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自慰
頭が割れそうに痛い。
「ミコト、落ち着いたかな? 大丈夫……ではないね」
薄い扉の向こう側。
父の苦笑いを含んだ声で我に返る。
随時転送されている俺のバイタルデータは、こうして自室に父が訪ねてくる程に、滅茶苦茶な数値を叩き出しているのだろう。
「どうぞ、父さん……最悪の気分だけど」
「そのようだね、でも一昨日よりだいぶ顔色は良くなってる」
一昨日。
Y-0398に出会って自我を失い、汚い生き物のようになって帰ってきたあの日。
血に塗れたシャツでは到底外に出られず、施設の用意した服で戸を開けたミコトに、父は相当驚いていた。
「……シャツ、返してもらえるかな」
「そうだね、借りてきた服が相当な物だからその方がいいね」
困ったように笑う父。
大きな手のひらが差し出され、ミコトは黙ってその上に手を乗せる。
清潔な布の下、医療AIの助言に従って丁寧な処置をしてくれた父のおかげで、裂けていた皮膚は自己修復を進めていた。
「相変わらず治りが早いね、メンタルの方は中々難儀してるようだけど」
「……ごめんなさい、Alphaの癖にこんな」
「責めてはいない、ただミコトはAlphaに拘り過ぎる。その方が心配だな」
父も祖父もその前も、祖先は皆一様にAlphaだった。
彼らが受け継いできた血と合成食肉会社は、この世で知らぬ国民はない。
幼い頃はミコトも当然、父のように何でもできると思っていた。
「自分は力不足なので、何とか、優秀な人の力が得られるようにと思って……」
「いい心掛けだが、そんな事でパートナーを決めるのは些か危ういかもしれないよ」
仕事も伴侶も肉体も性格も、全てを完璧に揃えた父とはまるで違う自分が嫌だった。
息子である自分が、父にとって唯一の汚点のように思えて、益々卑屈になってしまう。
「それに、全てのAlphaがあそこにいた訳ではないから、偏りもあるね」
「どうして、検査は僕らAlphaの義務のはず」
このコロニーのAlphaが一堂に会する機会はあの検査のみ。
コネクションを求めるミコトのような学生にとって、宛ら古の舞踏会のような、自らをアピールする絶好のチャンスだった。
だからこそ大切なシャツを着て行ったのだ。
血塗れになってしまったが。
敬愛する父は薄い黄金色の髪を撫でつけながら、巨躯を丸めて隣へと座る。
「製薬、バイオ繊維、新木製素材、医療器具……他にも大企業のCEOや社長、それに準ずる方々は適合検査にいなかっただろう」
「ああ、確かに。権力があればあんな思いはせずとも良いという事? いや、でも父さんの方があの人たちより」
「それがね、逆なんだよ」
父の穏やかな黒い瞳に見つめられ、思わず居直るミコト。
髪色も骨格も顔立ちも全く似ていない。
けれども唯一自分と同じ色をしたこの瞳が、ミコトは堪らなく好きだった。
「彼らも適合者だったんだ。一度国のために馳せ参じてしまえば以降の検査義務は消失する、居なかったのはその為だよ」
「そんな話を聞いたことは、一度も……」
「そうだね、当事者は口外無用だし、皆、人が変わったように頭角を現すんだ」
父が言わんとしている事が伝わり、ミコトは眉間に皺を寄せる。
「適合するのは年にひとりかふたり、或いはいない。けれど私のように長年生きている者は、当然気付く」
「選ばれたのは特別だから、と?」
「或いはそうなる何かがそこにある……とかかな」
優秀だから適合したのだとすれば、それは自分より父のほうが相応しいだろう。
……適合したから優秀になる、そんな夢のような話があるのだろうか。
自分の運命を、あそこにいたY-0398が、変えるとでもいうのだろうか。でも、どうやって?
フッと息を吐く。
彼を考えるだけで呼吸が乱れてしまう身体は、間違いなく、彼によって変えられていたのだけど。
「彼らの会社はどれも新興企業だ、そして国の発展や生活の向上に大きく貢献しているね」
「……でも僕は醜態を晒してきた。こんな自分が国のために役立つとは到底、思えない」
役立つどころか損害賠償でも請求されそうだ。
傷一つ付かなかったガラスは兎も角、あの後も散々この血で施設を汚染してきてしまった。
父は立て替えてくれるだろうが、自分が返済するには何年かかるだろう。
「それがね、お前の教育に関して国から全面的な協力が得られることになったんだ」
「……何故? アカデミアの成績だって下から数えた方が早いのに」
「但し向こう10年間、年4回の国立繁殖センターでの従事が義務化された」
「あそこに、10年も……?」
頭が痛くなる程の醜態を思い出したのも、一瞬。
ミコトの脳裏で、Y-0398がニコリと笑った。
「この出向の詳細は伏せられているし、ミコトにも守秘義務が課せられる。表向きはそう、Alphaの血の提供だ」
父は手元の端末を操作しながら、いくら情報を探ってもそれ以上出てこない、と嘆くように呟く。
「ミコトの身体を過剰に搾取する事も、こうして怪我をさせる事も、絶対に許可しないと伝えてある」
「でもこの怪我は自爆だから……」
「最初は強気の姿勢が大事なんだよ」
俯くミコトの耳元で、父が小さく囁いた。
視線だけ上げると、父は目を細めてニヤリと笑う。
「私からの支援も惜しまないし、一般的に見れば栄誉だよ。頑張りなさい、ミコト」
「……はい」
落ち着かず心許なく揺れるミコトの髪が、大きな手に無遠慮に撫でられる。
「まさかミコトがここで働くなんて、思いもしなかったなぁ……大きくなったね」
父の膝に乗せられた端末に表示される、国立繁殖センターの文字。
通称、キャベツ畑。
この世界の人間は全てここから産まれてくる。
「……父さん、繁殖とはなんだろうか」
「文字通りなら子孫を残す行為だろうけど……、ここで行われているのは安全で正確な人口調整かな」
ミコトとて例外ではない。
けれども父の提出した精子は、iPS細胞由来の卵子と結合したのだと、思っていた。
頭が痛かった。
「あまり体調良くないから寝るよ」
「無理はせずにゆっくりお休み、大学には掛け合っているから心配はいらない」
「ありがとう、おやすみ」
部屋から出て行く父の背を見送り、薄い布団を頭から被る。
父にも祖父にもない黒い髪と、白過ぎる肌。
今まで一度も意識していなかった、母という存在。
もしかしたら自分は、Y-0398のような母体の中で揺られていたのかもしれない。
いや、人類が生殖能力を失って随分経つのだ、その可能性は低い。
けれど。
まるで脳内に存在しているかのように、Y-0398は白金の髪を揺らしながら振り返り、やはり酷く優しく笑う。
「……クソッ!」
手首に巻き付いた生体管理デバイスが赤く光る。
このバイタルを見て父は何を思うのだろうか。
それでも下半身に伸びる手が止められず、機器の清掃ボタンを押し込み寝床の隅へと放り投げる。
「サク、ヤ、」
あの輝くような肌に触れたい。
あの柔らかそうな唇から溢れる声が聞きたい。
粘着質な体液を零す生殖器に物凄い嫌悪感を感じるのに、指の腹で先端を押すのを辞められない。
痛みも全て受け止めるから思い切り手のひらで擦り上げたい、けれどもそんな事をしたら人間としての、Alphaとしての尊厳も失ってしまいそう。
「ッ、ぅ」
手近にあったガーゼを憤るそこに被せ、ゆっくりと、手のひらで圧迫させる。
それだけで物凄い甘い痺れが背に走り、浮いた腰が細かく震えた。
グリグリと布越しに先端を撫で回しながら、全体を揉む。
骨も無い自分の臓器が、こんなにも硬くなるなんて、知らなかった。
ひらひらと振られていたあの小さな手を思い出し、強く目を瞑る。
サクヤ、サクヤ。
俺の、俺だけのサクヤ。
「ぁ、……ッ」
ふるり、と身体が震え、前屈みになって酷い快楽を受け止める。
吐き出した精液が、荒い布にじわりじわりと染み込んでゆく。
射精は済んだというのに、余韻に呑まれた身体が、呼吸するだけで波打った。
……やってしまった。
そう思えるだけの冷静さを取り戻して、眉間の皺を解放すると、視界がチカチカした。
そして目下には子孫を残す為に造られたはずの、無数の精子たちによって、色を濃く変えた布。
見殺しにしたような、罪悪感が湧き上がる。
この中には自身よりも優れた個体が、存在していた可能性があるというのに。
……あの美しい髪はどんな匂いがするのだろう。
少なくとも、こんな生々しい罪悪感の匂いでは、ないのは確かだった。
感じたことの無い脱力感が、後始末をする気さえ削いでゆく。
尊い身体を汚さぬように、と性的行為は廃れたのに、まるで時代を逆行したがる身体を持て余してしまう。
「サクヤ……」
それでも頭の中に、あの子は居着いてしまったのだ。
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