、お互いの考えや生活をすり合わせて……っていうのは、今更面倒臭いんでもうやりたくないですよね。俺自身に何かしら魅力があるわけでもないですし」
だからあの女は、朝陽のことまで置いて行ってしまったのだし。
「まあ、俺が頑張ればいいだけの話ですから」
恭平は少し冷めてきたコーヒーをまた手に取った。
「それじゃあ楓さん、先寝ててください。俺はまだ片付けておきたい仕事があるので」
仕事部屋に戻ろうとすると、楓の尻尾が足首にぴたりと当たった。
「き、恭平」
少し上ずった声を出した楓の瞳は、怯えたように瞳孔が細くなっていた。
「……我のことは、つまり……面倒だと思っておるのか?」
「え? なんでです?」
「他人と関係を築くのは面倒だと、今……」
肩を縮め、ぎゅっとカップを持つ楓の指先は白くなっている。
(あ、しまった)
楓の過去を思い出し、恭平は慌てて笑顔を作った。
「いやいや、再婚するならの話ですって。楓さんのことじゃないですよ。安心してください」
「そう、か……」
眉を下げた楓が、何か言いたげに薄く口を開き、また閉じる。
「楓さんはもう、うちのドラゴンじゃないですか」
楓の口角が痙攣するように動いた。泣き笑いのような表情になり、それから何かの閾値を超えたようにすっと表情が消えた。
「……うむ」
足首に巻きついていた尻尾が取れる。
「……無理するな。昨日も夜遅くまで起きておったし、早く寝るのじゃぞ」
「一人ですからね、多少は無理しないと回りませんよ」
軽く笑って、恭平は仕事部屋の扉を開けた。
閉める直前、こちらに背を向けたまましょんぼりと背中を丸める楓が見えた。
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