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#09 カラー

ペンドルトン・エージェンシーに派遣されて3日目。ジェルーシャは今日一日ずっとデスクに向かっていたが、誰からも声をかけられなかった。明日の朝までと言われていた宿題はサリーが作ってくれたものの、それを回収に来る者は現れなかった。 周囲の人々が忙しそうに立ち働く中、黙々と段ボール箱に入った大量の名刺を読み取り、エクセルへ入力するだけの時間。猛烈な疎外感、居場所のなさと不安ばかりが募っていく。そんな居心地の悪い1日に、5時の鐘が終わりを告げた。 アストリアの独身寮へ帰る足が、どうしても進まない。あそこへ帰れば、トムが待っている。だがそれ以上に、ジェルーシャは昨晩サリーが与えてくれたあの居心地の良さが忘れられなかった。気がつけば、心の拠り所を求めるようにサリーの元へと足が向かっていた。 記憶だけを頼りにマンハッタンの高層ビル群を彷徨い歩いたものの、似たような通りの景色のなかで、ジェルーシャは完全に迷子になってしまった。頼みの綱のスマホもバッテリーが切れ、画面は真っ暗なままだ。 日が落ち、街灯が薄暗く灯り始める。夏の蒸し暑い夜風に吹かれながら、ジェルーシャは途方に暮れて街角に立ち尽くしていた。怖さと心細さで今にも泣き出しそうになった、——その時。 目の前に、見覚えのある白いテスラが静かに停まった。スッと下りた助手席のウィンドウから、驚いたような顔が覗く。 「ジェルーシャじゃないか? こんなところでどうしたんだい。もしかして、僕の家に来ようとしてくれたの?」 「……あ! サリーさんっ……! 実は、迷子になっちゃって……っ」 情けなさと安堵で涙ぐむジェルーシャを見て、サリーは優しく微笑むと、急いで彼をエアコンの効いた涼しい車内へと招き入れた。重厚なドアが閉まると、外の蒸し暑さと喧騒が嘘のように遠のく。車は静かに滑り出し、再びトライベッカにあるサリーのペントハウスへと向かって走り出した。 ペントハウスに着くと、サリーはすぐさま温かい夕食を用意してくれた。前日と同じように、甲斐甲斐しくジェルーシャの世話を焼いてくれる。 美味しい食事と、サリーの纏う安心感。ジェルーシャは無意識のうちにすっかり心を許し、まるで飼い主に懐くペットのような素直さで甘える仕草を見せていた。出された料理を無邪気に頬張るその無防備な様子や、ふとした瞬間に見せる微細な身体の反応——視線を合わせたときのわずかな喉の動き、指先の震え——を見て、サリーは確信を持ったように静かに問いかけた。 「君は……Subなんだね」 その言葉を聞いた瞬間、ジェルーシャの顔からさぁっと血の気が引き、全身の血が凍りついた。ペンドルトン社やポニー社で受けてきた理不尽な虐待、双子の悪魔——ジュリアンとジュリアからの冷酷な支配の記憶が一気に脳裏にフラッシュバックする。膝が内側に寄り、背筋が硬直する。 「あなたは……Domなの!?」 ジェルーシャはガタガタと震えだし、咄嗟に部屋の隅へと後ずさり、身をすくめて警戒を露わにした。彼にとって「Dom」とは、自分を暴力で痛めつけ、自由を奪い、尊厳を踏みにじる絶対的な恐怖の象徴でしかなかったのだ。 怯えきって息を荒げるジェルーシャを見たサリーは、悲しそうに眉を下げた。そして、自身から発せられていたわずかな圧すらも完全に消し去り、胸を痛めたような穏やかな眼差しを向ける。 「恐がらなくていい。僕は確かにDomだけど……君を無理やり支配したり、傷つけたりなんて絶対にしないよ。僕を信じて」 その言葉には、嘘偽りのない誠実さが滲んでいた。サリーの包み込むような温かい声に、ジェルーシャの張り詰めていた警戒心はゆっくりと解けていく。 (この人は、違うんだ……) 支配されない、ただ守られるだけの安心感。それにすっぽりと包まれたジェルーシャは、その夜もサリーの家で、泥のように深い眠りについた。 ◇ 翌朝。 まだ日が昇りきらない早い時間。寝室のドアが静かに開き、サリーがベッドへと近づいてきた。 「ごめんね、ジェルーシャ。今日はちょっと早く出かけなきゃいけないんだ」 声をかけられたジェルーシャは、眠い目をこすりながら布団の中でモゾモゾと身じろぎした。 「ん……もう、そんな時間……?」 「そうじゃないんだよ。ちょっと今日は僕の予定が早くてね。でも、朝食は用意したから、食べにおいで」 サリーは優しく促すが、ジェルーシャは一向に布団から出ようとしない。それどころか、シーツをギュッと握りしめ、顔まで隠すように布団をかぶってモジモジとしている。 「どうしたの、ジェルーシャ? 具合でも悪いの?」 「ううん……ちがう、です……」 「どうしたんだい? 何か隠してるの?」 心配になったサリーがバサッと布団をめくり上げると、そこには、朝の生理現象で元気よくテントを張ってしまっているジェルーシャのパジャマ姿があった。 「ああっ……! 見ないで、あっち行って……っ!」 ジェルーシャは耳の先まで真っ赤にして両手で下腹部を隠し、涙目で身をよじった。羞恥で肩が小さく震える。呆然とした後、サリーはこらえきれないようにクスクスと笑い声を漏らす。 「ふふ……ごめんごめん。ジェルーシャは若いね。元気だね」 「からかわないでください……っ!」 恥ずかしさで布団に潜り込むジェルーシャを、サリーは微笑ましく見つめていた。 その後、なんとか身支度を整えて二人で朝食の食卓を囲んでいると、サリーが申し訳なさそうに切り出した。 「この後、どうしても外せない用事があってね。今日は会社まで車で送ってあげられないんだ。地下鉄の駅まではすぐ近くだから、そこまで送っていくよ」 それを聞いたジェルーシャの胸に、一気に不安が押し寄せた。昨日の夕方、真っ暗な街で迷子になった恐怖と、一人でこの広くて冷たい街を歩くことへの怯えが、顔にありありと浮かび上がる。 「エェーー…」と不安を訴えるジェルーシャ。 「……僕、また迷子になっちゃうかもしれないし……この街、怖くて……」 眉を下げてすがるような目を向けるジェルーシャの健気な姿に、サリーは少し考え込んだ。そして、何かを思いついたように優しく微笑む。 「あ、そうだ。じゃあ……君にこれを付けてあげるよ」 サリーが引き出しから取り出してきたのは、細身なデザインのカラー(首輪)だった。革で作られたそのカラーには、スマートフォンと連動する位置情報トラッキング(GPS)機能が組み込まれているという。 サリーはジェルーシャが怯えないよう、ゆっくりとした動作で背後に回り、その細い首元にカラーを回すと、カチリと優しく鍵を留めた。 「これで、君がどこにいても僕にはわかる。もしまた道に迷ったり、何か怖いことがあったりしたら……すぐに僕が君を迎えに行ってあげるからね」 首元に触れる柔らかな革の感触と、サリーの指先の温もり。本来、首輪というものはSubにとって「強制」や「服従」の象徴であり、忌むべき拘束具であるはずだった。しかし、サリーから与えられたこのカラーは違った。Domの所有ではなく、「守られる」ための証。 ジェルーシャにとってこれは、「サリーと繋がっている証」であり、「どんな時でも助けに来てくれる」という、人生で初めて得た最高の安心感とご褒美だった。首筋が熱を帯び、胸の奥がじんわりと温かくなる。 「……はいっ!」 首元の温かな感触にそっと両手を添え、すっかり安心した笑顔を見せるジェルーシャ。サリーに地下鉄の駅まで見送られた彼は、首元のカラーを誇らしげに感じながら、昨日の怯えが嘘のような前向きな足どりでペンドルトン社へと向かっていった。 つづく

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