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Year 1 - #1

Year 1 - #1 Y-0398は、今日は最初からそこにいた。 前回初めて顔を合わせた狭い部屋の、相変わらず、厚いガラスの向こう側。 深く椅子に腰掛け、自身のつま先を眺めながら、ぱたぱたと脚を揺らすサクヤが、待っていた。 誘われるように部屋に踏み込んだミコトに気付いたのだろう。 顔を上げたサクヤは、ゆっくりとした動作で椅子から降りると、零れんばかりの笑顔を浮かべながら近づいてくる。 この姿を捉えただけで、頭は多幸感に満たされ、指先が痺れるほどの喜びに溢れてしまう。 しかし、ミコトはぎこち無い笑顔しか返せなかった。 椅子から降りる直前の、目が合ったその一瞬。 視線から逃れるよう、困惑気味に俯いたサクヤを、ミコトは見逃せなかった。 とは言え、それはほんの、ほんの一瞬だったのだが。 何故か自分を無条件で歓迎してくれるものと思い込んでいたミコトは、そのサクヤの僅かな戸惑いに、酷く心が掻き乱された。傷付いたのだ。 そして同時に、浅ましい自分を恥じた。 幾度となく思い浮かべていたサクヤを、随分と自分にとって都合の良い存在として捉えていた事を、漸く自覚した。 「……1ヶ月ぶりだね。岩永ミコトです、よろしく」 とは言え会えた喜びは噛み締めなくてはいけない。 分厚いガラスに阻まれて、お互いの言葉は聞届かない。 それでもミコトがそう言えば、何かを懸命に伝えようと動くサクヤの唇。 その姿が苦しい程に愛おしい。 「聞きたいことはサクヤにって言われてたけれど、これじゃ少し難しいな」 そう言って小さく笑うミコトに、サクヤは小首を傾げる。 見慣れた生体管理デバイスが、その無防備な首筋を守っているようだった。 そしてふと、何かに気付いたような仕草を見せ、忙しなく動かしていた口元を、綺麗な指先で覆って見せるサクヤ。 隠されると気になる、という本能をこんなにも的確に揺さぶられるのは初めてだった。 髪と同じ美しい色の睫毛が、細められた瞳を際立たせる。 「何、してるの?」 ミコト自身も驚くような優しい声は、当然ガラスの向こう側には届かない。 それでもサクヤはパッと手を翻し、ニコリと笑顔を作ってみせる。 白い小さな歯を見せながら口角を上げ、 血色の良い唇で円を描き、 そのまま舌先で上顎をゆっくりと弾く。 『み こ と』 惚れでも思い込みでも構わない、サクヤは、自分を呼んだ。 大して大きくもない身体、けれども底知れない程深い所から、痛い程の感情が湧き上がる。 震える下唇を噛み締めながら、白々しく、サクヤのしたように小首を傾げる。 「なんて、言ったの?」 願わくばもう一度。 その願いは簡単に届いてしまった。 サクヤは少しだけ拗ねたように、けれども笑いながら再び全く同様に唇を動かす。 今度はミコトを指し示すように、人差し指でガラス面を突付きながら。 「俺のこと、知っててくれたんだ」 名を呼ばれるだけで、こんなにも喜びを覚えた事があるだろうか。 自分がどんな間抜けな顔をしているか、想像するだけで恥ずかしい。 けれどもこの表情を晒してでも、サクヤから一時も視線を反らしたくない。 ミコトの葛藤も知らないサクヤはさも満足そうに笑いながら、何度でもミコトを呼ぶ。 そしてそのうちパタパタと、光が透けそうな指先を折るように遊び始めた。 自分とは違う手のひらの皺、綺麗に整えられた優しい弧を描く爪、青く浮かぶ手首の血管。 全てを脳裏に焼き付けるように只管眺め、そして漸く、サクヤが指先で言葉を紡いでいた事に気付く。 右手の母音と左手の子音、組み合わせて表される自分の名。 「……サクヤは賢いね、俺と意思疎通したいって思ってくれて嬉しい」 彼に倣ってミコトの指も、さくや、とゆっくり紡ぐ。 通じた事がよほど嬉しいと言わんばかりに、サクヤはミコトを撫でるように、ガラスに何度も手を這わせる。 弧を描く唇からは絶えず言葉が溢れているようだが、何一つ分からない。 ただ、唯一、自分の名を除いて。 『みこと かしこい』 褒められるとは思っておらず、ミコトは笑ってしまった。 「ありかと すこしむすかしいね」 『かいりようと、れんしゆうする』 そう言って突然そっぽを向いてしまうサクヤ。 そのまま椅子の裏に回って、重そうな椅子をガラスに近付けて座り直すのを見て、ミコトも同じ様に椅子を寄せた。 『いろはにほへとちりぬるを のほうわかるかな』 「あまりしらない」 『そか』 「さくや なんさい」 『せいしんしたよ』 恐らく成人した、ということなのだろう。 自分よりもいくつか幼いと勝手に思い込んでいたが、彼のその包容力の鱗片を何度も見た事を思い出して妙に納得した。 「おれより としうえ かな」 『わからない ここのとし そとと さ ある』 「そと」 『ここしかいたことないの』 けれども会話が続く度に訳の分からぬ事が増えてゆく。 こことは恐らく国立繁殖センターの事で、サクヤはそこから出たことが無いと、そういう事を言っているのだろうが。 『ちちうえ は』 「いないよ」 そんなことが、あるのだろうか。 『さくやは おかあさんになる から』 にこり、とサクヤは頭を少し傾けながら笑う。 味気ないダウンライトの下で、毛先まで美しい髪がサラサラと煌めく。 それは、まるで、そう。 旧技術世代で〈真珠母貝/Mother of pearl〉という言葉で表現された美しい色の……。 「おかあさん」 『そう おとこなのにね』 混乱する頭。 何より一番最初に頭を過ぎったのは、腹に自分以外の誰かの子を宿したサクヤの姿。 想像しただけで吐きそうだった。 耳鳴りで何も聞こえない頭をブンブンと振り、大きく一つだけ息を吐く。 なんとか頭の片隅で『非効率』と言ってのけた施設長の記憶を手繰り寄せ、冷静さを取り戻す。 『みこと』 「すこしこんらんした」 『きもちわるいかな』 困ったように唇を噛みしめるサクヤに、心臓が締め付けられる。 体温も声すらも届かない向こう側には、自分の挙動一つにすら気を使わないと、サクヤに余計な心配をかけてしまう。 「おもわないよ ふあんにさせたね あやまりたい」 『そんな いいよ』 「さくや とてもうつくしい いつも」 必死になり過ぎてとんでもない事をぬかしている自負がある。 それでも、どうか。 『うれしい』 嬉しいのはミコトの方も同じだった。 ふっと緩んだその顔が、こんなにも自分を舞い上がらせる。 ふと、鼻腔の奥が熱を持つ。 胸一杯にその甘い匂いを吸い込み、吐き出すと、とてつもない多幸感とあの焦燥感が押し寄せた。 そしてサクヤの、先程よりもずっと、熟れたように色付いた唇に、視線のすべてを奪われる。 「さくや おれは」 だからこそ、サクヤに現れた異変はすぐに分かった。 「……どうかしたの、顔、赤いよ」 指を折ることも忘れてガラスに手を付く。 水面に朱を垂らしたように染まってゆくサクヤの頬。 大丈夫、とでも言いたげに笑いながら頭を振るも、その瞳は見る間に潤んでゆく。 上質な衣類に隠れた薄い胸を大きく揺らし、気怠げな溜息を吐く唇は、いかにも苦しそうだった。 これは心配すべきで、決して劣情を抱くべきではない。なのに。 毎晩のように襲い掛かってくるあの性衝動が、じわじわと身体を蝕んでゆくのが分かった。 「サクヤ」 ミコトの呼び掛けにも応えず、頭上のスピーカーを見上げるサクヤ。 キュッと口元を結んだのだろう、いつもは殆ど目立たない喉仏がくっきりと浮かび上がる。 背景が霞むような、サクヤしか見えなくなるような危うい視界。 殆ど無意識に立ち上がり、額がガラス面に触れるまで寄ってしまう。 泣きそうな瞳と視線が絡んだのも一瞬。 俯いて手で顔を覆ったサクヤを、眺める事しかできない。 『またね みこと』 それでも顔を上げたサクヤは笑顔だった。 あさきゆめみむ。 指先でそう綴り終えると、ひらひらと手を振って見せる。 到底受け容れられない別れに、ミコトの手は堪え切れず、一気に色を変える調光ガラスを叩く。 「サクヤ!」 完全に見えなくなる直前、サクヤの手がミコトの手に合わさった。 温度の一つも介さない接触。 それにも関わらずこの苛立ち全てを忘れ去る程の、途轍もない衝撃に、ミコトはその場に座り込む事しかできなかった。 『ご苦労、本日は終了だ。次回の詳細は父君に……おや、その頃には君も成人か。ならばミコト殿に直達しよう』 若干のノイズが混じった声が天啓のように頭上から響いてくる。 「……こんなことに一体、何の意味があると言うのですか、施設長」 『ここでの行為に無意味な事など一つもない、疑問はY-0398へ』 「意思疎通の術もないじゃないですか!」 『不出来なAlphaだな、与えられる事に慣れ過ぎだ』 声は的確にミコトの柔らかい部分を抉る。 『喪失感に耐えているのが自分だけだと思うなよ』 それでも、サクヤも自分との別れを悲しんでいるのだと、他人に言われて嬉しくなってしまう浅はかさ。 「……サクヤも辛いのならば自分なんて、居ないほうがいいのでは」 『そう、ではあの子の痛みに寄り添える別個体を起用しよう。優秀なAlphaは他にも沢山いる』 下腹部から臓器をぎゅうぎゅうに捩られるような、痛みと吐き気が喉元まで込み上げる。 他のAlphaが、あの顔を、あんな顔を、見ていい訳がない。 サクヤは自分のものだ。 苦しめたくないのに、自分の愚かな独占欲に負けそうなミコトは辛うじて声を絞り出す。 「こんなの、人権侵害だ」 『その権利を害して産まれてきたのは君自身も同じだな』 「でも、それは!」 『知らなかった、から何だ? 君がいなくてもあの子がここで痛みを感じるのは既定路線で、あの子も承諾したことなんだよ』 一体なぜそんな馬鹿なことを、そう思うも口を噤む事しかできなかった。 施設長の言うことが本当なのであれば、サクヤのその意志を貶すことはできない。 サクヤを自分と同じ人として扱ってやりたいと思うミコトは、僅かに肩を震わせる。 その思考すら傲慢であると後に悔やむのだが、冷静さを失った現在には気付くことすらできない。 『生半可な覚悟しかできないAlphaは必要ないのだが、どうする?』 「……愚かな発言をお許し下さい。今後も許可を、頂きたいです」 『もちろん許可しよう。しかし現状を維持するならサクヤは一生硝子の向こうだ』 都合の良い捉え方しかできない頭は、その言葉を聞いて酷く沸き立った。 自分とサクヤを隔てるガラスが取り払われる可能性が、ある。 ブツリと切れて何の天啓も授けなくなったスピーカー。 乾いた笑みを貼り付けながら、ミコトは一人、サクヤの撫でたガラスを指先で辿った。 next

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