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雨雫

「こんな雨でしばらく仕事が入らなくて、あがったりだと思ってたから有難いわ」      アルナウトの傍ら、ベッドに腰掛けた女がそう言った。    普段は頭巾に覆われている茶色い髪が肩に落ちかかり、肌には前の客たちが付けたと思しき無数の痣と噛み跡が散らばっている。 ◆◆◆  托鉢修道会の黒い僧衣を翻した大柄な僧侶は連れのもう一人にこう言う。     「捕まらないわけだ。どうやら手配書が誤っているというより、我々が追っている相手の風体が正確に伝わっていないと見える」      昨年、フォワ伯ガストン四世は首邑をここポーへ移したばかりで、いささか急ごしらえといった印象だ。    雨で泥同然になった道には乱雑に、兵糧や弩の矢に野営の天幕といった物資が集積されている。農民と思しき若い男たちは、これから起こることの重大さを知ってか知らずか、ふざけて笑いあっていた。      伯爵は国王側へと合流し、小領主たちが動員する兵がポーへ集められ、ものものしい雰囲気に包まれている。    何せ領地の隣接するアルマニャック伯は、王弟への忠誠をそこそこに決めてしまい、国境では睨み合いの体を呈していた。      ようやく追いついたと思った矢先、予想外に街が混乱していることに焦りを隠せない。    これから国王たちと、王弟を持ち上げている一派――シャロレー伯や、ブルターニュ公などが一戦交えようとしている。愚かなことだ、ようやく北狄の蛮族どもを追い出したと言うのに?      兄弟ベルトラン(フラーテル・ベルトランドゥス)は記憶を辿る。    アルナウト・デ・ヴァルクロスの方はもしかしたら、アレマーニャ人にも見えるとでも言っておいた方が良かったかもしれない。ルエルグ訛りのオック語を話さなければその形容でも通用する、大柄でがっしりとした金髪の男だ。      まあ、もうひとりの方は――メストレ・ギルエムの知人でなければ"Vade retro Satana"(即刻下がれ)というのが妥当だろう。    冥府に魂を売った化け者め。      その時、どすっとベルトランの肩が誰かとぶつかった。   「失礼」    ベルトランは慌てて相手を見たが、旅姿の細身の男は特に気にもせずそのまま行ってしまった。         …… ………… ………………      宿の客室の扉が開くとジョアンが入ってきた。彼が出ていく時に羽織っていたアルナウトのマントは水分を吸って重さが増している。     シワだらけになったシーツや麻のシャツから覗く太い鎖骨と首筋に付けられた吸い痕から、アルナウトが先程まで何をしていたのかは容易に想像できたのだろうが、ジョアンはあえて何も言わなかった。      軽蔑されるに違いない。      アルナウトはそう確信したがそのことに触れないどころか、ジョアンはアルナウトがそこにいることすら気が付かないそぶりだ。    床板に点々と雨雫が落ちてジョアンの髪はほとんど漆黒に見えるほど濡れていた。      マントを脱ぐとジョアンの服は男物であることが露わになった。    ごく普通の擦り切れかかった古着で、ところどころ大きさも合っておらず自ら修繕せねばならないだろう。    一見すると工房の徒弟か商人の若い下男といった風体だ。      会った時から今までの道中ずっと彼は女性の服を着ていて、ジョアンの本来の姿を見たのはこれが初めてだったことに気がついた。      余程驚いた顔をしていたのかジョアンは言って聞かせるようアルナウトへ言う。   「ずっとあの服を着ていては差し支えがある。行程的にあと五日もせずにバイヨンヌへ着く、知り合いに会うのにもあの格好でどうするつもりだ」    つまりアルナウトに対しては女装でも構わなかったが、その知り合いに対しては見せるべきではないと思っているのだ。      その相手は誰なのか。以前言っていた彼の知り合いとやらに違いなかった。  アルナウトの預かり知らぬ関係がジョアンとその相手にはあるのだ。    少なくとも私とは違う接し方をしている相手が。    そこまで考えてアルナウトは胃が重くなった。      こんな逃亡をする羽目になったのはこの男のせいではないか。しかも一度殺しかけた男。     「バイヨンヌで革の工場や取引を行ってる男だ、口も固い」   「手癖の悪いコソ泥にしては随分といい友人を持っているようだな」      アルナウトの嫌味に対してジョアンは意外にも反応を示す。黄色い瞳を細めると愉快そうに微笑む。   「持つべきものは友と言うではないか」        やめてくれ。  これ以上知らない彼を見せないでくれ。 ◆◆◆ 「東の方の訛りがある若い男を探している、教会への負債がある」     「神のしもべが改宗者まがいのことをしてるとは面白いね。それも探しているのは金髪で図体の大きい男? そんなのよくいる感じだねえ、お坊さん。あんたも含めてね」  宿の女中はベルトラン達を頭のてっぺんから足の先まで眺めるとそう言った。 「あんたこそベアルンあたりの言葉じゃないね、どこの教区から来てるか知らないけど」    女中は面倒くさそうにテーブルに銅貨を一枚投げるように置くと、ベルトランは恭しく拾い上げる。   「ありがたい、神があなたにお返しになるだろう」    外の空気でも吸おうとアルナウトが旅籠の一階へ降りてくると、ちょうど修道士たちが外へ出ていくところだった。     「信仰心とやらでなにか解決するなら、いくらでも信じるよクソ坊主」    女中がそう毒づくのが聞こえた。 …… ………… ………………      関所で通行料を徴収している地域の有力者から、彼らの外見を聞いてここまで追うことができたが、どうやら見失ってしまったことにベルトランは苛立っていた。    メストレ・ギルエムの元に戻る前に成果を出さねば立場も危ういではないか。      その時、どすっとベルトランの肩が誰かとぶつかった。   「失礼」      細身の旅姿の男だった。  それも先程ぶつかったのと同じ男だ。男の被っていたフードが少しめくれて、ほとんど黒い目と顔の一部が露わになった。    赤銅色に日焼けした顔の中で、唯一白くひきつったやけどの痕がある左頬が目に付く。    男はベルトランたちに何も言わぬまま、人ごみへと消えていった。

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