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マスキール

 もう昼過ぎだ。    バイヨンヌの城壁の外側、ニーブ川がどんよりした厚い雲の下でゆっくり流れていた。ときおりなにかの汽水魚が跳ねる。  ジョアンが雌のラバ――彼がイハと名付けたラバが川べりの柔らかな砂に蹄の跡を付ける。     「ひどい臭いだ。農民の使う便所だってこんなではないだろう」      アルナウトは上衣の袖で鼻を塞ぎながらもごもごと話した。    ジョアンはお構いなしにラバの手綱を引き下流へと歩いてゆく。   「革の加工にはその手の業者の回収した屎尿を用いるものだ。貴方のような貴族の使う道具の製作にも、その汚物を使う工程なしでは完成しえない。それとも知らない方が良かったか?」    知りたくもない、と言えば嘘になる。何せいま実際に革の手袋を身につけているのだから。  下流へ近づくほど潮の匂いまで強くなる。遠くに波の音が聞こえた。    アルナウトはこのような外海を見たのは初めてだった。かつてナルボンヌあたりで見た潟の向こうの砂州と、僅かな水平線とは大きく異なる。        いくつか連なる工場らしき建物の裏手、河原の細かい砂に枝を使って、文字を書いていた少年に向かってジョアンは声をかけた。    まだ十歳にもならないような子どもだが、そのあたりの職人の子とは比べ物にならぬ良い身なりをしている。     「きみ、ベルナトだろう? 大きくなったな、久しぶりだ。父上はどこに?」   「お兄さん誰?」    赤毛の少年は怪訝そうにジョアンを見上げた。     「マスキール(﹅﹅﹅﹅﹅)と言えばわかる」   「ふぅん。とてもそうは見えないけどね。お兄さん、ぼくのお父さんに借金があるとかじゃないの?」     ……マスキール、これもジョアンの偽名のひとつなのだろうか。  だがいったい何を私が気に病むことがあるのだ、出会ったときから女装などしていた男だ。詐欺師のようなマネなどお手の物ではないか。     「……ヴェハマスキリーム」    その言葉を聞くと少年が驚いた反応を示した。  ベルナト少年は靴で文字を雑に消してから、ジョアンの袖を引いて歩き出した。       ◆◆◆   「やあジョアン、何年ぶりだ? もう会えないかと思っていた」    痩せた四十絡みの男がジョアンを迎えた。いかにも裕福な商売人の事務所といった体裁の部屋で、傍には番頭らしきもう少し若い男が帳簿にペンを走らせている。   「こちらこそ、ギロー。行く先々で貴方の活躍はお聞きしてましたよ。そういえばご長男は?」     「ペイレならナバラへ商売の勉強に出してます、トゥデラの同業者のところです。あの子もだいぶ大きくなりましたからね」      ジョアンとこの痩せた男、ギローは親しげに再会を喜び合うと、ここ数年の世の中の動きであるとか、他愛もない冗談を言い合ったりした。    むしろジョアンがあの皮肉げな表情ではなく屈託なく笑い、ギローの息子のベルナトに対してもごく普通に接している。  自分が今まで知っていたジョアンはどこか浮世離れした、奇妙な存在だったはずだ。しかし今見た彼の姿はアルナウトが知るところのない、いや全くもって普通の男としての姿だった。    しかもこの経営者とは久方ぶりのようだが、考えてみるとジョアンはいったい何歳なのだろうか。せいぜい自分と同世代だとアルナウトは考えていたのだが、どうにも違うらしい。     「しかしジョアンがデ・ヴァルクロス卿のような若者と知り合いであるとは、驚きですな」   「俺のことをどのようなやくざ者だと思っていたんですか、むしろ貴方のように手広く商売をやる方の方が余程、そういった筋に顔が利くのでは?」    「何をおっしゃる、私ほどバイヨンヌで真っ当な仕事をしている者もないでしょうに」     「騎士さま、なんか具合でも悪いの?」    アルナウトはベルナトに指摘されて初めて、指先が震えていた事に気がついた。     …… ………… ………………    ギローは残った仕事を番頭に任せて、アルナウト達を連れて城壁内の邸宅へ戻ってきた。    彼の妻と娘が一同を迎え入れると、ギローは料理人と女中たちに夕飯を作るよう指示をする。     「勿論泊まっていくだろう、ジョアン。積もる話ばかりだ」    ギローの痩せた顔に穏やかな笑みが浮かぶ。        その晩――    アルナウトが見たこともないような立派なサケが振る舞われる。    アーモンドや香辛料の効いた酸っぱい出汁の掛かったもので、裕福な商家の経済力を見せつけられた気がした。    ヴァルクロス家ではこのようなものを口にしたことがない。せいぜい魚なら塩漬けや燻製を調理したもの。他に出てくるのもお馴染みのベーコンにチーズやハムといった程度だ。    そうだ、ルエルグに残してきた父母は今頃どうしているのだろうか。自分が逃げ出した時には不在だった兄はトゥールーズから戻ったのだろうか。       「これからは(クワ)をたくさん植えることです。ルイ王もそのために用意を重ねていると聞き及んでますな、私ももうそのために出資を始めている。強欲なフィレンツェ人どもがいつまでも金儲けできると思ったら大間違いだ」    ギローは甘い白ワインをたくさん飲んで上機嫌だ。     「フランドルやアングルテールは、オクシタニアから輸出した絹をどっさりと買ってくれることでしょうな」   「なるほど、それで以前ベルナトを医者にしようとモンペリエの大学にやると言ってたのですね」    ジョアンはサケに舌鼓を打つ。桃色の身が指に付くと、ぺろりとそれを舐めとった。     「やめてください、あなた。ベルナトはまだそんな歳でもありませんし、モンペリエの大学なんていくらかかると思ってるんですか。今はまだなにも分かりませんよ」    ギローの妻――三十路で恰幅が良いご婦人は夫の提案に呆れながらそう言った。      やがてギローの子どもたちが自室に帰されても、酒席は深夜にまで及んだ。アルナウトは途中からだんだんと記憶が薄れ、気がつくと下男に支えられて客用の寝室のベッドに横たえられていた。       …… ………… ………………      春とはいえ夜が明けるにはまだだいぶ時間があるようだった。    強い白ワインを飲みすぎて、アルナウトは用を足すために目を覚ました。便所を出てからいつの間にか彼は広い邸で迷っていた。似たような部屋が多く、酔いがさめきってないせいもあってどうやら同じところを回っているのかもしれなかった。        微かに暖炉の火から光が漏れている部屋がある。    ギロー本人なのか使用人のものなのかは分からなかった。ここで元の部屋へと戻る方法を聞けば良いのだ。      扉は微かに開いており、その上枠に金属でできた何かが埋め込まれていた。      アルナウトはそこへ立ち入ろうと覗き込む。

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