7 / 15

#07 お持ち帰り

ヒラヒラと手を振って去っていくジュリアンの背中を、ジェルーシャはただ絶望の眼差しで見送るしかなかった。 周囲の人たちが次々と荷物をまとめ、「お疲れ様でした」と帰路につく声が遠くで響く。フロアの明かりが一つ、また一つと落とされ、気がつけばオフィスには静寂と薄暗がりだけが残されていた。 音声AIのデータベースなんて、自分に作れるわけがない。かといって、途中で放り出すこともできなかった。 「……それでも、まずはこの名刺を全部入力しないことには……」 ジェルーシャはジュリアンの要求を忘れないよう、モニターの中の付箋紙アプリにその無茶振りの内容を走り書きして貼り付けた。気をとり直して入力を進めていくが、ダンボール箱の名刺は一向に減る気配がなかった。視界が涙で滲み、文字がぐにゃぐにゃと歪んでいく。 終電間際——明かりさえ落ちた深夜のオフィス。限界寸前のジェルーシャの元へ、暗がりから軽やかな足音が近づいてきた。 「……そこの君、こんな時間まで一人で何してるの?」 誰もいないはずのこのオフィスに、不意に言葉が落ちてきた。ハッとして顔を上げると、そこには長身の青年の姿があった。見慣れない作業服姿のジェルーシャを、不思議そうに見下ろしている。 「君は?」 「ぼ、僕は……ポニー・スタッフサービスから参りました、ジェルーシャと申します……」 「それが、こんな遅くまでどうしたの?」 張り詰めていた限界の糸がプツリと切れたように、ジェルーシャの瞳から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。誰もが存在しないかのように扱ってきた中で、初めて自分を見つけてくれた。その声の響きだけで、張り詰めていた心の防壁は簡単に崩れ去ってしまった。 「おや、おや……そんなに泣いて。いったいどうしたんだい? ジェルーシャくん」 ——絶望の底にいたジェルーシャの前に突故現れた美しき貴公子、それがサリー・マクブライド、その人であった。彼はこの物語におけるいわゆる『スパダリ』——すなわち、ジュリアンたちとはまた異なる、強大で底知れぬ包容力を持った最高位のDomであり、今後ジェルーシャの人生と深く関わり、その運命を大きく動かしていくことになる人物である。 サリーは姿勢を低くし、心配そうに眉をひそめると、ジェルーシャの顔を覗き込んでくる。そのあまりに穏やかな声音に、ジェルーシャは嗚咽を噛み殺しながら、ジュリアンから無茶振りをされたこと、手入力で進めて絶望していることを、途切れ途切れに打ち明けた。 それを聞いたサリーは、呆れたように息を吐き、静かに首を振った。 「ジュリアンも、相変わらず意地悪がすぎるな……。いったい、君に何て言ったんだい?」 「あ、えっと……ちょっと待ってください、ちゃんとメモを取ったんで……」 ジェルーシャがモニターの中の付箋紙を指さすと、サリーが「どれどれ」と背後から覆いかぶさるように覗き込んだ。サリーはそこに書かれた文字を、声に出して読み上げていく。 「なになに……営業たちがスマホに向かって、次のアポを……………のモックアップねえ」 読み終えた瞬間、サリーはくすりと声を立てて笑った。 「——これを、このままAIにやらせればいいんじゃない?」 「え……?」 呆然と目を丸くするジェルーシャの背後から、サリーが覆いかぶさるようにしてデスクの上のマウスへと手を伸ばした。完全にバックハグされるような体勢になり、すぐ近くから漂う甘いコロンの香りにジェルーシャの心臓が跳ねる。 「ほら、先ずはこのメモの文面をそのままAIに丸投げするための『呪文』を作らせよう」 サリーは画面を凝視しながら、ひょいひょいと滑らかにマウスを動かしていく。 「この端末、マイクはココかな?」 「ここに、非エンジニアが書いた要件定義がある。これを具現化するための、自律型エージェント開発環境に向けたシステム構築用プロンプトを作って——」 そう画面に向かって呟くと、サリーは続けて付箋紙アプリのメモをコピーし、そのプロンプトの末尾に貼り付けた。エンターとともに出力された結果に少し手を加えると、それを自分が社内に構築中だという自律型AIエージェントにペーストした。 「よし、これでゴール設定は完了。あとは僕が構築中の社内システムが、勝手にガチャを引いて、明日の朝までには、それなりのモックアップを組み上げてくれるよ。だから、もう今日の仕事は終わり」 「こんなに簡単に……。これじゃあ僕たちのようなホワイトカラーのワーカーなんて、時期にお払い箱になっちゃいますね……」 自嘲気味に呟いたジェルーシャの頼りない肩を、サリーは後ろからそっと包み込んだ。その温もりが、冷え切った体に心地よく染み渡る。 「そうとも限らないよ」 サリーの長い指がマウスから離れ、ジェルーシャの熱く火照った頬にそっと触れた。 「この自律型エージェントはね、ゴールに達するまで裏で何度も何度も推論とリトライを繰り返すんだ。そのたびに、莫大なトークンを消費する。今はLLMのAPIもキャンペーン価格で安いからいいけれどさ……キャンペーンが終わってまともなコスト計算になったら、AIを回すより人間を雇った方が安上がり、なんて未来になるかもしれない。だから、君の仕事は無くならないよ」 「……そう、なんですか?」 「そうだよ。だからもう今日の仕事はおしまい。早く終わったことだし、お礼っちゃなんだけど、美味い店でも教えてくれない? ロンドンからこっちに来たばかりで、この街のことに疎くてさ」 サリーが立ち上がり、眩しい笑顔で誘う。それがDomとしての絶対的なコマンド(命令)だったわけではない。ただの気さくな誘いのはずなのに、ジェルーシャの頭には『断る』という選択肢そのものが最初から存在しなかった。ただ本能が促すままに、「あ、あの、庶民的なお店なら……」と消え入るような声で答えようとした。 ——と、その時だった。 ジェルーシャの体がガクンと大きく揺れた。至近距離から伝わるサリーの気配は、ジュリアンのそれとは何かが決定的に違っていた。その『何か』が分からないまま、彼のまとう空気に触れた瞬間、昨夜から張り詰めていた緊張の糸が、まるで許しを得たかのように勝手にプツリと切れてしまったのだ。激しい熱に浮かされたジェルーシャの意識は、視界もろとも急速に暗転していった。 「っと……おい、嘘だろ……?」 ジェルーシャが崩れ落ちるのを、サリーが素早く両腕で抱き止めた。不意に顔を近づけたサリーの額が、ジェルーシャのそれにコツンと触れる。 「……熱っ! なんてすごい熱を出してるんだ……! 飯どころの騒ぎじゃないじゃないか」 「……っ、大丈夫、です……」 掠れた声で気丈に振る舞おうとするジェルーシャを見て、サリーは表情を曇らせた。 「一人で歩ける状態じゃないよ」 拒む隙も与えず、サリーはジェルーシャをひょいとお姫様抱っこで軽々と持ち上げると、そのまま地下駐車場へと連れて行った。 ひんやりとした駐車場の空気のなか、サリーの腕の強さと、胸元から伝わる確かな体温だけが、朦朧とするジェルーシャの意識を辛うじて繋ぎ止めていた。連れて行かれる恐怖よりも、誰かに委ねられる安堵感が勝ってしまう。遠のいていく意識のなかで、サリーの白いテスラのロックが解除される電子音だけが、静かな地下空間に冷たく響き渡っていた。 つづく

ともだちにシェアしよう!