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第三十五章 覚悟の電話

 バレンタインデーの、一週間前。  衛は、早紀がバスを使っている間を狙って電話を掛けた。  こっそりと、秘密で。  相手は、もう数年は連絡を絶っている、実家の父親だった。 『お父様、ご無沙汰してます』 『衛! 元気なんだな? まだ、カフェを経営しているのか!?』 『おかげさまで、リピーターも多いですよ』 『弓月家の人間ともあろうものが、客商売など……全く!』  父の言葉に、衛はため息をついた。  家柄にこだわる父の性分は、まるで変わらない。  だからこそ、数年前に屋敷を飛び出し、自分の手腕を振るってメビウスを開いたのだ。  衛は、弓月の家から出る方法を、学生時代の頃から考えていた。  大学に通いながら、こっそりと勉強してバリスタの資格を取った。  大学卒業後は、家同士の利益のためだけの結婚話が浮上し始めた頃に、逃げ出した。  その後しばらくは、学生時代に世話になったカフェのマスターの元で、修行だ。  満を持して自分のカフェ『メビウス』をオープンし、振り返れば数年が過ぎていた。 『もう、いいだろう。カフェなど辞めて、帰って来なさい。いつまでも、子どもじゃないんだ!』  父の叱責に、衛は我に返った。  つい、昔を懐かしく思い出していたのだ。 (お父様の頑固さは、変わっていないな)  それでも、嬉しい一言があった。  父の第一声は『衛! 元気なんだな?』だったのだ。  我が子を労わる言葉が、真っ先に出たのだ。  そして、それに気付くことができた自分の成長も嬉しかった。 (早紀のおかげだ)  以前なら、二言目の『まだ、カフェを経営しているのか!?』に、腹を立てていただろう。  早紀の影響を受け、衛は変わっていた。  早紀のおかげで、人の言動から明るい面をすくい上げられるようになった、衛だ。  その後も彼は落ち着いて、父と通話を続けた。 『実は、お父様に相談があります』 『困っているのか? 何でも言いなさい』 『少々、まとまった金額が必要なのです』 『理由を、訊こうか』 『何でも言いなさい』という溺愛っぷりと、それに反して『理由を、訊こうか』という冷静さ。 (この絶妙な匙加減も、相変わらずだ。さすがは、お父様だな)  おそらく、納得できる理由がなければ、資金は出してもらえないだろう。  弓月の家長として、ユヅキホールディングスの代表取締役として、その辺りはシビアな父だ。 (小細工は、無しだ)  衛は一つ息をつくと、父に対して語り始めた。 『実は、知人が借金で苦しんでいます。返せなければ、その息子さんが風俗に売られます』  衛は、早紀とその父・紀明の話を打ち明けた。 『借金とはいえ、濡れ衣を着せられて背負わされたもの。完済後、私は代理人として裁判を起こすつもりです』 『つまり衛は、その借金の肩代わりをしたい、と言うんだな?』 『シンプルに言えば、そうです。億単位の額ですが、お力添えいただけますか?』 『いいだろう。だが、条件がある』  来たな、と衛は眉根を寄せた。  父の交換条件など、聞かなくても解っている。  解ったうえで、電話に踏み切ったのではあるが。 (早紀のためだ)  早紀のためなら、衛は全てを犠牲にする覚悟だった。  億単位の資金を用意する、交換条件。  父が望むこともまた、シンプルだった。 『衛。弓月の家に、帰って来なさい』 『やはり、そう来ましたか』 『何年も待った。そろそろ落ち着いて、私や母さんを安心させてくれ』 『……解りました。また、連絡します』  通話を終え、衛は天井を仰いで息をついた。 「さよなら、私の自由」  さよなら、カフェ・メビウス。  そして、愛しい早紀。  バスルームのドアが開いた気配がし、早紀の声が聞こえてきた。 「衛さん、お風呂あがったよ~」 「解った。今、行くよ」  何事もなかったかのように、衛は早紀に明るい声で返事をしていた。

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