25 / 26
子供、消える
目を開けて、今日も夢を見なかった、と思った。
(楓さんと寝てた時は、毎日のように夢を見ていたのに)
楓の父親についての記憶のときのように、目覚めた後に内容をハッキリと思い出せるものはごく少なく、起きてすぐに靄のように消えてしまう夢がほとんどだ。だが、それでも夢を見ていたあとは、楓と同じ感覚を共有していた、という幸せな気持ちが残っていた。
枕元のスマホを探る。楓とのメッセージ履歴を見ると、一月前、引越しの手伝いに対してのお礼のやり取りで終わっていた。
(……会いたいな)
気になるのなら、毎日同じ画面を眺めず何か連絡すればいいのだ。
だが、「愛実と家族でいる恭平を見るのが辛い」と言われてしまった以上、こちらから連絡するのは気が引けた。クリスマスの写真も、正月におばあちゃんの家に行った時の写真も、楓を傷つけてしまうのではないかと思ってしまい、結局送れずじまいだ。
(朝陽が大きくなったら、って楓さん言ってたけど。本当に待っててくれるのかな)
特区で巨大なドラゴンの姿になり、活き活きと飛んでいた楓を思い出すと、やはりドラゴンはドラゴンといた方がよいのでは、という気もしてくる。
うつぶせになり、枕を抱きしめる。ただ何もしたくなかった。
そのままじっとしていると、リビングでガタゴトと物音がし始めた。
足音的に愛実だ。ますます部屋から出たくなくなり、布団の中で身を丸める。
だが、歩いてきた足音は恭平の部屋の前で止まった。ノックもなく扉が開き、愛実が入ってくる。
「ねー恭平、休みの日だからっていつまで寝てるのよ。朝陽ももう起きてるわよ」
だらしないわねえ、と呆れたような甘ったるい声が聞こえてきて、肩に手が触れる。
「触んな」
嫌悪感と共に、その手を叩き落とす。
「な、何よ……」
「触るな、って言ったんだよ」
ため息をつき、起き上がった恭平はベッドの端に腰かけた。ぼんやりとした視界に、愛実の足が視界に入る。勝手に自分の領地を侵害されているようで、不愉快でならない。
「悪かった、って言ったじゃない、浮気したことについては……でも、もう昔のことなんだし」
「だから?」
「私たちも、もう一度やり直しましょうよ」
何を言っているんだろう。
愛実の顔を見ながら、恭平はもう一度溜息をついた。
朝陽のためにまた家族になると決めたのだから、頑張らなくてはいけないと思う。浮気されたのには自分に悪いところもあったのだろうし、相手にだけ反省しろ、態度を改めろ、というのはきっと違う。
そう思っても、一度無理になったものはもう無理だった。自分が捨てた7年間をなかったことにして、しれっとこの家に侵入している化け物にしか見えない。
(一体いつまで、この女のことを我慢すればいいんだろう)
一緒にいれば慣れる。同居を始めたときはそう思った。けれど、一ヶ月経った今でも、顔、足音、声、愛実の全てに神経を逆撫でされる。いや、最初よりも酷いかもしれない。同じ空間内にいることも許しがたかった。
朝陽の親じゃなければ、この女と関わることなんてもうなかったのに。
(……ああ、そっか。朝陽さえいなければ、こいつを家から叩き出して、今すぐ楓さんに会いに行けるのか)
頭に浮かんだ考えに、自分ではっとなる。
楓の父親と同じだ、と思った。
あの時は怒りしか湧かなかった。許せないと思ったのに。
(今、自分は……)
冷たくなった指先で、ぎゅっと服の裾を握りこむ。一瞬でも、朝陽が邪魔だと考えてしまった自分が信じられなかった。
「ねえってば、聞いてる?」
「うるさい」
膝に伸びてきた手を睨みつけると、ふん、と不貞腐れたように愛実が立ちあがった。部屋から出ていこうとして、その足が跳ねる。
「朝陽! 危ない! 何してるのっ!」
「うわあっ!」
続いて聞こえてきた落下音に、恭平は弾かれたように立ち上がった。
「朝陽!?」
リビングに飛び出す。コンロの下に倒れている朝陽と、その横の踏み台とフライパンが目に入った。粉や牛乳も盛大に散らかっている。
「何考えてるの!? 一人で火なんて危ないじゃない!」
「どうした!? 怪我してないか!?」
駆け寄ると、粉と牛乳、更には卵でべちょべちょになった朝陽が体を起こした。
「だいじょぶ……びっくりして、転んだだけ」
「火傷したらどうするの!? 少し考えたら分かるでしょ!」
後ろから非難めいた愛実の声が聞こえてくるのを無視して、床に落ちた卵や牛乳のパック、フライパンを拾う。
「ホットケーキ作ろうとしたのか?」
「……うん。でも、ホットプレート、どこにあるか分かんなかったから……」
「呼んでくれたらよかったのに」
「一人で、できると思った」
「そっか。料理するときは危ないから、大人とやろうって約束だったろ?」
「……でも」
朝陽の唇がわなわなと震え、目にじわりと涙が浮かぶ。
「とりあえず、お風呂で一回体流そうか。俺はこっちのお片付けしたいんだけど、一人でできるか? できれば服についた粉と牛乳も洗ってほしいんだけど」
「……できる」
頷いた朝陽を着替えと共に風呂場に送り、キッチンに戻る。相変わらずリビングの真ん中で立っている愛実を見てから、フローリングに広がる惨状を雑巾で片付けていく。
「そんなに怒鳴らなくてもよくないか?」
「何よ、一人でフライパン使おうとしてたから止めただけじゃない!」
「それはそうだけど、頭ごなしに叫ばなくてもいいだろ。朝陽なりに俺たちを喜ばせようとしたんだろうし」
きっと、朝陽は恭平と愛実の仲が悪いことに気づいていた。そして、三人で仲良くなるにはどうしたらいいんだろう、と考えた結果のような気がした。
「火傷してからじゃ遅いじゃない!」
「うん。でもまだ火がついてないどころか、粉を混ぜすらしてなかったじゃないか」
一歩も動こうとしない愛実に、「そういう割に朝陽の怪我の心配もしてなかったくせに」とつい腹立ち紛れに付け加えてしまう。
愛実が怒気に包まれていくのが、見なくても分かった。
「な、なによ、一人でキッチンに立ってる時点で注意して当然でしょ、料理なんてまだ早……」
「できるよ」
「は?」
「料理も、お菓子作りも、簡単なものならできるよ。もちろん大人の見守りが前提ではあるけど……ほとんど手を出さなくても大丈夫なこともあるし、何回もやってたから一人でもできると思ったんだろう。今の俺と君には話しかけづらかったんだろうし」
「そ、そんなん知ら……」
「そうだろうね」
立ち上がった恭平は、流しで雑巾を洗った。固く絞り、また床にしゃがんで水拭きを再開する。
「だから……知らないのは仕方ないけど、なんでそう決めつけてかかるんだよ、全部」
「な……何よ、全部私が悪いっていうの?」
「そういう話では」
だん! と足を踏み鳴らす音が聞こえた。顔を上げると、愛実がこちらを睨みつけている。
「そう言ってるじゃない! 何が違うのよ!」
「いやだから」
「何なのよっ! もういい! どうせ私が悪いんでしょ!」
恭平に背を向けたかと思うと、そのまま部屋を飛び出していく。玄関の閉まる音がした。
「……何だ、あいつ」
素直な感想を呟き、恭平は床にまた視線を落とした。
どうせそのうち帰ってくるだろう。帰ってこないならこないで、そっちの方がいいし。
「……ん?」
ふと、聞こえてくるはずのシャワー音がないことに気づいて恭平は立ち上がった。
「朝陽、何してる? 終わったか?」
リビングを出て、廊下から風呂場に声をかけるが返事はない。
「朝陽……?」
嫌な予感が恭平の体の中で膨れ上がる。
(いや、まだ……落ち着け……)
なぜか息を殺しながら、そっと風呂場の戸を開ける。
誰も、そこにはいなかった。
「えっ、朝……朝陽?」
どこかでかくれんぼでもしているのか。隠れられそうな棚を開け、洗濯機の中を覗く。さっき着ていた服が入っているだけだ。
慌てて駆け戻る。
玄関から、朝陽の靴が消えていた。
ともだちにシェアしよう!

