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下賜

厳重なセキュリティが施された資料室ばかりのこの棟の一番上、アクセスも環境も良くない昇降機から降りて直ぐ。 ミコトは迷わずひとつの扉を叩く。 「教授、お時間よろしいでしょうか」 4回のノックはミコトが厄介事を持ち込んでくる合図だと、珍しく教授が笑ったので、戸は4度叩く習慣がついた。 最近はアカデミアに来ることも減り、随分と久しぶりではあるのだけれど。 いつもなら間延びした返答があるはずなのに、今日はない。 デバイスの時刻を見ても、事前に取り付けたアポイントメントの指定された時間内になっている。 一瞬だけ躊躇したが、その扉に触れる。 鍵は掛かっておらず、彼は咎めることはしないだろうと、中に転がり込んだ。 教授もデバイスもない、いつにも増してがらんどうな部屋。 教授がいつも腰掛けている重厚な椅子に回り込むと、『持出厳禁』『破棄処分』と物々しいスタンプの押された一冊の本が置かれていた。 こんな本を此処に置いておいていいのだろうか、決して良くはないのだろうが、教授らしい。 「やあ、岩永君。来ていたんだお待たせしたね」 「勝手にすみません」 「構わないよ。君が進学した所属先の目が多少痛いがね……」 そう言って教授は椅子から本を拾い上げ、ミコトに手渡すと深々と腰掛けた。 「禁書って書いてありますよ」 「この部屋から持ち出し禁止ってことにしようか……だからその知識は口にしない方がいい、でも多分君が知りたいことが書いてあるよ」 ミコトは視線を下げて、表題をなぞる。 旧書体で刻まれた、生物学の文字。 本の小口を見ると、明らかに皺の多い、読み込まれた箇所がある。 ミコトは躊躇なくそこを開いた。 「旧技術世代の教科書でしょうか」 アカデミアに進学する前に終わらせる内容ばかりで、確かにどことなく情報が古い、と思わせる何かがある。そんな程度。 しかしページを捲るミコトの手が止まった。 第3章 ヒトの発生と器官形成 第4節 生殖器官の分化と受容体の変異 1. 性別の分化と「第2の性」の分類 ヒトの発生において、性別の決定は23番目の性染色体(XX/XY)によって第1次性徴が決定される。 しかし、特定の受精卵においては「一般」「優性」「繁殖」という第2の性(サブセクシャル因子)を発現させる遺伝子群が組み合わさる。 一般個体 全人口の大半を占め、通常の性反応および発生プロセスを辿る。 優性個体 胎児期における受容器官の退縮が起こらず、後述する特異な誘引物質受容体を保持したまま成体となる。 繁殖個体 身体的性別(XY/XX)に関わらず、胎児期に子宮構造および排卵組織(卵巣様器官)の両方が分化・形成される。 また優性個体同様、生体となっても誘引物質受容体を保持する。 2. 鋤鼻器(VNO)の残存と揮発性誘引物質 通常、一般個体の発生プロセスにおいては、胎児期(妊娠約8週目)に形成された「鋤鼻器(じょびき/VNO)」は成長とともに完全に退化・消失する。そのため、成体となったヒトには揮発性誘引物質(生体誘引物質)を受容する能力は存在しない。 【特記事項:優性および繁殖におけるバグと相互作用】 これらの個体は胎児期における鋤鼻器の退縮プロセスが阻害され、成体となっても鼻腔内に機能したまま残存・発達する。 頸部、口腔内、および特定の分泌腺より、優性個体の鋤鼻器を直接刺激する高濃度の「揮発性誘引物質」を連続的に分泌する。 これにより、優性個体は繁殖個体の分泌物に触れる、或いは揮発性誘引物質を鋤鼻器で受容することで、視覚や聴覚を超えた本能的な性的興奮(発情受容反応)を引き起こされることが確認されている。 「……これはまるで、Alphaのことを」 言い掛けたところで教授の手が遮るように持ち上がる。 それ以上は言葉にしないほうが良い、ということだろう。ミコトは慌てて口を噤む。 「私は思うんだ、」 ページを捲るような動作をする教授に促され、読み進めてゆく。 他には特にこれといった情報は無いように思えたが、ふと、紙が1枚足元に落ちた。 「オオカミ……」 犬科最大の動物。 その顔面の解剖図と、その横、何故かヒトの解剖図までもが載っている。 霊長目と食肉目でこれだけ種が遠いのに何故。 裏を見るも、章が変わったのか補足資料としてミツバチやハダカデバネズミの図が載っているだけで、詳しいことは何一つ記載がなかった。 旧書体ではないので、比較的新しい教科書か参考書の一部だったのだろう。 「過去にはそう言った生き物があちこちにいたのだろうけど、おちおち昼寝もしていられないねぇ」 「……ええ、まったく」 オオカミといえば、若い成体を狭小な空間に押し込めると、階級を形成するという研究が過去にあった。 そう、その上位層が、確か。 「アルファ……」 そう呟くと、教授は壁一面にホログラムを投影する。 無邪気に絡む、犬科の幼獣たちだ。 「本来は広大な縄張りに家族で群れを形成する生き物だ、ヒエラルキーなんて存在しない」 その幼体の傍らで顔を擦り付け合う成獣を見て、漸くこれがオオカミであることを知る。 「もしかしたら、人類は増えすぎてしまったのかもしれないね……都合が悪いことだったのかもしれない、そこまでは私は分からない」 人類が過密化した結果、従来の雌雄だけでは処理できない生殖、社会構造が生まれだということだろうか。 そしてその環境に適応する形で雌雄以外の〈第二性〉が発現したのだと。 「この世界では、昔話はあまり好まれないのだけどね」 ふっ、と椅子の中で教授は息を吐いたようだ。 「その昔、キャベツ畑では、美しい繭が生命を紡いでいてね」 一瞬、何のことか分からなかった。 「そう、あれは初めての適合検査だったよ……君より幼い時の事だ」 「……教授も、あのに触れられぬ距離に惑わされたのですか?」 この狭い研究室の壁には、常にブラインドの下がった窓がある。 教授はおもむろにその紐を引いてみせた。 「繭は長い事ひとりでそこにいたんだ、そして間もなくの退役が決まっていた」 何一つ遮る物もなく、キャベツ畑の桜が遠くに見える。 世捨て人のような哀愁を漂わせながら、教授はその桜色を眺める様に目を細めた。 ミコトはその思いつめたような瞳をよく知っている。 毎朝、鏡の中に映るそれによく似た瞳を、何年も見続けてきた。 「ほら、私は出自がAlphaの家系ではないから……もちろん父を愛していたけどね」 Alphaとそれ以外に分かれるこの世界。 「労働階級出身であること、アカデミアの入学金を収めることすら精一杯だったこと、自分にはなんの力もないこと」 教授の指先が机の上にはっきりと『恨んだ』と綴る。 「私たちには時間が足りなさ過ぎた」 ミコトの心臓は煩いほどに音を立て、顔の中央は熱いくらいだと言うのに、背には冷たい汗が伝う。 「務めは一年も足らずに終わってしまった、けれども私には身に余るほどの教育の機会が与えられ続けてね」 「私はそれが一個人による支援だったことを、ここまで来て知ることができたんだ」 「だから国も私がここに居ることを黙認している。君のようにここへ通う物好きな子らは大抵、君と同じだよ」 「君には時間も力もある。学を身につけ、財を成しなさい」 下賜を望むのなら。 震える手でそう綴る文字に気圧される。 そしてミコトは彼が変わり者と呼ばれる所以に漸く気付いた。 教授は今でも、怒り狂いそうな独占欲に苛まれ続けているのだ。 next

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