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第三十六章 早紀の未来

 衛が早紀のために、弓月の家へ戻ると決めてからの話は、早かった。  二回目の電話で、すでに3億の金が準備されており、三回目の電話では、紀明の潜伏場所が突き止められていた。 「さすが、お父様だな。私は、まだまだ敵わない」  判断力、決断力、そして行動力。  しばらく離れて過ごしたおかげで、衛は父の能力を素直に認めることができた。  早紀の影響で、心が柔らかくなったからでもあるだろう。  父に教えられた、早紀の父・紀明の住所を確認すると、衛はまず彼に電話を掛けた。  緊急時のみ、と固い約束をして託された番号だ。  数回のコールで、紀明は通話を繋いだ。  そしてすぐに、慌てた様子で訊ねてきた。 『早紀に、何かあったのですか!?』 『驚かせてすみません。早紀くんは、元気です』 『あぁ……良かった……』  紀明のリアクションに衛は、父から子への愛情を強く感じた。 (やはり、早紀とお父さんは、一緒に暮らした方がいいんだ)  その確かな思いを胸に、気を引き締めた。  長話をしていると、早紀が外出から帰って来てしまう。  衛は、手短に用件だけ伝えることにした。 『結論から言います。あなたの借金を返済する準備が整いました』 『えっ? ど、どういう意味なんでしょうか?』 『私が3億、用意したのです。詳しいことは、後ほどお話しします』 『一体、なぜ!? 大金ですよ!?』  紀明は動揺していたが、衛はただ短く伝えた。 『本日の午後11時に、車でそちらへ向かいますので、その時に』 『……解りました。ひとまず、待ちます』 『よろしくお願いします』  通話を終え、衛は独りでしきりにうなずいた。 「これで、いい。これが、最善の道なんだ」  自分自身に、そう言い聞かせていた。  その日の夜、早紀には嘘をついて、衛は出かけた。  コーヒー豆を頼んでいる、輸入業者と話しがあるから、と言って。  そして自動車に乗り込み、特定できた紀明が隠れているアパートへと向かった。  古びた、小さなアパート。  その一室のドアを、衛はノックした。 「梅ヶ谷さん、私です。弓月です」  すぐにドアは開けられ、紀明が顔を出した。 「お待ちしておりました。どうぞ、中へ」 「突然、身辺を探るような真似をしました。お許しください」 「いいえ。こんな場所まで訪ねてくださるとは」  お恥ずかしい隠れ家です、と紀明は肩を落とした。 「近くに、私の車が停めてあります。そちらへ、ご一緒できますか?」 「はい。その方が、私も安心できます」  暴力団まがいの借金取りに、居場所を探られている、紀明だ。  アパートに明かりを点けて、話し込んでいると、見つかるかもしれない。  そんな緊張感は、衛にも伝わっていた。  紀明を車に乗せると、衛は運転しながら少し話した。 「もっと早くに、この提案をすべきだったと後悔しています。」 「いいえ、そんな。しかし、3億もの大金を一体どうやって……」 「恥ずかしながら、実家を頼りました。さすがに、カフェのバリスタでは無理な額ですので」  そして衛は、ユヅキホールディングス、という社名を出した。  弓月家が代々、年月をかけて育ててきた、巨大企業だ。  その名に、紀明は息を飲んだ。 「ユヅキホールディングス……!?」 「私は、その本家の息子なのです」 「しかし、あなたのカフェは。メビウスは、ユヅキのチェーン店ではありませんよね?」 「若い頃から、父に反発ばかりしておりまして。しかし、私もこれを機に落ち着きます」 「弓月さんは、あのカフェを愛しておいででは? バリスタという職業に、誇りを持ってらっしゃるのでは?」  でなければ、ブラックアイボリーなど出すわけがない。  紀明は、衛が大切なものを犠牲にしている気がしてならなかった。  衛と紀明は、その問題のカフェ・メビウスに到着した。  エアコンを入れて店内を温める間、衛は紀明のためにコーヒーを淹れた。 「あぁ、とても良い香りです……久しぶりの、コーヒーの香り……」 「喜んでいただけて、私も嬉しく思います」  それこそが、衛の経営理念だった。  一杯のコーヒーに心を込めて、お客様に喜んでもらう。  どんな苦難を抱えていても、そのコーヒーを味わっている間だけは、安らぎを感じてもらいたかったのだ。  そして衛もコーヒーを飲みながら、語った。 「確かにメビウスは私の宝ですし、バリスタは天職です。ですが、早紀くんのためなら、話は別です」  彼は、まだ若い。 「早紀くんには、この先も伸びやかに生きて欲しい。その未来を、可能性を摘んでしまうことだけは、避けたいのです」 「弓月さん……」  二人の大人は、いろいろな話をした。  過去のこと、現在のこと。  そして最後に行き着くのは、やはり未来のことについてだった。  早紀の、未来のことだった。

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