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厩で死ぬ
「ギルエム様は近頃はお忙しくあられましたのね。寂しい限りでしたわ」
一目で安物とわかる生地、あまり趣味の良くないローブを身につけた少女が学者――メストレ・ギルエムを待ち受けていた。
トゥールーズの聖ステファノ寺院を臨むロカミラ男爵の邸宅の居間は、出来も状態も良いとは言えない一角獣の綴織以外にはこれといって貴族の屋敷として見るものはない。
少女の乳母が来客用のゴブレットに赤ワインを注ぐと、ギルエムは少しだけ口を付ける。
「申し訳ございません、エステファニア様。ここのところ厄介ごとが多く。しかしながら貴女とお会いできたことで連日の疲れも吹き飛びました」
メストレ・ギルエムは優雅に笑みを浮かべた。
とはいえ彼女の纏う、明確に身分に合わない安価な香料のきつさは耐え難い。
「わたくしには殿方たちの難しいお話は分かりませんから。ここのところどうにも皆さま忙しいみたいですし、なにか大変なことが起きるのではないかとわたくしも不安です」
「ご安心を、私の妻になる女性に無用な心配を掛けさせるようなことは、決して致しません。そうお渡しするものがありまして」
ギルエムは反物を机に広げる。
「カルカソンヌの毛織物です。お父上――ベルナト・デ・ロカミラ卿も気に入ってくださるかと」
父の名を聞くとエステファニア嬢の動きが一瞬止まり、みるみる顔が青ざめる。
◆◆◆
旅籠の厩は馬たちの体臭と馬糞、飼葉に藁の臭いが立ち込めている。ほぼ日も落ち馬が吐く鼻息と、ぶるぶるといういななき。
馬小屋は宿の規模に見合った比較的大きめのもので十頭を越える乗用動物や、荷役の家畜で埋め尽くされている。
庭を挟んだ居酒屋では、酔客の話し声と品のない笑いがひっきりなしに聞こえてくる。
街道沿いに点在する小さな街は、サンティアゴ・デ・コンポステーラにたどり着くまで、巡礼者達をダシに一儲けしようと暗い口を開けている。
「ジョアン! なぜ馬を売った!?」
アルナウトの怒号が馬小屋に響き渡った。
「荷物を括るだけであれは必要か? ラバで充分だ。鞍もこれでいい」
人間同士の言い合いなどにはお構いなしといった様子で、厩に繋がれたラバの黒い目がこちらを見ていた。女装のままのジョアンがそこに映る。
「信じられない! 仲買人に足元を見られたな? お前が馬や馬具の価値を正しく分かるわけがない、せめて買い換えるなら私に交渉させるべきだった!」
「貴方は馬を買い換えない、だから交渉などしない。それだけだ、俺が交渉した」
ジョアンはラバの腹を撫でると、ラバは嫌そうに首を振る。
「やあ貴婦人、貴女は今日から俺の妻。そうだろうイハ?」
彼女の大きな耳は左右別にぴくぴくと動く。
「お前、ラバに名を付けている場合か! 私の馬を返せ!」
「あの手の馬ならまた買い直せ、もっといい馬を買えばいい。騎士様なら家格に見合った素晴らしい馬に乗るべきだ」
ジョアンはアルナウトと向き合うと、彼の足元から顔までを値踏みするように眺めた。
「その腰の剣も綿の入った胴着も売った方がいい、貴方はあまりにも目立ちすぎる」
アルナウトはついに怒りのあまり殴りかかった。
ジョアンが敷き藁の中に倒れ込むと、驚いた馬が鳴いた。
濃い茶色の髪に藁くずの付いたジョアンが口元を手の甲で拭うと、血が滴り落ちた。
アルナウトの拳は胸の前で止まったまま震える。
「殺してやる……」
「ではそうするといい、初めて人を殺めることも俺で 済ませるんだな。貴方は生も死も全てを俺に依存してしまうわけだ。さようなら騎士様」
切れた唇の端からも鼻からも流れる血が、彼のシャツに染みを作った。
アルナウトはその襟首を掴むと額が触れ合うほど、ジョアンに近づいた。
一周させてもまだ余るほどジョアンの白い首は華奢だった。まるで医者がするようにそこに脈打つ熱を感じると、アルナウトは崖のてっぺんから下を見た時のように、足元がすくむ思いをして背中に冷たいものが流れた。
ジョアンは口の中に溜まった血液と唾液を同時に吐き出すと、アルナウトの胴着にそれが付着する。
鉄の匂いがした。
「貴方に俺は殺せない。現に俺を殺す機会は何度もあったはずだ、だのに殺さないことを常に貴方は選択していた」
「そうか、では今から望み通りに殺してやる」
アルナウトはぐっと両手に力を込めた。
アルナウトの方がジョアンを見下ろしているはずなのに、あの黄色い目からまるで見下ろされているかのような思いがした。
彼を殺そうとしているのに。殺されようとしているのは自分なのではないか?
アルナウトは脚の間に昂る熱を感じていた。なぜこんな時に?
その感覚を誤魔化すべく余計に力を込めるとジョアンの首は力を失って、髪の毛がばさりと彼の顔を覆った。鼻血がアルナウトの手に付いた。
「……あ、」
まさか実際にするとは思ってもみなかった行為を、たった今本当にしてしまったのだ。
繰り返し読んだ指南書 が頭を過ぎった。
ジョアンは藁の山に再び倒れ込むと、動く気配はない。
彼の血の付いた手のひらで顔を覆うと、指の隙間からジョアンが見えた。
異教の預言者を皆殺しにしたとしてもなお、追撃を恐れて荒れ地で自らの死を願うしかない。
……
…………
………………
「ご、ごほっ、うっ、……はっ、はあ……」
呼吸を再び始めたジョアンは激しく咳き込むと、藁の上で身を転がした。敏感な馬たちは驚いて戸惑う。乾いた植物の繊維がホコリのように舞い上がり、そこからジョアンは涙目になった黄色い目で再びアルナウトを見た。
「……はっ、なぜ興奮し、てい……る?」
いまだ荒い息を続けるジョアンに指摘されて、アルナウトは慌てて意識を身体の中心へと飛ばした。
なぜ先ほどはそう感じていたのか分からなかった。息を吹き返したジョアンに指摘されると、そこは痛いほどに硬くなっていた。下着から少しでもずれたら醜い欲望が人目に触れてしまうに違いない。
だが懸念したことは起こらない。
アルナウトのそれはジョアンの血が乾きつつある唇に触れられる。
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