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第十四章 ライトスタッフ早紀

 ようやく始まった、早紀のメビウス・デビューの日。  感心なことに、彼は常連客の名前とオーダーの好みをメモしていた。 「吉井さまは、トースト固め。三村さまは、コーヒー濃い目。下條さまは、卵を半熟に、っと。これで良し!」 「熱心だな」 「僕、人の顔と名前を覚えるのは、得意なんだ」  そう笑う早紀の髪を、衛は優しく撫でた。 「その調子で、いこう」 「はい!」  午前中は客足もまばらで、時間に余裕があった。  そこで衛は、アルバイトの宮木の紹介を軽くしておいた。 「宮木くんは大学生で、講義が終わった時間に出勤してくるよ」 「大学生か。いいなぁ」  しまった、と衛は口をつぐんだ。  本来なら、早紀はまもなく高校卒業。  そして春からは、希望する大学へ通うことが決まっていたのだ。 「失言だったな。ごめん」 「ううん。気にしてないよ」  今の僕は、今できることをするんだ。  強がってみせる早紀が、頼もしくもあり、痛々しくもある。 「朝も言ったけど、気分がすぐれない時は仕事を休んで、ゆっくりしていいからね?」 「ありがとう。でも、平気。動いてた方が、気もまぎれるし」  それより、と早紀はカウンター内の衛に向かって身を乗り出した。 「宮木さんのこと、もう少し教えて。僕、仲良くできるかなぁ」  そんな前向きな早紀に救われながら、衛は語った。  宮木は、大学三年生の21歳であること。  経済学部で、学んでいること。  すでに企業から内定をもらい、後は無事に卒業できるよう頑張っていること。 「詳しくは、彼から直接聞くと良い。早紀とも、うまくやっていけると思うよ」 「楽しみだな。ドキドキしてきた」 「今日は火曜日だから、少し早いか。午後には、ここにやってくる」 「勉強は?」 「三年生にもなると、講義が少ないそうだ」  うぅん、と早紀は両腕を上げて伸びをした。 (大学生活って、どんなだろう。いろいろ聞いてみたいな) 「早紀」 「何?」 「進学したかったら、私が何とかするよ? 少し資金をまとめれば、早紀一人くらいは……」  いいよ、と早紀は手を横に振った。 「お父さんは、このメビウスに僕を預けていったんでしょう?」 「うん、それはそうだが」 「だったら、僕はここで働いて一人前になる。お父さんの願いは、きっとそうだと思うんだ」  君は本当にいい子だな、と衛はカウンター内から出て、早紀の隣に歩んだ。  その体を抱き寄せ、背を撫でた。 「衛さんの手、あったかいね」 「そうかな」  凍えてしまった早紀の心を温めてあげるように、撫で続けた。  宮木は勤務開始時刻の5分前に、メビウスに現れた。 「宮木くん。定刻ちょうどに来ていいと、いつも言ってるのに」  支度も勤務のうち、と考える衛は、就業前に出勤することを強要しない。  それでも宮木は、生真面目に5分前行動をするのだ。 「俺が、好きでやってることですから」  そう言ってロッカーに荷物を置き、手をきれいに洗ってエプロンを付ける。  準備完了、と言いたいところだが、今日は勝手が違っていた。 「宮木くんに、紹介したい人がいるんだ」 「よろしくお願いします!」  そこにいたのは、見覚えのある顔だった。 「え、あっ!? 確か、秋口に……」  友達と一緒に賑やかに騒いで、ブラックアイボリーを飲んだ男子高校生! 「マスター。まさか、この子!」 「そのまさか、だ。ここで働いてもらうことになったよ」 「梅ヶ谷 早紀です!」  宮木は、目をぱちぱちさせた。  訊きたいことは、たくさんある。  しかし衛は、ただ一言。 「宮木くん、彼をよろしく頼むね」 「はあ……」  尊敬するマスターに頼まれれば、嫌とは言えない宮木だ。  そこで早紀に、手を差し伸べた。 「宮木 秀一(みやき しゅういち)です。よろしく」 「ありがとうございます!」  握った早紀の手は、華奢で柔らかかった。  これまで働いたことのない人間の、幼い手だ。 (富豪の息子が、なぜカフェで働く必要があるんだ?)  確か、一か月のお小遣いが10万円とか言ってたっけ。  それを知るには、午後の客をさばききるだけの時間が必要だった。  本格コーヒーの飲めるカフェがある、という口コミのおかげで、メビウスはそこそこ繁盛するようになっていたのだ。  早紀もまた、秀一に質問するのはプライベートに関することではなく、仕事の話ばかりだった。 『宮木さん、オーダー取りました。後は、衛さんに伝えればいいんですよね?』 『宮木さん、エスプレッソ2つ、どのテーブルですか?』 『宮木さん、お客様がグラス割っちゃいました!』  目の回るような忙しさで、気が付けば休憩時間だ。  そしてその頃には、宮木は早紀を見直していた。 (足手まといかと思ってたけど、結構やるじゃん)  報告、連絡、相談をきちんとしながら働く早紀は、立派な一社会人だった。

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