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第3話 やべぇ、俺、ドキドキが止まらねぇ

杜都学院大学の廊下は、昼休みになると急に騒がしくなる。 講義室から出てきた学生たちが、学食へ向かう者、次の教室へ急ぐ者、ベンチでスマホを触る者に分かれていく。 凪生はその流れの端を歩きながら、何となく窓の外へ視線を流した。 中庭のベンチに、航太と千尋がいた。 胸が、ぎゅっと鳴った。 航太が、千尋の手を握っている。 ただ、それだけだった。 けれど、凪生の足は止まった。 千尋は少し俯いている。 航太は何かを言っている。 千尋が小さく笑う。 航太の指が、千尋の手を包む。 遠目には、友人同士が話しているだけにも映る。 けれど、凪生には分かってしまった。 あれは、二人の距離だ。 凪生が入れない距離。 (何してんだよ、昼間っから) 胸の中で悪態をついた。 けれど、前ほど怒りは湧かなかった。 代わりに、ざらっとした寂しさが残った。 航太と千尋は悪くない。 もう、それは分かっている。 分かっているのに、目に留まると痛い。 二人だけで分かり合っている空気に触れると、自分の立っている場所が急に薄くなる。 「凪生?」 声をかけられて、凪生は肩を跳ねさせた。 振り返ると、千尋が立っていた。 さっきまで中庭にいたはずなのに、いつの間にか廊下へ来ていたらしい。 少し息が上がっている。 「何だよ」 「今、こっち向いてた?」 「向いてねぇよ」 「そっか」 千尋は困ったように笑った。 その顔に、凪生の胸がまた痛んだ。 千尋は昔からこういう顔をする。 怒るのではなく、相手の出方を待つ顔。 凪生が何か言うまで、責めずに待っている顔。 「今日、時間ある?」 「ない」 「そっか」 「バイト」 「バイト、始めたんだ」 「まぁな」 「ちゃんとやれてる?」 「やれてる。心配いらねぇよ」 「凪生、変なところで無理するから」 「してねぇし」 「ならいいけど」 千尋の声が柔らかい。 その柔らかさに、また胸が詰まった。 千尋は変わっていない。 航太も変わっていない。 二人は凪生を切り捨てたわけではない。 ただ、二人の間に恋が生まれた。 それだけだ。 それだけなのに、凪生はまだうまく笑えない。 「今度さ」 千尋が言いかける。 その時、遠くから航太の声が飛んだ。 「千尋、次の講義、そろそろ!」 「あ、うん」 千尋が振り返る。 その目が一瞬、航太へ向く。 凪生は、その一瞬に気づいてしまった。 柔らかくて、近くて、何かを許している目。 凪生へ向けられる千尋の優しさとは違う。 航太へ向けられる千尋の目には、熱がある。 「悪い、凪生。また連絡する」 「ああ」 千尋が走っていく。 航太が手を上げる。 凪生も軽く手を上げ返した。 航太はほっとしたように笑った。 凪生はその笑顔から視線を外し、廊下を歩き出した。 (俺、あいつらのこと、どう思ってんだろ) 親友だ。 それは間違いない。 ずっと一緒にいたかった。 三人でいたかった。 置いていかれたくなかった。 けれど。 (俺は、あいつらと、ああいうことをしたかったのか?) 男に尽くされて頭が白くなった夜。 欲しいと言えずに、強がりごと奥から崩された夜。 片平征路の手と声が、嫌でも身体に残っている。 その熱を、航太や千尋へ重ねようとした瞬間、凪生は顔をしかめた。 「いや、違うな」 思わず声に出た。 近くを歩いていた学生がちらりと反応する。 凪生は咳払いして、スマホを取り出した。 片平から連絡が来ていた。 『今日も遅れるな』 「短ぇな」 そう言いながら、凪生は少しだけ口元を緩めていた。 **** 今日はバイトの日だった。 定禅寺裏の雑居ビルに着くころには、空が薄く青く沈み始めていた。 凪生は杜灯恋愛相談室の扉の前で、スマホの黒い画面に映った自分の髪を少し直した。 「何やってんだ、俺」 腹立たしい。 凪生はカードキーをかざし、扉を開けた。 「お疲れ」 「お疲れ」 ソファにいた片平征路が、タブレットから顔を上げる。 「少し硬いな」 「いきなり何だよ」 「顔に出ている。何かあったか?」 「俺を観察すんなよ」 凪生はソファに沈み込み、足を組んだ。 大学で捉えた二人の手が、まだ頭の奥に残っている。 「……何かあれば、相談に乗ってやるが?」 言う気はなかった。 こんなことを、バイト先の男に話す理由がない。 まして片平は、まだ出会って数回の相手だ。 「何もねぇよ」 「そうか」 「……聞かねぇのかよ」 「なんだ? 聞かれたいのか」 「違ぇよ」 「なら、案件に入る」 「切り替え早すぎだろ」 「仕事だからな」 深く聞かれないことに、少しだけほっとした。 なのに、少しだけ物足りない気もする。 何だそれ。 凪生は自分で自分に腹を立て、クッションを膝に置いた。 **** 片平はデジタルディスプレイを切り替えた。 夜の部屋に、柔らかい灯りが揺れている。 窓の向こうには、白い光がちらついていた。 景窓の中だけが、季節から少し外れた場所みたいに静かだった。 「今日は何の雰囲気だよ」 「幼馴染カップルの案件だ。静かな方がいい」 「静かな方がいいって、お前の基準が分かんねぇ」 「映像で分かる」 タブレットの映像が景窓に映る。 表示されているのは、関係性と相談内容。 幼馴染同士。 交際してまだ日が浅い。 悩みは、キスだけで時間が過ぎてしまい、その先に進めないこと。 映像の中で、二人はソファに並んで座っていた。 攻め側が、受け側の頬に触れる。 受け側が笑う。 唇が重なる。 軽いキスのはずなのに、すぐに深くなる。 息が混ざる。 何度も角度を変え、離れたと思ったらまた近づく。 手は触れ合っているのに、急がない。 凪生は眉をひそめた。 「何だこれ」 「依頼映像だ」 「いや、分かるけど。ずっとキスしてんじゃん」 「そうだ」 「いつ始まるんだよ」 「始まっている」 「いや、そういう意味じゃなくて」 凪生は口ごもった。 映像の二人は、確かに恋人だった。 触れ合っている。 甘い。 けれど、濃い奉仕でも、言葉で崩すようなぶつかり合いでもない。 服も大きく乱れていない。 なのに、意識が離れない。 受け側の指が、攻め側のシャツを少し掴む。 攻め側が笑って、またキスする。 受け側は息を漏らして、くすぐったそうに肩をすくめる。 けれど、唇は離れたがっていない。 「相談は、最後まで進まないことか?」 「そうだ。時間がある日はキスだけで終わる。どちらも不満があるわけではないが、このままでいいのかと気にしている」 「簡単じゃね?」 「言ってみろ」 凪生は少し得意げに座り直した。 「キスしながらすればいいんだろ。向かい合う形なら顔も近い。途中でキスもできる。あと、前の尽くしたがりの攻めみたいに順番を変えるなら、先に身体を繋げて、それから好きなだけキスすればいい」 片平は黙っていた。 「何だよ」 「首を振る前に、少し待っている。コメントしていいか?」 「結局違うんじゃねぇか!」 「違う」 「言えよ!」 凪生はクッションを投げた。 片平は受け止める。 「お前は、何でも先へ進めれば解決すると思っている」 「そうじゃねぇの?」 「違う。キスで満たされているなら、それは愛情表現の中心だ。変える必要はない」 「でも依頼は、このままでいいのかって話だろ」 「だから、キスをやめるのではなく、広げる」 「広げる?」 「唇だけではなく、全身でキスをする」 「はぁ?」 凪生は変な声を出した。 片平は真面目な顔で続ける。 「肌、指、胸、首筋、息。二人は、触れ合いの密度で満たされるタイプだ。急に激しくするより、キスの延長として身体全体を使えばいい」 「……何か、お前が言うと妙にいやらしいな」 「内容が内容だからな」 「真顔で返すな」 「検証でしか理解できないかもな……嫌なら」 「やる」 自分でも即答に近かった。 片平が少しだけ眉を上げる。 「今日は早いな」 「うるせぇ。どうせやるんだろ」 「どうせではない」 「分かってる」 分かっている。 凪生が断れば、片平は止める。 最初からそうだった。 だからこそ腹が立つ。 こちらの意思を確認しているくせに、いざ始まると容赦がない。 **** 片平は杜香に火を入れた。 今日の香りは甘い。 少しだけミルクのように柔らかかった。 景窓の白い光が、部屋の空気を淡くする。 「目を閉じろ。二人のキスを思い出せ」 「分かってる」 「今日は無理に先へ進まない。唇から、触れ合いを広げる」 「説明すんな。変に意識する」 「意識した方がいい」 「ほんと真面目」 凪生は目を閉じた。 杜香が胸の奥へ入ってくる。 幼馴染。 ずっと近くにいた相手。 手を繋ぐより前から、隣にいるのが当たり前だった人。 恋人になったのに、急に何かを変えようとすると照れる。 けれど、唇を重ねると、全部がほどける。 好きだ。 そう言わなくても伝わる。 好きだ。 言葉にしなくても、息で分かる。 (何だよ、これ) 胸がじんとした。 強く求められて頭が白くなるのとも、欲しいと言えずに身体の奥から崩されるのとも違う。 もっと柔らかい。 けれど、薄いわけではない。 唇が触れるだけで、身体の奥が満たされていく。 目を開けると、片平が近くにいた。 顔が近い。 凪生は反射的にのけぞろうとして、肩を押さえられた。 「離れないで」 凪生の口から、甘い声が出た。 指も片平の袖を掴んでいる。 離れてほしくない。 もう少し近くにいてほしい。 その感覚が、やけに生々しかった。 片平の目がわずかに熱を帯びる。 「嫌なら、やめるよ」 「ぜんぜん嫌じゃないから」 恋人に触れてほしい。 離れたくない。 もっとキスしてほしい。 柔らかくて切実な欲が、胸の奥にあった。 片平の唇が触れる。 軽い。 ただ触れただけなのに、凪生の背中が震えた。 片平の唇は温かい。 すぐ離れる。 凪生が息を吸う前に、また触れる。 今度は少し長い。 角度を変え、唇の柔らかさを確かめるように重なる。 「ん……」 声が漏れた。 恥ずかしい。 激しく触れられているわけではないのに、顔が熱い。 むしろ、激しくないからこそ、ごまかせない。 片平の息が近くて、唇の湿りが残って、触れた場所だけがずっと熱を持つ。 「もう一回して」 自分の喉から出た甘い声に、顔が熱くなる。 目の前の片平は少しも笑わない。 ただ、その欲を受け止めるみたいに、もう一度キスをした。 今度は深い。 舌が触れる。 凪生の指が、片平のシャツを掴む。 手が震える。 離したくない。 唇が離れると寂しい。 すぐにまた欲しくなる。 キスだけで、こんなに。 こんなに、相手が近い。 「くすぐったい」 声が漏れる。 片平の唇が、凪生の口元から頬へ移った。 耳の下へ。 首筋へ。 ひとつひとつ、確かめるように触れていく。 「ここは?」 「そこ、だめ」 だめと言いながら、凪生の身体は離れなかった。 甘く震える。 好きな人に触れられている。 好きな人が、自分の反応を確かめながら、大事に受け止めている。 依頼者の感情が、凪生の胸の奥でほどけていく。 好きだと言えない代わりに、唇で伝える。 もっとと言えない代わりに、指先で引き寄せる。 ずっと隣にいた相手だからこそ、急に欲しがるのが恥ずかしい。 それでも、触れたい。 触れられたい。 片平の手が、凪生の背中を撫でる。 ゆっくりと、急がずに。 肌の上を確かめるように。 触れられた場所から、じわじわ熱が広がる。 胸の敏いところを指で撫でられ、凪生はシーツを握った。 「もっと、キスして」 言葉が漏れた瞬間、目の前の片平を強く意識した。 片平の意識が、自分に向いている。 片平が、自分の首筋に唇を落としている。 片平の指が、自分の手を探している。 手が重なる。 指が絡む。 凪生の胸が、大きく跳ねた。 恋人みたいだ。 そう思った瞬間、身体の奥が甘く震えた。 「手、離さないで」 凪生の声が、また甘くなる。 片平は何も言わず、握った手に力を込めた。 その仕草で、息が詰まった。 どうして、そんなふうに応えるのか。 依頼者の感情をなぞっていると分かっている。 それでも、手の温度が気になった。 唇。 頬。 首筋。 胸。 指先。 手の甲。 そこへ落とされるひとつひとつのキスが、身体の奥へ届く。 服は乱れている。 肌は熱い。 けれど、急がない。 触れ合っているだけで満たされる感覚が、凪生の中に広がっていく。 身体の中心が熱を持つ。 片平の身体も近い。 「合わせようか? 一緒にしよう」 「……うん」 互いの熱をぴたっと合わせる。 そして、二人の手のひらでそれらを包み込む。 擦れ合う熱。 それは、ゆっくり押し寄せる波みたいに、甘くて抗いがたい。 「気持ちいい」 「本当に」 甘い声が凪生の喉からこぼれた。 凪生は目を閉じる。 恥ずかしい。 そう思うのに、身体は片平の手を握り返している。 もっと近くへ引き寄せている。 唇を求めて、顔を上げている。 キスが深くなる。 息が奪われる。 舌が絡む。 唇の奥から、身体の奥まで熱が繋がる。 そして、手の中で触れ合っている部分が、片平の形を覚えていく。 指が絡み、胸が擦れ、熱が触れ合うたびに、凪生の中の何かが甘く崩れていった。 好きな男とキスをする。 唇だけじゃない。 大事な部分も一緒にキス。 こんなに満たされる。 胸の奥に流れ込む感情と重なるように、凪生の頭には片平が浮かんだ。 片平の声。 片平の手。 片平の涼しい目が、熱を持つ瞬間。 (やばい) 凪生はキスの合間に息を吸った。 (俺、何考えてんだ) 航太と千尋のことを考えようとした。 三人で笑っていた日。 サークル帰り。 航太の雑なパス。 千尋の呆れ顔。 好きだ。 大事だ。 ずっと一緒にいたかった。 けれど、唇を重ねたいかと聞かれると違う。 肌を合わせたいかと聞かれると違う。 こんなふうに、息が混ざるほど近くで向き合いたい相手は、違う。 「こっち、向いて」 片平の声がした。 凪生は目を開けた。 片平が、凪生だけを捉えている。 真面目で、涼しくて、腹が立つくらい整った顔。 その男の意識が今、自分だけに向いている。 それだけで、限界が近づいた。 「好き」 凪生の口から、そうこぼれた。 心臓が止まりそうになった。 これは幼馴染の恋人へ向けた感情だ。 そう思うのに、片平の呼吸がほんの少し乱れた。 凪生は、その乱れに気づいてしまった。 「俺も」 片平が低く返す。 その声で、胸の奥が熱くなる。 片平の唇が、凪生の額に触れた。 その優しさで、凪生は一気に崩れた。 手の中で熱が弾ける。 激しい動き。 全身の感覚が唇と前に集まって、甘く白くほどけていく。 片平の腕の中で、凪生は声を押さえきれなかった。 片平の身体も震える。 息が乱れる。 凪生の肩口に顔を埋め、深く息を吐く。 お互いの溢れた熱が混ざりあって滴る。 凪生はもう一度小さく震えた。 杜香の匂いがゆっくり薄くなる。 景窓の白い光が、静かに揺れていた。 **** 「……俺、すげぇ甘ったるいこと言ってなかったか」 凪生は腕で顔を隠した。 「言っていた」 「忘れろ」 いつもの声に戻った瞬間、恥ずかしさが一気に襲ってきた。 凪生はシーツを蹴りかけて、身体の熱に顔をしかめる。 「何でキスだけで、こんな」 「奥で感じるのと同じだったか」 「言い方」 「大事な感覚だ。唇だけでなく、前を合わせる事で、全身で充足感を得られた、という事だ」 「そうだが……くそ真面目」 片平はタオルを取って戻ってきた。 「拭いてやる」 「いい、自分でやる」 「手が震えている。そんなに良かったのか?」 「いちいちチェックすんな」 凪生はタオルを受け取り、乱れた息を整えながら前を拭いた。 片平はソファへ移動し、タブレットに手を伸ばす。 凪生は思わず言った。 「またすぐ仕事顔かよ」 片平の手が止まる。 「気になるのか」 「べ、別に、そんな事は言ってねぇ」 「なら」 「……少し待てって言ってんだよ」 言ったあとで、凪生は顔を赤くした。 片平はタブレットから手を離した。 「分かった。待ってやる」 「素直かよ」 「待てと言ったのはお前だ」 「言ったけど」 片平は凪生の隣に腰を下ろした。 何もせず、ただ隣にいる。 それだけで、凪生の胸は変に落ち着いた。 「感想を聞こうか?」 片平が聞く。 凪生は深く息を吐いた。 「あの二人、キスで止まってるんじゃないんだな」 「ふむ」 「キスで満たされてる。だから、無理に切り替えようとすると、たぶん違う。あれはあれで、もう二人の形なんだ」 「続けろ」 「だから、お前が言うように、唇だけじゃなくて、首とか、胸とか、手とか……前とか、全部キスの延長にすればいい。触る場所を増やしても、急に別の行為にするんじゃなくて、キスのまま広げる。だから、それが解決策になる」 「ちゃんと理解したようだな。いい分析だ」 「……急に褒めるのかよ」 「褒めろと言われそうだったからな」 「言う前に言うな」 「よくできた」 「だから、急に……」 凪生は顔を背けた。 「何だ、照れたのか」 「違う」 「分かりやすい」 「うるせぇ」 片平は少しだけ笑った。 凪生はその横顔へ視線を向けてしまう。 さっきのキスを思い出す。 唇、指、手の甲、額、胸、息、そして大事な部分。 全部が近かった。 強く奪われたわけではないのに、心の奥まで触られた気がした。 「なぁ」 「何だ」 「お前は、恋したことあるのか」 言ってから、凪生は少し後悔した。 片平はすぐに答えなかった。 その沈黙が、いつもと違って聞こえた。 「ある」 短い返事だった。 凪生の胸が、なぜか跳ねた。 「男?」 「そうだ」 「そっか」 「意外か」 「いや。男同士専門の相談室やってるくらいだし」 「仕事と私生活は別だ」 「まあ、そうだけど」 凪生は指先を確かめるように握った。 「恋してたら、分かるもんなのか」 「何を」 「さっきみたいなの。キスだけで満たされるとか。欲しいのに言えないとか。相手に尽くしたいとか」 片平の視線が、凪生に落ちる。 「分かることは増える」 「じゃあ、俺はまだ分かってねぇな」 「少しずつ分かっている」 「俺が?」 「ああ」 凪生は黙った。 最初は、男同士が触れ合う映像に衝撃を受けた。 次には、欲しいと言えない受けの本音に腹を立てながら、自分も引きずられた。 そして今日。 キスだけで満たされる二人を、羨ましいと思った。 そんな相手がいることが。 「……親友と恋人って、違うんだな」 ぽつりと言った。 「大事なことに気づいたなら、それでいい」 「何だよ、それだけかよ」 「お前が自分で掴んだ感覚だ。俺が足すことじゃない」 凪生は喉の奥が詰まった。 片平は、こういう時に余計なことを言わない。 仕事みたいな顔をしているくせに、必要以上に踏み込んでこない。 それが、妙に優しかった。 「じゃあ、お前は?」 凪生は視線を向けた。 「お前が恋した相手って、どんなやつだったんだよ」 片平の目が、少しだけ遠くなった。 ほんの一瞬だった。 凪生が気づいた時には、片平はもういつもの顔に戻っていた。 「案件報告をまとめる」 「誤魔化した」 「仕事が残っている」 「またそれかよ」 凪生はむっとしたが、それ以上聞けなかった。 片平が触れさせない場所がある。 そう感じた。 **** 着替えを済ませる頃には、景窓の白い光は消えて、現実の夜景に似た水辺の映像へ戻っていた。 凪生は扉の前で靴を履きながら、少しだけ片平へ視線を戻した。 「ではまた」 「ああ、気をつけて帰れ」 凪生はカードキーをポケットにしまい、扉を開けた。 定禅寺裏の夜は、少し冷えていた。 街路樹の影を横目に駅へ向かう。 唇に、まだ片平の感触が残っている気がした。 何度も親指で拭ったが、消えない。 スマホが震える。 航太からだった。 『千尋から聞いた。バイト頑張ってるんだな。無理すんなよ』 続いて、千尋から。 『また話せる時でいいから。待ってる』 凪生は立ち止まった。 待ってる。 その言葉を受けても、前ほど息苦しくならなかった。 航太と千尋は、凪生を切り捨てたわけじゃない。 二人には二人の熱があって、凪生には凪生の痛みがある。 ただ、それだけだ。 まだ笑って話せる気はしない。 でも、ずっと視線を逸らしたいわけでもない。 凪生は返信欄を開いた。 『バイトはまあまあ。今度、時間あったら話す』 送った瞬間、心臓が変に鳴った。 すぐに航太から返信が来た。 『分かった。ありがとう』 千尋からも来る。 『うん。ありがとう』 凪生はスマホを握りしめた。 「ありがとうって何だよ」 呟きながら、少しだけ笑ってしまった。 **** 駅のホームに着くと、電車はまだ来ていなかった。 凪生は柱にもたれ、夜の線路へ視線を落とす。 恋。 親友。 キス。 航太と千尋。 片平征路。 頭の中で全部が混ざる。 航太と千尋のことを考えると、胸はまだ痛い。 でも、身体は反応しない。 キスしたいとは思わない。 抱きしめられたいとも、抱きしめたいとも違う。 なのに、片平のことを考えた瞬間、唇が熱くなる。 あの涼しい目で捉えられたい。 あの手で触れられたい。 あの声で名前を呼ばれたい。 「……俺、何考えてんだ」 凪生はしゃがみ込みそうになった。 電車のライトが遠くに滲む。 風が吹く。 その風の中で、片平の声が蘇った。 少しずつ分かっている。 「分かりたくねぇよ」 凪生は小さく呟いた。 けれど、胸の奥はうるさかった。 やべぇ。 俺、ドキドキが止まらねぇ。

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