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第五章 すべて失って
店内には、早紀の父・紀明と衛だけになった、メビウス。
静かなジャズだけが流れる穏やかな空間だったが、それを紀明が乱し始めた。
「実は、今日はお願いがあって伺いました」
「何でしょうか」
「早紀を……こちらで雇ってはいただけないでしょうか?」
あまりにも突然な、そして意外過ぎる紀明の申し出だ。
衛は、すぐには返答できなかった。
しかし、いつまでも沈黙しているわけにはいかない。
当然と言えば当然な疑問を、衛は紀明に返した。
「しかし、そちら様は裕福な暮らしをしておいでですね。早紀くんが、安い時給でアルバイトをする必要など無いくらいに」
「アルバイトではなく、正社員で。できれば住み込みで、働かせていただきたいのです」
衛は、困惑した。
一流企業の取締役が、一体なぜ?
家庭を大切にする父親が、どうして?
乱れた心を落ち着けるため、衛は黙ってコーヒーを淹れ始めた。
コーヒーを淹れる衛を見ながら、紀明はぽつりぽつりと理由を打ち明けた。
「実は、社内で背信がありまして。私は、取締役の椅子を失いました」
ミルで豆を挽くと、香ばしいコーヒーの匂いが漂った。
「多額の借金まで背負わされ、万事休すです」
フラスコの湯が沸騰し、衛はロートにコーヒー粉を入れた。
「可哀想なことに、早紀の学費も、もう払えません」
火を消し、竹べらでさっと混ぜる。
「家も、手放しました。後は……」
コーヒーがフラスコに落ち、衛は手早くそれを温めたカップに移した。
そして、声をひそめた。
「後は夜逃げ、ですか?」
紀明にコーヒーを出すと、彼はうなだれたまま首を縦に振った。
このカフェのことは、毎日のように話していた、と紀明はコーヒーで体を温めながら語った。
「飽きっぽい早紀が、何度も通って。そして、弓月さん。あなたのことも」
「私を?」
「優しい方だ、と。憧れている、と聞いています」
まさか、あの早紀くんからそんな風に思われていたとは。
だが衛は、あえて黙っていた。
早紀の父親に、和菓子を勧めて聞いていた。
「数年、潜伏しようと思っています。もちろん、また社会復帰できるよう、努力はします」
「身を隠すような、危険が?」
「借金取りが、厄介です。どうやら、暴力団まがいの連中らしくて」
それは確かに隠れなければ、と衛は眉根を寄せた。
高額の保険金を掛けさせられ、事故を装って殺される恐れがある。
「しかし、私のような人間に、大切な息子さんを。早紀くんを預けてもよろしいのですか?」
「早紀はまだ若く、しかも第二性がオメガです。もし、奴らに目を付けられれば、風俗に売られます」
「そんな……」
「私は、早紀を信頼のおける人間に、預けたいのです。隠しておきたいのです」
確かに、隠すには絶好のポイントだろう。
このカフェは、目立たないところでひっそりと営業しているのだから。
「コーヒー、お代わりなさいますか?」
「いえ、私はもう行かなくては」
そう言う紀明は、切羽詰まった表情をしていた。
必死だった。
「息子さんには。早紀くんには、事情をお話しになりましたか?」
「いいえ。明日、手紙で知らせようと思います」
そうですか、と衛はうなずいた。
それはそうだろう。
知っていれば、先ほどまでのあの無邪気さは作れない。
(あの笑顔を、失くしたくない)
伸びやかなあの心を、壊したくない。
衛は、その一心で覚悟を決めた。
「再びお会いした時には、早紀くんの淹れたコーヒーが出せるようにしておきます」
「あ、ありがとうございます……!」
今夜のコーヒーは、メビウスのオリジナルブレンドだ。
税込み550円だが、衛はそれを紀明に御馳走した。
「隠れて暮らすには、紙幣はおろか銀色の硬貨まで貴重になりますよ」
「面目ありません」
いいえ、と衛は紀明の目を見た。
「死を選ぶより、生きる道を選ばれた。あなたは、早紀くんの言う通り、素晴らしい人だ」
何があろうと、しぶとく生き延びてください。
そう、彼を激励した。
紀明は、何度も振り返りながら店を後にした。
衛もまた、彼の姿が消えるまで見送った。
翌朝、衛が『営業中』と書かれた看板を手にしてカフェを出ると、そこにはうなだれた早紀がしゃがみ込んでいた。
傍には、赤いスーツケースが一つだけ。
衛は、全てを察した。
「おはよう」
「……」
返事が、ない。
だから、衛の方から声を掛けた。
「最後に見たお父さんの顔、覚えてる?」
「……笑ってた」
「そうか」
「昨夜、ここで。メビウスで会った時には、笑ってたのに。だのに、どうして」
早紀は、手にした封書を衛に渡した。
中の便箋には、衛が昨晩聞いた紀明の事情が、息子宛てに綴られていた。
初めて見る、早紀の泣き顔。
そこにいるのは、大人に背伸びする生意気な少年ではなく、打ちのめされた子どもだ。
とにかく、と衛は早紀を店内にいざなった。
「中に入ろう。こんな寒い所にいると、凍えてしまうよ」
幸い他に客は無く、アルバイトの宮木もまだ出勤していない。
衛は厚切りのチーズトーストを焼き、ブレンドコーヒーと一緒に出した。
「食べて、飲むんだ。人間お腹がすいていると、嫌なことしか考えないからね」
「ありがとう。衛さん……ありがと……」
涙で赤い目の早紀は、痛々しかった。
少しでも、彼を癒してあげたい衛だった。
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