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ローマへ至る全ての道

 その晩ひどい夢を見たようだが、具体的な内容は覚えていなかった。  物心ついた時からそうだ。夢を見たという事実だけは存在していて、内容自体はすっぽりと抜け落ちている。  何故だろうか――?      昨晩、自分は何かを失っただけではなく、何かを得たのではないか。  それを自分の中だけだとしても言語化することがアルナウトには恐ろしかった。認めてはいけない。その先を見てはならない。      昨晩の雨は降り止み、穴の空いた屋根からは淡く朝の光が差し込んでいた。熾火は消え、湿った灰と煤が残っている。      遠くで犬の吠え声がした。   表に繋いでいた馬の鼻息が聞こえる。    初めオオカミの群れではないかと思い、アルナウトは身を固くしたが、   「どうやら密猟者のようだ、ここは誰の土地だ?」      ほとんど何も身につけていない状態で、アルナウトの傍らに昨晩の男、ジョアンが座っていた。    小屋の外はひんやりとした白い霧がまいていた。昨晩土の床に放った剣の鞘に付いた水滴が光る。ろくな防寒もなく眠れたのはこの男の体温のおかげだと知って、アルナウトは渋い顔になった。     「誰の土地って……」    昨晩どの程度馬を走らせたのか。もしかするとまだルエルグのヴァルクロス家の騎士領から出ていないのではないか? 西へ伸びる巡礼路はこのままアルマニャック伯爵の領地へ向かっている。     「騎士様の領地ではもちろん密猟は重罪だろう、だが今はそれを罰するための斧がない」      ジョアンは土埃にまみれ、乾いた体液まで付着した女物の服を再び被ると、相変わらず女にしか見えなかった。裾をめくって麻の肌着を裂き、頭から顎にかけて巻き付ける。     「お前、その服――」   「とりあえずこれを着続けるしかないだろう、巡礼者向けの宿場があるだろうから適当に手に入れればいい。これで尼僧に見えるはずだ。 ――それよりも騎士様、貴方の方が身元を特定されかねない」     「どういうことだ」   「貴方の馬と馬具は良すぎる、それとその剣と綿入りの上着も売ってもっと粗末なものに変えるんだ」   「なっ、貴様……!」   「俺はお願いしてるんじゃない、死にたいのか?」       ◆◆◆   「ありがとうございます、神があなたに 神があなたに報いてくれますように(デウス・レッダト・ティビ・メルチェデム)」    にこやかに尼僧――ジョアンが山羊を連れた牧童へ手を振ると、アルナウトは彼が視界に入らなくなったことを確認してからジョアンを睨んだ。     「最悪だ。人を騙して手に入れたパンだのワインだのは美味しいか?」   「そうイラつくな、理想主義ではすぐに行き倒れになるぞ。ならば仰る通りに馬でいくらでも先へどうぞ」    アルナウトは憤懣やる方ないといった面持ちで、馬を引いていた。  鞍に括り付けられた佩剣は前日までの雨で半ば泥と化した、石ころだらけの巡礼路を蹄が叩くたびにがちゃがちゃと鳴る。     「だいたいお前、この先どこへ行くつもりだ? トゥールズのセネシャルには今頃あの僧たちの伝令役が到着しているぞ。どこへ逃げ隠れるにせよ足が付く」   「俺の知己がバイヨンヌにいる。おそらくいきなり訪ねてもしばらくは置いてくれるだろう」      とはいえ普通に考えてルエルグからバイヨンヌまでは二週間以上の道のりだ。追手に道中捕まらないとも限らない。    アルナウトは怪訝にジョアンを見たが、今は彼を頼るしかない。     …… ………… ………………    二人の行く手には簡素な石のアーチを備えた橋が近づいてきた。  雪解け水やここのところの雨で川が増水していなければ、浅瀬や農民が使うような渡し船に乗れたのかもしれないのだが。    しかしながら橋脚を押し流さんばかりの水量では結局ここを通る他ない。     「こんにちは、お二人さん巡礼者かい?」    関所の役人は痩せた中年男で、たえず黒い無精髭を撫で回していた。  男はアルナウトとジョアンをじろりと眺めると、   「変わった組み合わせですね、尼さんとその護衛としては」      疑われているな、とアルナウトは気がついた。    役人は二人の後ろに回り込むとジョアンの尻を掴んだ。彼は一瞬だけ眉間にシワを寄せたが、すぐに元の表情に戻す。  この服に昨晩の名残りが染みて乾いてることを、役人が見抜くことは容易だろう。どのような関係だと思われているのかは火を見るより明らかだ。    いったいどんな目で見られているのだ。アルナウトは無意識にこの男を睨みつけた。     通行料としてジョアンは黒ずんだ銀貨三枚を渡す時に、男の手を白い指で握り込んだ。あからさまに役人は脂下がると、こちらが聞いてもいないことを言う。     「あんたさん達、今のうちで良かったよ。どうやらこの近辺の街道を食糧を載せた馬車が、たくさん通って行ったみたいですぜ」   「なるほど、通行料も値上げすれば良い収入になりますからね」    石造りの橋へ出る関所の戸をくぐる時に、ジョアンはちらりと役人を見ながらそう言った。     「お前なぜ金を持っている? 火打ち石の時も妙だと思ったが、牢に入れられた時点で一度持ち物は取り上げられてなかったのか」    ジョアンは腰につけている巾着をアルナウトの前で見せた。   「俺は基本的に手癖が悪い」    じゃらじゃらと金属同士の擦れる音がした。    彼はいったいどこからこれらを手に入れたのか。もしかしたらヴァルクロスの城館から手に入れたものはこれだけでは済まないのではないだろうか?     「窃盗は重罪だぞ!」   「もうここは貴方の領地でないですよ」      振り返ると背後には濁った川が見える。  橋を渡りきった先には西へ巡礼路が伸びていた。はるかサンティアゴ・デ・コンポステーラまで続く道が。

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