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第2話 くそ真面目野郎、でも気になる
杜都学院大学の講義棟を出たところで、青葉凪生は足を止めた。
中庭の向こう、人工芝のコートから、ボールを蹴る音が聞こえていた。
軽い音。
誰かの笑い声。
夕方の空気に混ざる汗の匂い。
フットサルサークル Linden の連中が、いつも通り練習している。
凪生は、無意識にそちらへ視線を向けてしまった。
広瀬航太がいた。
背が高く、よく通る声で誰かにパスを出している。
柏木千尋もいる。
千尋は派手に動く方ではないのに、航太の声に合わせて、自然に身体を向ける。
「千尋、右」
「分かってる」
「ナイス」
航太が笑う。
千尋も笑う。
たったそれだけだった。
でも、凪生には分かってしまった。
二人だけに通じる間。
声の柔らかさ。
視線が合った時の、ほんの短い笑み。
前なら、そこに凪生もいた。
三人で騒いで、航太の雑なパスに文句を言って、千尋が呆れた顔で笑って、それで全部よかった。
今は違う。
二人は恋人になった。
凪生はスポーツバッグを肩にかけ直した。
(別に、気にしてるわけじゃねぇし)
そう思ったのに、視線はなかなか外れなかった。
航太が千尋の肩に手を置く。
何かを言う。
千尋が少し照れて、けれど嫌そうではなく笑う。
胸の奥が、ぐしゃっと潰れた。
(何だよ、その顔)
怒りたいのに、怒る相手がいない。
航太も千尋も悪くない。
分かっている。
分かっているから、もっと苛立つ。
凪生は踵を返した。
スマホを見ると、片平征路から連絡が来ていた。
『十七時。遅れるな』
「顧問かよ」
文句を言いながら、凪生は返信を打つ。
『分かってる』
送信したあとで、指が少し止まった。
あの日の夜から、何度も片平のことを思い出している。
あの無表情。
真面目な声。
杜香の甘い匂い。
男同士の熱。
自分の身体が、知らない感覚にひらかれていったこと。
思い出しただけで、腹の奥がむずついた。
「最悪」
凪生は額を押さえた。
航太と千尋のことを考えたくなくて始めたバイトなのに、今度は片平征路のことが頭から離れない。
何だそれ。
もっと最悪だ。
****
定禅寺裏の雑居ビルに着くころには、空は薄く暮れ始めていた。
並木の向こうに残った光が、ガラス張りのビルに青く反射している。
エレベーターに乗り、前回と同じ階で降りる。
扉のプレートには、杜灯恋愛相談室。
凪生はカードキーをかざし、扉を開けた。
扉を開けると、片平征路はソファに座ってタブレットを確認していた。
黒いシャツ。
細い指。
涼しい目。
相変わらず妙に整った顔をしている。
凪生は目が合って、すぐに視線を逸らした。
「何だ」
「別に」
「顔が赤い」
「外が寒かったんだよ」
「今日はそこまで冷えていない」
「うるせぇな」
片平は小さく笑った。
その笑い方が、前回より少しだけ柔らかく感じられて、凪生は余計に腹が立った。
「で、今日は何だよ。資料整理か? 受付か?」
「案件だ」
「またかよ」
「依頼は待ってくれない」
「くそ真面目野郎」
「褒め言葉として受け取る」
「受け取んな」
片平は立ち上がり、壁一面の景窓を切り替えた。
淡い夜の街が消えて、今度は雨の降るガラス窓の映像になる。
全方向に埋め込まれたデジタルディスプレイ。
部屋ごと別の場所に移動した錯覚に陥る。
細い雨粒が、光を引きながら流れていく。
凪生はソファに座りながら、少しだけその映像を眺めた。
「何だよ、この雨」
「今日の案件に合わせた」
「雰囲気作りまでやんのか」
「大事だ」
「本当に何でも真面目だな、お前」
「仕事だからな」
またそれだ。
凪生は口を尖らせた。
片平はタブレットを操作し、映像を出した。
映ったのは、男が二人。
どちらも二十代半ばくらいに思えた。
相談票には、同期でライバル関係にあるカップル、とだけ記されている。
最初は、会社の会議室らしい場所で言い合っている場面だった。
互いに睨み合っている。
言葉は刺々しいのに、視線の熱がただの同僚ではなかった。
「ライバル同士か?」
「同じ会社の同期だ。成績を競っている。交際はしているが、職場では隠している」
「ふーん」
映像は寝室へ切り替わる。
凪生は少し身構えた。
前回確認したものとは違う。
甘さよりも、ぶつかり合う熱が強い。
攻め側は、受け側を強く求めている。
受け側は口では突っぱねる。
けれど、手は相手のシャツを掴んでいる。
『痛いんだよ、下手くそ』
『ならやめるか』
『誰がやめろって言った』
『素直じゃないな』
『黙れ』
凪生は眉を寄せた。
「何だよ、これ。喧嘩か?」
「悩みは、受け側が最後まで受け入れきれないこと。攻め側は自分の欲が強すぎるせいだと思っている」
「実際、強そうだけどな」
「見た目だけならな」
映像の中で、受け側は苦しそうに顔を歪める。
攻め側は焦り、手を止める。
すると受け側は睨む。
やめるなと言いたげなのに、口から出るのは逆の言葉ばかりだった。
「どう思う」
片平が聞いた。
凪生は腕を組んだ。
「簡単だろ」
「言ってみろ」
「痛いんだろ? 大きさというか、太さというか、そういうのが合ってない。なら、先にもっと後ろを慣らせばいい。道具とか、ローションとか、時間かけるとか、そういうやつ」
「身体を整える方向か」
「そうだよ。苦しそうだし」
「不正解だ」
「早いな、おい」
凪生は片平を睨んだ。
「お前、俺の意見を即切りすぎだろ」
「惜しいところまでは来ている」
「それ、褒めてねぇだろ」
「褒めている」
「ならもっと分かりやすく褒めろ」
片平はタブレットを止め、映像の一場面を指した。
「ここを見てみろ」
「どこだよ」
「攻め側が手を止めた瞬間だ」
凪生は画面を覗き込んだ。
攻め側が不安そうに動きを止めている。
受け側は苦しそうにしている。
けれど、その目は、止められたことに苛立っていた。
「本当に無理なら、そこで安堵する。だが、この受けは怒っている」
「強がってるだけじゃねぇの?」
「そうだ。強がっている」
「じゃあ俺の案でいいだろ」
「違うな。身体はすでに受け入れられる状態だ。止められた時の反応も、痛みから解放された安堵ではなく、欲を引かれたことへの苛立ちに近い」
凪生は画面へ目を戻した。
「身体が追いついていないのではなく、本音が追いついていない」
「は?」
「この受けは、もっと欲しい。強く求められたい。自分が相手を欲しがっていると認めたくないだけだ」
凪生は画面を確認した。
そんなふうに見直せば、確かにそうだ。
受け側は拒んでいるようで、攻め側が下がると不満そうになる。
突っぱねているのに、手は相手を離していない。
睨む目には、怒りだけでなく、期待が混ざっている。
「分かるか」
「……そんなの本人しか分かんねぇよ」
「そうか、なら試して検証だな」
「出たよ」
凪生は立ち上がりかけて、すぐに片平の視線を受けた。
「聞き方が淡々としすぎなんだよ」
「嫌ならやめるが」
「やめるとは言ってねぇ」
「なら準備する」
「早いな!」
****
片平は香炉の前に立ち、杜香に火を入れた。
甘く、深い匂いがゆっくり広がる。
前回より少し苦みのある香りだった。
雨の景窓と混ざって、部屋の空気が湿っていくような気がする。
凪生はベッドの端に腰を下ろした。
身体が覚えている。
片平の手。
声。
熱。
自分が崩れていく感覚。
仕事だと言われたのに、褒められただけで少し嬉しくなったこと。
(落ち着け。これは仕事だろ)
そう言い聞かせたところで、片平が近づいてくる。
「目を閉じろ。さっきの二人を思い浮かべろ」
「分かってる」
「強がる受け側に入る。口から出る言葉と、奥の欲しさが一致しない。そのずれを確認する」
「説明がいちいち真面目なんだよ」
「分かっていないと飲まれるぞ」
「……分かったよ」
凪生は目を閉じた。
雨音の映像。
杜香の匂い。
片平の気配。
胸の奥に、別の感情が重なってくる。
負けたくない。
弱いところを晒したくない。
欲しいなんて言いたくない。
でも、止まられるのはもっと嫌だ。
もっと強く求めてほしい。
自分が相手で頭がいっぱいなのだと、その身体で思い知らせてほしい。
口では腹立たしいことしか言えないのに、内側はずっと熱を待っている。
(うわ、何だこれ)
凪生は唇を噛んだ。
分かってしまうのが嫌だった。
航太と千尋を捉えた時の胸の痛みとは違う。
これは恋人同士のぶつかり合いだ。
相手に負けたくないのに、相手の熱が欲しい。
欲しいと認めた瞬間、全部持っていかれそうで怖い。
「……お前」
片平の声がした。
目を開ける。
片平が目の前にいた。
いつもより近い。
涼しい目の奥に、追体験の熱が入っている。
映像の攻め側の感情が重なっているのだと分かる。
けれど、凪生の目に映るのは片平征路だった。
「欲しいんだろ」
「は?」
凪生の声が尖った。
「誰が」
「顔に出ている」
「出てねぇよ」
「なら、やめるか」
片平の手が、ゆっくり離れる。
その瞬間、凪生の身体が勝手に動いた。
シャツの袖を掴んでいた。
片平の目が細くなる。
「ほらな、身体は正直だ」
「腹立つな、お前」
「もっと腹立たせてやろうか」
耳元で言われ、凪生の背筋がぞくりとした。
片平の手が、凪生の腰を引き寄せる。
強い。
奪いにくる熱だった。
唇が触れる。
甘くない。
噛みつくようなキスだった。
凪生は息を飲み、押し返そうとした。
けれど、片平の舌が入ってきた瞬間、力が抜けそうになる。
「っ、下手くそ」
勝手に言葉が出た。
言ったあとで顔が熱くなった。
片平が笑う。
「そのわりに、離さないな」
「うるせぇ」
「もっと欲しいなら、そう言え」
「言うわけねぇだろ」
「じゃあ、このくらいでいいか」
片平の手が少し緩む。
凪生の腹の奥が、ひゅっと縮んだ。
嫌だ。
足りない。
もっと。
けれど、言えない。
「別に……それでいい」
声は震えていた。
片平は凪生の顎を掴み、顔を上げさせた。
「目、逸らすな」
「命令すんな」
「命令された方が、欲しがれるんじゃないのか」
「っ、違う」
「違わない」
片平の指が、後ろの敏感なところをなぞる。
準備は丁寧だった。
けれど、優しいだけではない。
焦らして、止めて、凪生が反応するのを捉えている。
凪生はシーツを掴んだ。
「もっと力抜け」
「無理だ」
「なら、俺がほどく」
「何だよ、それ……っ」
片平の熱が近づく。
凪生は肩に力を入れた。
受け入れたいのに、認めたくない。
強がりの感情が口を固くする。
けれど身体は、片平が来るのを待っている。
奥に触れた瞬間、凪生は息を止めた。
「っ、くそ……」
「痛いか」
「痛く、ねぇ」
「なら何だ」
「言わせんな」
「言え」
「だから、命令すんなって……っ」
片平がゆっくり深く重なる。
重い熱が、内側を押し開いてくる。
前は尽くされ、甘やかされ、気づいたら満たされていた。
今日は違う。
自分の強がりごと暴かれる。
欲しいと言えない場所を、奥から叩かれる。
凪生は歯を食いしばった。
声を出したくない。
感じている顔を捉えられたくない。
片平に負けたみたいで腹が立つ。
でも、気持ちいい。
腹立たしいくらい、気持ちいい。
「いい顔をしている」
「いちいち見てくんな」
「無理だな。確認する」
その言葉だけで、凪生の奥が震えた。
片平の動きが少し強くなる。
凪生は声を噛み殺そうとした。
けれど、喉の奥から甘い息が漏れる。
「ほら。欲しいんだろ」
「違う……っ」
「なら止める」
「や、めるな」
言ってしまった。
凪生は目を開いた。
片平の口元が、わずかに上がる。
「今、何て言った」
「聞こえてただろ」
「もう一度」
「ふざけんな」
「言えたら、もっと深くする」
凪生の頭が熱でいっぱいになる。
依頼者の感情だ。
強がり受けの本音だ。
分かっている。
けれど、自分の中にも同じ熱がある気がして、凪生は混乱した。
欲しいと言ったら負ける。
でも、欲しいと言わなければ、片平は止まる。
それが嫌だ。
「……もっと」
小さく言った。
「聞こえない」
「もっと、しろ」
「上手に言えたな」
「殺すぞ」
「そんな顔で言われても怖くない」
次の瞬間、片平が深く動いた。
凪生の背中が跳ねた。
声が出る。
押さえられない。
さっきまで固く閉じていたものが、奥からほどけていく。
身体が片平に合わせて揺れる。
内側が熱を欲しがり、もっと奥へと誘う。
「っ、やば、これ……っ」
「欲しがる方が、ずっといい」
「うるせぇ」
「まだ強がるのか」
「強がってねぇし」
「じゃあ言えるな」
「何を」
「俺が欲しいって」
その言葉に、凪生の胸が大きく跳ねた。
俺が欲しい。
依頼者の気持ちが台詞になるだけ。
けれど、片平の顔を捉えた瞬間、凪生自身の言葉になってしまいそうで怖かった。
「……欲しい」
掠れた声が出た。
片平の目が、一瞬だけ揺れた気がした。
「よく言えた」
片平がキスを落とす。
その甘さに、凪生の身体から力が抜けた。
強く求められる。
奥から満たされる。
言えなかった言葉を引きずり出される。
恥ずかしいのに、悔しいのに、全身が喜んでいる。
好きな男にこんなふうに迫られたら、抗えるわけがない。
(好きな男?)
凪生はその言葉に引っかかった。
誰のことだ。
依頼者の相手か。
それとも、目の前の片平か。
「こっちを見ろ」
「無理だ」
「見ろ」
凪生は滲んだ目を開いた。
片平が見下ろしている。
真面目で、涼しくて、腹が立つくらい綺麗な顔。
その男が今、自分だけを捉えている。
それだけで、限界が近づいた。
片平が再び動く。
さっきより強く、深く、凪生の奥を揺らす。
凪生はもう強がれなかった。
声が漏れる。
指が片平の背中を掴む。
熱がこみ上げる。
「っ、無理、もう……っ」
「欲しいだけ受け取れ」
「お前の言い方……っ、ほんと、腹立つ……っ」
「気持ちいいんだろ」
「そうだよ……っ、悪いかよ」
「悪くない」
その声が、やけに優しかった。
凪生はその優しさごと、深い熱に呑まれた。
身体が弓なりになる。
奥から白く弾けるような快感が突き抜ける。
声が自分のものではないみたいに響いた。
片平の腕が強く抱き寄せる。
雨の景窓が滲む。
杜香の匂いが薄れていく。
****
終わったあと、凪生はしばらく動けなかった。
片平はベッドの端に腰かけ、タブレットを手に取ろうとした。
凪生はその手首を掴んだ。
「待て」
「何だ」
「今すぐ仕事顔に戻るな」
言ってから、凪生は自分で驚いた。
何を言っているのか。
片平も少しだけ目を開いた。
「……どうした?」
「知らねぇよ」
凪生は顔を背けた。
身体はまだ熱い。
息も整っていない。
片平の感触が奥に残っている。
そんな状態で、相手だけがさっさと仕事に戻るのが、なぜか無性に腹立たしかった。
片平はタブレットを置いた。
「水を取ってやる。少し休め」
「いらない」
「遠慮するな」
片平が水を持って戻ってくる。
凪生は受け取り、少し飲んだ。
喉が熱い。
水が妙に冷たく感じる。
「……どうだった」
片平が聞いた。
「最悪……お前の言った通りだった」
凪生は渋々言った。
「苦しいとか無理とかじゃなかった。欲しいのに、言えない。言ったら負けみたいな感じがある。だから、相手が止まると腹が立つ」
「ふむ」
「でも、ああいうタイプにいきなり優しくしすぎても駄目だな。余計に意地張る」
「分かってきたな」
「だから、上から来られると腹立つけど、欲しい言葉を引きずり出されると……その、崩れる」
「いい分析だ」
片平が凪生の頭に手を伸ばした。
ぽん、と軽く撫でる。
凪生は固まった。
「何してんだよ」
「褒めている」
「口で言え」
「よく出来たな」
「……っ、お前……」
頬が熱くなる。
さっきまで散々捉えられていたくせに、こんなことで顔が赤くなるのが腹立たしい。
「顔が赤い」
「うるせぇ」
「凪生」
「気安く名前で呼ぶな」
「ん? 仕事中は青葉の方がいいか」
「そういう問題じゃねぇ」
片平は少し考えるような顔をした。
「では、青葉」
「急に戻すな。それはそれで変だろ」
「面倒くさいな、お前」
「お前が言うなよ」
凪生は水を飲み干した。
片平はタブレットにメモを打ち込みながら、淡々と言った。
「提案は、攻め側に送る。無理に下がらず、受けの強がりを読んで、本音を言わせること。優しさだけではなく、挑発も必要だ。ただし、相手の反応を確かめながらだ」
「何か、お前が言うと腹立つな」
「なぜ」
「さっき俺でそれやっただろ」
「検証だからな」
「それ言えば何でも通ると思うなよ」
片平は笑った。
凪生はその笑顔で、また胸が跳ねた。
(やめろ)
仕事だ。
追体験だ。
杜香の影響だ。
そう思えば思うほど、片平の顔が頭に残る。
さっき、呼んだ時の一瞬の間も。
自分が「欲しい」と言った時の目も。
あれは依頼者の感情だったのか。
自分の声だったのか。
分からない。
分からないのが、落ち着かない。
「今日はここまでだ」
片平が言った。
「え、もう終わりかよ」
凪生は反射で言ってしまった。
片平がこちらを向く。
「まだやりたいのか」
「違う!」
凪生はすぐに立ち上がった。
着替えを済ませ、扉の前まで行く。
「今日の分析は悪くなかった」
また褒められた。
凪生は舌打ちした。
「……今度はもっと当ててやる」
「そうか、期待している」
「期待すんな。腹立つ」
「では、期待しない」
「はぁ? なんだよそれ、腹立つ」
片平はまた笑った。
凪生はその顔を見ないようにして、扉を開けた。
****
ビルを出ると、定禅寺裏の夜は少し湿っていた。
景窓の雨が、現実にまで染み出したみたいだった。
街路樹の影が歩道に落ち、通りの向こうから人の声が薄く流れてくる。
凪生は駅へ向かって歩きながら、スマホを確認した。
航太からメッセージが来ていた。
『今日、コートの近くにいた? 見かけた気がした』
千尋からも来ている。
『無理にとは言わないけど、また三人で話せたら嬉しい』
凪生は画面を見た。
胸は痛い。
けれど、前みたいに全部を投げ捨てたいほどではなかった。
あいつらも、言えないことがあったのだろうか。
自分に言えなかった。
傷つけたくなかった。
けれど、二人でいたかった。
そんなふうに、言葉と本音がずれていたのかもしれない。
凪生は返信欄を開きかけて、やめた。
まだ、うまく言えない。
言えないものは、無理に言わなくていい。
でも、ずっと言わないままでいられるかは、分からない。
「……くそ」
凪生はスマホをポケットに入れた。
代わりに、片平の声が蘇る。
欲しいんだろ。
言え。
よく言えた。
思い出した瞬間、頬が熱くなった。
「ほんと、腹立つ」
そう呟いたのに、口元は少し緩んでいた。
****
ホームに着くと、電車はまだ来ていなかった。
凪生は柱にもたれ、夜の線路を見つめる。
身体の奥に残る熱が、歩くたびに自分のものだと主張してくる。
前回は、男同士の熱に驚いた。
今日は、欲しいと言えない気持ちを知った。
そして、その言葉を片平に引きずり出された。
凪生は自分の手を確認した。
さっき片平の袖を掴んだ手。
離されたくなくて、勝手に動いた手。
「あれ、俺じゃねぇし」
小さく言った。
けれど、すぐに別の声が胸の中で返してくる。
本当にそうか。
凪生は眉を寄せた。
「うるせぇ」
誰に向けたのか分からない言葉は、駅のアナウンスに紛れて消えた。
電車が近づいてくる。
その風を受けながら、凪生はもう一度だけ、片平征路の顔を思い出してしまった。
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