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子供、消える

 目を開けて、今日も夢を見なかった、と思った。 (楓さんと寝てた時は、毎日のように夢を見ていたのに)  楓の父親についての記憶のときのように、目覚めた後に内容をハッキリと思い出せるものはごく少なく、起きてすぐに靄のように消えてしまう夢がほとんどだ。だが、それでも夢を見ていたあとは、楓と同じ感覚を共有していた、という幸せな気持ちが残っていた。  枕元のスマホを探る。楓とのメッセージ履歴を見ると、一月前、引越しの手伝いに対してのお礼のやり取りで終わっていた。 (……会いたいな)  気になるのなら、毎日同じ画面を眺めず何か連絡すればいいのだ。  だが、「愛実と家族でいる恭平を見るのが辛い」と言われてしまった以上、こちらから連絡するのは気が引けた。クリスマスの写真も、正月におばあちゃんの家に行った時の写真も、楓を傷つけてしまうのではないかと思ってしまい、結局送れずじまいだ。 (朝陽が大きくなったら、って楓さん言ってたけど。本当に待っててくれるのかな)  特区で巨大なドラゴンの姿になり、活き活きと飛んでいた楓を思い出すと、やはりドラゴンはドラゴンといた方がよいのでは、という気もしてくる。  うつぶせになり、枕を抱きしめる。ただ何もしたくなかった。  そのままじっとしていると、リビングでガタゴトと物音がし始めた。  足音的に愛実だ。ますます部屋から出たくなくなり、布団の中で身を丸める。  だが、歩いてきた足音は恭平の部屋の前で止まった。ノックもなく扉が開き、愛実が入ってくる。 「ねー恭平、休みの日だからっていつまで寝てるのよ。朝陽ももう起きてるわよ」  だらしないわねえ、と呆れたような甘ったるい声が聞こえてきて、肩に手が触れる。 「触んな」  嫌悪感と共に、その手を叩き落とす。 「な、何よ……」 「触るな、って言ったんだよ」  ため息をつき、起き上がった恭平はベッドの端に腰かけた。ぼんやりとした視界に、愛実の足が視界に入る。勝手に自分の領地を侵害されているようで、不愉快でならない。 「悪かった、って言ったじゃない、浮気したことについては……でも、もう昔のことなんだし」 「だから?」 「私たちも、もう一度やり直しましょうよ」  何を言っているんだろう。  愛実の顔を見ながら、恭平はもう一度溜息をついた。  朝陽のためにまた家族になると決めたのだから、頑張らなくてはいけないと思う。浮気されたのには自分に悪いところもあったのだろうし、相手にだけ反省しろ、態度を改めろ、というのはきっと違う。  そう思っても、一度無理になったものはもう無理だった。自分が捨てた7年間をなかったことにして、しれっとこの家に侵入している化け物にしか見えない。 (一体いつまで、この女のことを我慢すればいいんだろう)  一緒にいれば慣れる。同居を始めたときはそう思った。けれど、一ヶ月経った今でも、顔、足音、声、愛実の全てに神経を逆撫でされる。いや、最初よりも酷いかもしれない。同じ空間内にいることも許しがたかった。  朝陽の親じゃなければ、この女と関わることなんてもうなかったのに。 (……ああ、そっか。朝陽さえいなければ、こいつを家から叩き出して、今すぐ楓さんに会いに行けるのか)  頭に浮かんだ考えに、自分ではっとなる。  楓の父親と同じだ、と思った。  あの時は怒りしか湧かなかった。許せないと思ったのに。 (今、自分は……)  冷たくなった指先で、ぎゅっと服の裾を握りこむ。一瞬でも、朝陽が邪魔だと考えてしまった自分が信じられなかった。 「ねえってば、聞いてる?」 「うるさい」  膝に伸びてきた手を睨みつけると、ふん、と不貞腐れたように愛実が立ちあがった。部屋から出ていこうとして、その足が跳ねる。 「朝陽! 危ない! 何してるのっ!」 「うわあっ!」  続いて聞こえてきた落下音に、恭平は弾かれたように立ち上がった。 「朝陽!?」  リビングに飛び出す。コンロの下に倒れている朝陽と、その横の踏み台とフライパンが目に入った。粉や牛乳も盛大に散らかっている。 「何考えてるの!? 一人で火なんて危ないじゃない!」 「どうした!? 怪我してないか!?」  駆け寄ると、粉と牛乳、更には卵でべちょべちょになった朝陽が体を起こした。 「だいじょぶ……びっくりして、転んだだけ」 「火傷したらどうするの!? 少し考えたら分かるでしょ!」  後ろから非難めいた愛実の声が聞こえてくるのを無視して、床に落ちた卵や牛乳のパック、フライパンを拾う。 「ホットケーキ作ろうとしたのか?」 「……うん。でも、ホットプレート、どこにあるか分かんなかったから……」 「呼んでくれたらよかったのに」 「一人で、できると思った」 「そっか。料理するときは危ないから、大人とやろうって約束だったろ?」 「……でも」  朝陽の唇がわなわなと震え、目にじわりと涙が浮かぶ。 「とりあえず、お風呂で一回体流そうか。俺はこっちのお片付けしたいんだけど、一人でできるか? できれば服についた粉と牛乳も洗ってほしいんだけど」 「……できる」  頷いた朝陽を着替えと共に風呂場に送り、キッチンに戻る。相変わらずリビングの真ん中で立っている愛実を見てから、フローリングに広がる惨状を雑巾で片付けていく。 「そんなに怒鳴らなくてもよくないか?」 「何よ、一人でフライパン使おうとしてたから止めただけじゃない!」 「それはそうだけど、頭ごなしに叫ばなくてもいいだろ。朝陽なりに俺たちを喜ばせようとしたんだろうし」  きっと、朝陽は恭平と愛実の仲が悪いことに気づいていた。そして、三人で仲良くなるにはどうしたらいいんだろう、と考えた結果のような気がした。 「火傷してからじゃ遅いじゃない!」 「うん。でもまだ火がついてないどころか、粉を混ぜすらしてなかったじゃないか」  一歩も動こうとしない愛実に、「そういう割に朝陽の怪我の心配もしてなかったくせに」とつい腹立ち紛れに付け加えてしまう。  愛実が怒気に包まれていくのが、見なくても分かった。 「な、なによ、一人でキッチンに立ってる時点で注意して当然でしょ、料理なんてまだ早……」 「できるよ」 「は?」 「料理も、お菓子作りも、簡単なものならできるよ。もちろん大人の見守りが前提ではあるけど……ほとんど手を出さなくても大丈夫なこともあるし、何回もやってたから一人でもできると思ったんだろう。今の俺と君には話しかけづらかったんだろうし」 「そ、そんなん知ら……」 「そうだろうね」  立ち上がった恭平は、流しで雑巾を洗った。固く絞り、また床にしゃがんで水拭きを再開する。 「だから……知らないのは仕方ないけど、なんでそう決めつけてかかるんだよ、全部」 「な……何よ、全部私が悪いっていうの?」 「そういう話では」  だん! と足を踏み鳴らす音が聞こえた。顔を上げると、愛実がこちらを睨みつけている。 「そう言ってるじゃない! 何が違うのよ!」 「いやだから」 「何なのよっ! もういい! どうせ私が悪いんでしょ!」  恭平に背を向けたかと思うと、そのまま部屋を飛び出していく。玄関の閉まる音がした。 「……何だ、あいつ」  素直な感想を呟き、恭平は床にまた視線を落とした。  どうせそのうち帰ってくるだろう。帰ってこないならこないで、そっちの方がいいし。 「……ん?」  ふと、聞こえてくるはずのシャワー音がないことに気づいて恭平は立ち上がった。 「朝陽、何してる? 終わったか?」  リビングを出て、廊下から風呂場に声をかけるが返事はない。 「朝陽……?」  嫌な予感が恭平の体の中で膨れ上がる。 (いや、まだ……落ち着け……)  なぜか息を殺しながら、そっと風呂場の戸を開ける。  誰も、そこにはいなかった。 「えっ、朝……朝陽?」  どこかでかくれんぼでもしているのか。隠れられそうな棚を開け、洗濯機の中を覗く。さっき着ていた服が入っているだけだ。  慌てて駆け戻る。  玄関から、朝陽の靴が消えていた。

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