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第3話

第3話  取引 「落ち着いたか」  二度目の問いかけで、ヨシュアはもぞもぞと動き出した。手が緩まないから抜け出せない。 「⋯⋯立ちたいです。離してもらえますか」 「逃げないと約束するか」 「しませんよ」  立ちやすいように背を支えられると、ヨシュアは立ち上がって、素早く扉の近くまで移動した。 「⋯⋯⋯おい」 「言い訳なら!ここで聞きます」  扉を背に肩を怒らせるヨシュアに、面倒そうに腰に手をあてた。 「なんでそう⋯⋯、ギル、いるか」  扉が音もなく空いて、帯剣した黒髪の青年が入ってきた。 「なんでしょうか」 「そいつを執務室に連れていけ」 「な⋯⋯っ」  青年は逃げ腰のヨシュアを見ると、軽く頭を下げた。 「ヨシュア様、私はベータですから、ご安心を」  距離を保ったまま、静かに話しかけてくる。 「驚かれたかと思いますが、主人は分別はわきまえておられます。お話があるとのこと。私が執務室までご案内します」  分別をわきまえていたら、あんな暴挙はしないだろと噛みつきたくなったが、穏やかで礼儀正しい青年の眼差しに、逆立った気持ちが少し落ち着いてくる。 「⋯⋯近くにいてもらえますか」 「はい。何かあればすぐに対処いたします」  よく聞けばどうとでもとれる曖昧な言葉なのだが、誠実な人柄は伝わってくる。  ヨシュアは促されるまま、しぶしぶ執務室の長椅子に座り、テーブルを挟んで腰掛けたアレスを睨みつけた。 「それで。一体なんなんですか。本当に噛まれるかと。歯を立てましたよね。歯を!」 「貴方がアルファをわかっていないからだ」 アレスは足を組んだまま、面倒そうに答えた。 「口があるのになんで口で説明しないんですか」 「口で言ってわかるわけ⋯⋯」 「アレス様。時間も遅いですし、お話のほうを」  控えていた青年が、時間を理由にして、二人に割って入った。いい仕事をしている。 アレスは、大きくため息をついた。 「そうだな。こんなことを言いたいんじゃない。これは貴方への提案だ」  アレスは、話をきり出すために、身を起こした。ヨシュアは、さりげなく体を長椅子の隅に移動させる。 「⋯⋯」 「どうぞ、続けてください」  アレスは物言いたげにヨシュアを見たが、頭を切り替えたのか無表情に戻った。 「⋯⋯ここでは新入生それぞれに上級生から指導生が選ばれると聞いた」 「その通りです。私も昨年は指導生になり、新入生のサポートをしました」 「俺はまだこの学院のことがわからない。ついては指導の経験もある貴方に、私の指導生になっていただきたい」  ヨシュアは、首をひねった。 「貴方が在籍するのは一年にも満たない。しかも試験のみの出席。必要を感じません」 「否定はしない」 「では、何故」  アレスは身を乗り出した。 「俺はグレンヴィル家の養子だ。中央の上位貴族には評判が悪い」 「⋯⋯そうかもしれませんね」 「今、領主から学位の取得以上の成果を求められていて、その為のつてを探している。だが俺だけではあいつらの中に入るのは難しい。その点貴方は、彼らから『受け』がいい。安全なベータとして」  ヨシュアは、受けが良いというアレスの言葉にひっかかりを感じた。 「目に入らないと言ったほうが正しい気がします」 「謙遜は不要だ。宰相家の息子は、貴方に目をかけている」 「⋯⋯はあ。あの方は至るところに、声をかけてらっしゃいます」 「アルファに個人的な付き合いを申し込まれたことも、一度や二度ではないだろう」 「よくご存じですね。まあ、そのようなことが盛んな学院ですから」  アレスの額に筋が浮かんだ。 ヨシュアは反射的にビクリとした。 「アレス様」  すかさず青年がアレスをたしなめた。  神だ。グレンヴィルを制する神がいる。  一言で猛獣を沈めた青年に、ヨシュアは尊敬の念を抱いた。 「ならば、これは同意できるか。アルファは、ベータがどれほど優秀でも競争相手とは思わない。劣っているからじゃない。自分と同じ、相手を平気で食い殺す獣と思っていないからだ」  ヨシュアは体をこわばらせた。  目の前のアルファは、自分が獰猛な獣だと言っている。否定はできない。 怖いと、本能で感じるからだ。 「だから、同類ではない安全な貴方を欲しがる。俺は貴方という餌をぶら下げて魚を取りたいんだ」 「私が餌?」 「役回りとしては」  つまり自分は単なる餌で、目的は中央の貴族ということだ。 「こんな餌で魚が釣れるのですか?」 「十分だ。無論、俺が貴方の盾になろう。俺自身も貴方に無体なことはしないと約束する」  さっき無体なことをしたばかりだぞ。  真剣に盾宣言をする男に、さっきの暴挙は、本当に無体を働くつもりではなかったとわかる。  ヨシュアは腕を組んで考えた。それは、悪くない話だった。さっきのような怖い思いは二度としたくない。 「対価は、グレンヴィルの庇護。貴方は自領の執政官を目指しているな」  驚きはしないが、貴族院で誰にも話していないのに、よく調べたものだ。 「今の執政官はあなたの外戚のアルファで、お父上とたびたび衝突している。貴方は領地に戻れば、彼以上の役職に就くだろうが、お飾りにされる可能性が高い。それはわかっているか」  ヨシュアは毛が逆立つような気味悪さを感じた。養子の立場でしかないのに、他領にいながらそこまで調べられる諜報部隊を持っているのだ。どこまで調べられているのかと思うと恐ろしくなる。  だが領地に戻った時、仕事を回してもらえない可能性は、ヨシュアの最大の懸念事項だった。自分を待っているのは、叔父との権力闘争になる。  それすら、この男は把握している。 「わかっています。負けるつもりはありません」  勝たなければ、異母弟も自分も叔父にいいように利用される。無理を通して貴族院に入ったのは、自領で侮られない為だ。 「本気でそう思うなら、俺を利用しろ」  ヨシュアは、唾を飲み込んだ。  グレンヴィルがつけば、外戚にも他領にも排斥されることはない。  そんな餌をつり下げられたら、自分は掴むしかない。選択肢は、はじめから無い。 「俺も後継者争いに勝つために、この先貴方が必要になる。これは、取引だ」 「⋯⋯卒業後も、私についてくださると?」 「ああ」  取引。かなり重い。  受ければヨシュアは、グレンヴィル家の養子になった男の側につくことになる。だが、こんな対価をくれるのはこの男以外にはいない。信用はできないが、得難い、強力な後ろ盾だ。 「お受けします。⋯⋯グレンヴィル殿」  アレスはつまらなそうな顔で、ヨシュアに言い返した。 「そこは、アレスと呼んでくれ。指導生殿」  急に同じ学生のように、ふてくされたアレスに、ヨシュアは戸惑った。 「あ、アレス?」  アレスの灰青色の瞳が見開かれる。嬉しそうな、満たされた表情に、ヨシュアのほうが、驚いてしまう。 「それでいい、ヨシュア」 アレスは、音を噛み締めるようにヨシュアを呼び、手を差し出した。 「⋯⋯言っておくが、役に立たない場合は、それまでだからな」  視線をそらし、照れ隠しのようにつけ足された言葉に、ヨシュアはあきれた。 「そこは餌じゃなくて、釣り人の腕次第ですよ」  ヨシュアが少し緊張しながら手を出すと、ゆっくりと大きな手が、ヨシュアの手を握りこんだ。手のひらが固く、闘いを知っている手だ。ふとどうやって生活していたのだろうと思う。  まあ、近づきすぎていいことは何もない。 ヨシュアはアレスを見ながら、いつものように、穏やかに笑みを浮かべた。

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