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#06 無茶振りコマンド

翌朝のジェルーシャの体調は最悪だった。 昨日、ジュリアの暴力的な洗礼を受けた上に、ジュリアンによる『まやかしのケア』で甘い毒を流し込まれたこと。さらに夜遅くまで街を彷徨ってしまったせいか、ジェルーシャの身体は最悪の熱と倦怠感に侵されていた。Subドロップの一歩手前のような状態でありながら、新入りの派遣の身分で「体調不良で休みます」などと言えるはずもない。 ジェルーシャは青白い顔のまま無理やり体を起こし、支給された簡素な作業服に身を包んで出社した。 朝一番に自分のスーツを受け取るため地下のクロークへ立ち寄ったが、「何のことだ」と怪訝な顔で突き放されてしまう。仕方なく、そのまま昨日と同じ席に着くしかなかった。オフィスは朝から慌ただしく、すぐ隣の席からもせわしなくキーボードを叩く音が響いていた。 (みんな忙しそうだな。僕も何か仕事をしなくちゃ……) そう焦るものの、勝手が分からず、自分に与えられた仕事は何も無い。何をしていいか分からぬまま、ジェルーシャはただ、パソコンの画面をじっと見つめていた。 タスクバーの隅にある[スタート]ボタンをぼんやりと眺めては、用もないのにクリックして閉じる——そんな無意味な動作で居心地の悪さを誤魔化すことしかできなかった。 風邪の熱っぽさのせいか、それとも寝不足のせいか、次第に頭がぼんやりとしてウトウトと微睡みかけてしまう。 そんな時だった—— 見通しの良い広いフロアの向こう側に、見知った姿を見つけた。昨日、束子で擦られて血にまみれた体に優しく薬を塗ってくれた男——ジュリアンだった。ジェルーシャは思わず席を立ち、その背中に駆け寄る。 「あの……っ」 「ああ、昨日の君か。どうしたの?」 振り返ったジュリアンのすぐ後ろには、メイドの三人組が控えていた。昨日のバスルームでの出来事が蘇る。——酷い脅し文句をぶつけられ、恐怖に震えていたメイドのシータが、一瞬だけこっちを見たかと思うと、すぐに静かに目を伏せた。 「あの……何か、僕にできる仕事をいただけないでしょうか」 ジュリアンは冷ややかな琥珀色の瞳をわずかに細めた。 「なんだ、そんなことか」 ジュリアンはつまらなそうに鼻で笑い、シータに向かって顎をしゃくった。 「おい、シータ。適当な雑用をこいつに与えてやれよ」 「……はい、ジュリアン様」 シータは一瞬だけジェルーシャに視線を向けると、足早に何処かへと消えていった。 「じゃぁ、頑張ってな」 そう言い残すと、ジュリアンもまた興味を失ったようにその場を去っていった。 ジェルーシャは自分のデスクへと戻り、指示された「雑用」が届くのをただ待つしかなかった。しばらくしてシータが戻ってきたとき、その両手には、コピー用紙が入っていたであろう茶色いダンボール箱が抱えられていた。 「これ……やってって、さ」 シータは小声でそれだけ言い残すと去っていった。ジェルーシャはその箱を覗き込むと、思わず息を呑んだ。中には、数えきれない程の名刺が、ダンボール箱の底までギッシリと詰め込まれていた。 (……これ、全部手で入力しろってことかな……?) クラクラとする頭を抱えたい衝動に駆られながらも、ジェルーシャは端末を立ち上げ、キーボードに指を置いた。休む許しなどない。ここで投げ出せば、また何倍もの地獄が待っているだけだ。熱に浮かされた頭で、ジェルーシャは無心で名刺のデータを打ち込み続けた。 時間はあっという間に過ぎ去り、フロアの喧騒が徐々に帰路ムードへと変わる夕暮れ時。ちょうどみんなが退社し始める時刻を見計らったかのように、背後からヒタヒタと革靴の音が近づいてきた。 (ジュリアン…… シータは確か、あの人のことをそう呼んでいた。あの人が、様子を見に来てくれたんだ) そんな小さな希望に、少しだけ胸を弾ませてジェルーシャは振り返った。 「どれどれ、進捗はどうだい?」 ジュリアンが意地悪く覗き込むようにして、ジェルーシャのモニターに視線を落とした。そこには、丸一日かけてようやく入力し終えた、ほんのひと握りのデータが表示されているだけだった。 ジェルーシャは冷や汗を拭いながら、力なく首を振った。 「全然終わってないです。すいません……」 「は?」 ジュリアンは呆れたように軽く息を吐き、冷笑を浮かべた。 「何これ。まさか、手入力してたわけ?」 「……はい。頑張ったんですけど、すいません……」 「バカじゃないの」 吐き捨てるような冷たい声。 「一生懸命、エクセル、カタカタやったんだぁー?」 追い討ちをかける様な言葉がジェルーシャの胸を抉る。 「これはただのサンプルとして渡したんだ。君は優秀なワーカーだって聞いたから雇ったんだけどね。……で、僕が求めているのはだね—— 《我が社の営業たちが外回りの合間に、スマホに向かって『次のアポ、これまでのやり取り踏まえて何を話せばいい?』って呟くだけで、過去の全データから最適な営業トークを自動生成してくれる様な『音声AI営業データベース』のモックアップ》 ——なんだよ。それを明日の朝のミーティングまでに用意してね」 ジュリアンはそれだけ言い放つと、ジェルーシャの返答も待たずに、ヒラヒラと手を振り消えていった。 薄暗くなり始めたオフィスに、ジェルーシャはただ一人、呆然と取り残された。耳の奥で、ジュリアンの突きつけた不可能な要求が呪詛のようにリフレインしている。音声AIのデータベースなんて、専門知識もプログラミングスキルもない自分が明日の朝までに作れるわけがない。 それでも、投げ出すことさえ許されないのだ。ガチガチと鳴り止まない奥歯を噛み締め、ジェルーシャは涙で滲む視界のなか、再び歪むキーボードへと震える指先を伸ばした。終わりの見えない絶望の夜が、静かに幕を開けようとしていた。 つづく

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