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運命
大田原との疑念は晴れ、ミコトの狂いそうな嫉妬と憂鬱は妄想由来の無用の産物だった。
ほっと胸を撫で下ろすのもそこそこに、こんなにも自分は簡単に狂わされてしまうと自覚して、薄ら怖くなる。
しかしそれらが全てサクヤ由来だと知れば、無条件で幸福感と共に受け入れてしまうのだが。
そして今日。
やつれた様子で岩永邸を訪れた大手製薬会社の跡取りである大田原カズユキは、ミコトの隣に座る父に深々と頭を下げていた。
共同事業の継続要請、パートナーシップの解除、違約金の提示。
どれも父の思い描いていた通りに物事は進んでいったが、双方の悲痛な表情に、同席していたミコトは居た堪れなかった。
話し合いが終わって逃げるように閉じ籠ったミコトの部屋に、小さくノックの音が響いた。
「……カズユキさん、どうぞ」
「良く僕だと分かったね」
「父さんはもっとノックが重いから」
小さく笑みを浮かべた大田原に、椅子を勧める。
父より幾分小柄な彼は、いつの間にかミコトと同じ位の背丈になっていた。
「大きくなったね、ミコト」
「そうかな、最近動くようになったから少し力が付いたけど」
「それは良かった、アカデミアにも通い詰めているようで感心だよ」
目を引くような美しい所作で椅子に座る彼。
ここに来たと言うことは、父も交えずミコトにだけ話したい事があるのだと、そういうことだろう。
「近くで見てきたんだよね、桜は綺麗に咲いていた?」
そう問えば、大田原は片手で顔を撫でながら、ひとつ、大きなため息を付いた。
「ああ、春だからね……悪い夢のようだったよ」
幸せそうな様子ひとつ見せず、搾り出すような声でそう、はっきりと零す彼にミコトは驚く。
「なぜ?」
「自ら築いてきたものが、一気に崩壊してしまったんだ」
端正な顔に影を落としながら呟く大田原は、父の前ですら外そうとしなかった手袋をゆっくりと外して見せた。
酷い打ち身のような色に染まった手の甲の、指の付け根。
それが何かを思い切り殴った跡だと気付いて、ミコトは一瞬立ち上がりそうになり、慌ててベッドに座り直す。
「ああ……カズユキさんにも、そんな一面があったんですね」
「自分でも驚いたくらいだよ、もう残りの人生半分も無いって言うのにさ」
自傷気味に笑う彼は、ミコトの返答すら待たずに続ける。
「……このまま愛する人と歳を重ねて、穏やかに余生を過ごすはずだったんだ、僕はその黒い瞳がとても好きでね」
父とよく似ている、と何度も褒めてくれたのは、紛れもないこの彼だった。
ずっと側で、父と似つかわないと嘆くミコトを抱き寄せてくれたのも。
彼はとても温厚で、優しさを体現したような人物だった。
「私はあんな勝機のない調光硝子に殴り掛かるような人間じゃないと思ってたのに、知りたくなかったよ」
そしてそんな彼も、ミコトと全く同じ行動をしていたのだ。
「……僕は爪で手のひらを裂いたし、力が無いから爪切りで只管、叩いてました」
「割れた?」
「いいえ、ヒビどころか傷ひとつ付かなかったです、たぶん」
「あの硝子、すごいよねぇ。コロニーの天井と同等かもしれないよ」
ふふ、と笑う口元は荒れている。
「そうしてまで、ガラスの向こう側の物が欲しいと、思ったんですよね?」
荒れた唇は再び口角を下げ、辛そうに噛み締められる。
彼は何度もこうして感情を押し殺してきたのだろう。
「……大切なものはたくさんあったんだ、息子も、君も、君の父上も」
彼にもミコトより少し年上の、それこそ兄弟同然に育っていた息子がいた。
確か、他のコロニーにある、彼の子会社の役員としてここにはいなかったはずだ。
「なのにね、あの美しい砂糖菓子を一目見るだけで、全てを投げ出さなきゃいけない気持ちになってしまった」
よく知った感覚にミコトは彼から目を逸らす。
サクヤと初めて会ったあの日、偶々自分は何の責任もない、父に守られるだけの未成年であった。
もし、サクヤに出会ったのが、彼と同じように全てを手に入れた後だったとしたら?
こんな時でも、彼と立場が逆だったらサクヤは必ず手にはいるのでは、とその苦悩も見ぬふりして考えてしまう自分が心底浅ましい。
「10年、私たちの役目は平等に10年だ」
穏やかな声にミコトは顔を上げる。
その口調に似合わない、苦痛に満ちた表情で、彼はその手の痣を撫でる。
「終わるまで僕は生きているかすら危ういし、もし仮に物事が上手く行ったとしても、終わりが見えている。なのに!」
狼狽える大人を、ミコトは初めて見た。
それはきっとミコトが成人したからというのが大いに関係しているのだろうと、直感した。
「抗えないんだ、僕は確かに、ミツヒコを愛していたのに」
この大田原の甘えは、本来であればミツヒコ……ミコトの父が、受け止めていたのだろう。
「自分も父のことは敬愛してます、けれどあの珠玉に対して抱くものとは別の感情です。
……無理に父との関係を清算する必要があるのですか?」
ハッと我に返ったように顔を上げる大田原。
父も彼をこんな風に頼ったのだろうか。
「……そうか、ミコトにはそう見えていたんだ」
ふっ、と笑う顔に影が出来る。
「これは僕ではなく、一個人の成人Alphaの意見として聞いてほしいのだけど」
「はい」
「多くのパートナーシップは父子以上の愛欲が含まれた上で締結される、精神的な繋がりも勿論、深いよ」
衝撃に何も言えないまま押し黙る。
「ミコトは彼処で劣情を抱くだろう? 同じだよ。私たちは厄介なんだ、誰かの特別になりたくてたまらない」
「……父もカズユキさんも完璧な個体なのだと思ってました」
「Alphaは精神面で脆いヒトが多い、皆弱味を隠しているから気付かないだけで。ミコトは素直過ぎて少し心配だな」
今まで自分の自信の無さを隠すために、他人にも興味がないように装ってきた。
身近なふたりの関係にも気付かなかった愚かな脳は、サクヤという刺激を受けて、漸く回路を増やし続けているところだ。
「あの湧き上がる愛しいという感情を、ミコトも知ってしまっただろう?」
「……はい、確かに」
「あの感情を知って、私は前のようにミツヒコの隣にはいられないんだ……分かるはずだよ?」
ああ、だからこの人はこんなにボロボロになるまで悩んでいるのだ、と漸く腑に落ちた。
そして大田原はいかにも複雑そうな表情を浮かべたまま、ぽつりとこぼす。
「ミツヒコは黄金色の髪をしているだろう」
「え? ああ、はい」
「今日私はミツヒコを見て、あのガラス越しで輝く瞳の色と同じだ、と思ってしまったんだ……あんなに、ミツヒコが好きだったのに」
ミコトの頭の中では、淡い青混じりの桜色の瞳を細めて、サクヤがニコリと微笑んだ。
そしてこんな時でも、漸く確信が持てたと、安心してしまう。
大田原と逢瀬を始めた繁殖可能個体は、Y-0398ではない。
「カズユキさん、お願いがあるんです」
「うん、何?」
「俺は俺の唯一を諦めない、だからやれる事はなんでもします」
ミコトの言葉に、大田原は呆れたような、それでも嬉しさをにじませた溜め息を吐いた。
「ミコト、大胆になったね」
「俺の珠玉が俺を焚き付けるので、相応しい人間になります。まだどんな人間が相応しいかすら分からないのですが」
「そう、そうなんだ……」
「カズユキさんはどうやって意思疎通してます?」
「ああ、モールス信号って知ってる? あれなんだけど、手話も一通りね」
大田原とその適合個体が顔を合わせたのは初回を除いて僅か1回、だと言うのに。
持ち合わせた知識が豊富すぎて、生きてきた年数の差を思い知らされる。
「彼処での教育は相当高いのかな、それか元来の知能が余程高いか、だよね」
「カズユキさんもそう思いますか?」
「うん、知識に関してはミコトよりあると思うよ、結構偏りはしているけれど」
「それは、痛感してます……」
笑う大和田の瞳が少し和らいだのも一瞬、再び沈んでしまう。
「ミツヒコを傷付けて、他の誰かを想って笑える自分が嫌いなんだ」
愛、とは相当に厄介なのだろう。
「そう言えばミコトのお願いをまだ聞いてなかったね」
「……カズユキさんが国に、国立繁殖センターに卸しているホルモン剤が欲しいんです」
ピクリ、と揺れる肩。
「どうして、かな?」
「俺はあそこで行われている事が知りたい。きっと一番の老舗はカズユキさんの会社だから、国との取引もある筈だって」
恐らく彼は、自分よりも先に、真実の近いところに行っていると直感していた。
だから悩んでいるのだとも。
「そうだね……いろいろあるけれど、ミコトが欲しいと思っているのは、あれかなぁ」
ミコトが筋違いにも大田原に嫉妬心を向けていた期間、無駄に過ごしていた訳では無い。
父の会社に転がり込んで、腰掛け状態ではあるものの、初めて社会人として扱ってもらえる環境に身を置いた。
何も考えずにいると悪いほうにばかり行ってしまう、というのもあったのだが。
「どうして気付いたんだい?」
「うちに大田原製薬会社が卸してくれてる液体細胞の残渣があるでしょう、あれの原料と何を作ってるのか調べました」
定期的で安定している部門だったため、単なるミコトの社会勉強として父はそこに入れてくれたのか、それとも違う意図があったのか。
それは分からない。
けれど気付く事ができた。
食肉加工するために、大田原製薬会社から買い付けている、生物由来の液体細胞。
それが、がん、自己免疫、アレルギー、血液といった疾患のほか、不妊治療薬として使用されているのだと。
現在は精子を増やすために投与されるホルモン剤は、かなり遡った記録によると、昔は雄雌共に使用されていたという記述も見つけた。
「……ミコトは、君の砂糖菓子に直接聞かないの? こんな回りくどいことして何になる?」
「自己満足だってことは分かっています」
残酷な現実をサクヤの口から聞きたくない、それだけ。
「俺は俺の愛しい生き物と、幸せなだけの時間を過ごしたい」
あの胎内にどれだけたくさんの真珠を抱卵しているのか。
たったひとつであっても、サクヤの一部が誰かに利用されているなど耐えきれない。
そう、行き過ぎた独占欲が身体に巣食ってしまったから。
真実を知った途端に、感情のままにサクヤを傷付けるかもしれない。それだけは絶対嫌だった。
「そう……青いね、ミコト」
大田原はふっと笑い、そして。
とても丁寧に、大切そうに、手袋を嵌め直した。
まるでその痣を誰にも見せたくないと言わんばかりだった。
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