6 / 6

第六章 新しい一歩

 衛が出したチーズトーストを、ゆっくりと噛む早紀。  食欲など、無いに違いない。  衛はカウンター越しではなく、早紀の隣に腰掛けて話した。 「お父さんには、君をよろしく頼むとお願いされているんだよ」 「お父さん、何て言ってた?」 「早紀くんが淹れたコーヒーを飲める日を楽しみに、頑張る、と」  だから、君も頑張るんだ。  ここが、踏ん張りどころなんだ。  ただ……。 「ただ、今日一日は静かに過ごしなさい。カウンター奥に、休憩室があるから。そこで、ゆっくりするといい」 「僕、働くよ。今からでも構わない。ちゃんと稼いで、お父さんに恥ずかしくない大人になるよ」  その意気は、見事だ。  さすが、一流企業の取締役子息だ。 「しかし、今の早紀くんが店に出たら、私が通報されそうだ」  パワハラ疑惑が、湧いて出る。  それほどひどい、早紀の泣き顔だった。 「休憩室には、いろんな本もある。読んで、勉強するといいよ」 「うん……」  ようやく早紀は、衛に連れられ休憩室に入った。  本がある、とは聞いたが。 「すごい。コーヒーの本が、こんなにたくさん!」 「紅茶の本もあるぞ」  接客のハウツー本や、語学の本なども置いてある。  勉強すべきことは、山ほどあるのだ。  だが、本に手を伸ばしかけた早紀の腕を、衛はそっととどめた。 「とりあえずは、寝なさい」  そう言って、本の代わりに柔らかな毛布を早紀に渡した。 「朝なのに」 「たっぷり眠って、傷を癒すんだ。早紀くんの心の、傷を」 「……そうだね」  朝起きたら、誰も家に居なかった。  しんと冷たいリビングのテーブルに、父からの手紙が置いてあったきり。  そしてそこに書かれていたことは、早紀の全てを失わせるものだったのだ。  学校も、進学も、友達も、家も。  大好きな父も、だ。 「残っているものは、あるんだ。だから、安心しなさい」 「僕、何にも持ってないよ。全部、無くなっちゃったんだよ?」 「その鋭敏な味覚だ。コーヒーの味が分かる舌を、お父さんは残してくれたよ」 「あ……」 「カフェで働くには、大きなメリットだ。素晴らしい能力だよ」  働く。  僕は、ここで働くんだ。 (お父さんは、衛さんを信じて僕を預けてくれたんだ)  だったら、僕も信じよう。 「僕、働くよ。ここで働きながら、お父さんを待つよ」 「それがいい」  衛は、横になった早紀の小さな体に、毛布を掛けてやった。 「お昼になったら、迎えに来るから」 「何も食べたくない」 「少しずつでもいいから、食べるんだ」  そう言い残し、衛は休憩室から出て行った。  独りになり、早紀は再び涙を流した。  枯れたと思っても、次々に湧いてくる涙。  脳は充血していて、とても眠れそうにない。  ただ、衛の残り香にすがった。  優しい、コーヒーの匂い。  温かな、楽しい思い出。 (違うんだ。今から、なんだ。全ては今から、始めるんだ)  衛さんと一緒なら、大丈夫。  それだけが、早紀に残された希望の光だった。 『また、きっと会える。私は、早紀を信じているよ』 「……お父さん!」  我に返ると、早紀の体はゆるやかに揺れていた。  ここは……車内?  気付くと、自動車の後部座席で横になっている自分がここにいる。 「衛さん?」  身を起こし、前に乗り出すと、そこにはステアリングを握った衛の姿があった。 「起きたね。よく眠ってたな」 「起こしてくれて、良かったのに」 「起こしても、起きなかったんだよ」  車窓の外は、すでに暗い。  しかし、夜の10時、というわけでもなさそうだ。 「衛さん、お店は?」 「今日は臨時で早く閉めたよ。早紀くんを、我が家に招待しなくてはならないからね」  そうだった。  僕は今日から、衛さんのお世話になるんだ。 (お父さん、今頃どうしてるだろう)  そう思っても、涙はにじむ程度に落ち着いた。  ただ、瞼が重い。  早紀の目は泣きすぎて、すっかり腫れてしまっていた。 「わぁ、マンションだ!」 「賃貸だけどね」  一戸建てだった実家とは違う雰囲気に、早紀は興味津々だ。  室内に入って、その温かさにまず驚いた。 「エアコン、ずっと動かしてたの?」 「マンションの部屋は、一戸建てと違って密室だからね。隙間風が、入らないんだ」  ただし、真夏は灼熱地獄だ、と笑う衛だ。  そう聞いても、衛の家を自宅と比べて貧相だ、とは思わない早紀だった。  高い天井には、邪魔にならない幾何学的なデザインの照明が灯っている。  装飾の少ない家具や、シンプルなカーテン。  統一感のあるカラーで整えられた部屋は、スタイリッシュだ。 「カッコいい部屋……」 「ええ? そうかな?」 「全然、散らかってないし。無駄なもの、一切置いてないし」  こんな部屋、憧れた。  大学に進学して一人暮らしになったら、こんな部屋に住みたいと思ってた。  うなだれる早紀に、衛は気づいた。 「早紀くんも、しっかり稼いで。そのお金で、自分の部屋を持つんだよ」 「うん……」 「ほら。うつむいてたら、お父さんに笑われるぞ?」 「うん。解った」  早紀の瞼はやはり腫れているが、その瞳にはわずかに希望の光が灯っていた。

ともだちにシェアしよう!