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第8話
第8話 日常
翌朝ヨシュアが目を覚ましたとき、アレスは寮を既に出たあとだった。
ギルに礼を伝えてもらうことにして、ヨシュアはその日の講義に出た。
卒業まで一年を切り、仕事を兼務する者が増え、教室はやや閑散としていた。
日の当たる静かなテラスで本を読みながら昼食を取り、午後から体術と戦術の講義にでる。実地訓練ができなくても、出来る限りのことを吸収したくて、必要単位以上のものを詰め込んでいた。
晩餐会の華やかな喧騒は、別世界の出来事のように遠くなっていく。
寮の自室は狭い。
飾り気のない石壁、質素な木の寝台、机の上に積まれた講義の資料。
ヨシュアは上着を椅子の背に掛け、窓枠に肘をついて夜の中庭を見下ろした。
夕暮れ時、松明の火が石畳を揺れる橙色に染めている。風が出てきたらしく、中庭の細い木々がさわさわと音を立てて揺れていた。
「⋯⋯⋯⋯ギルさん、そこで立ち続けるつもりですか」
真下に見える黒髪に声をかけた。顔が上を向き、困ったような表情を見せた。
「検問しているみたいで、中に入る人が驚いてしまいます。上に、上がってきてもらえますか」
助かった、みたいな安堵した表情を見せるので、ヨシュアは思わず微笑んだ。
「⋯⋯失礼します」
「こちらに座ってくださいね」
立ったままで姿勢を崩そうともしないので、ヨシュアは食事に使っている木の椅子を勧めた。
落ち着かないのか、ぎこちなくきょろきょろと室内を見回し、目が合うときまり悪そうに頭を垂れる。
ヨシュアは沸かしておいた茶に、寮の庭園で摘んだ食用花の花びらを浮かべ、青年の前に差し出した。
「昨晩はありがとうございました」
「いえ、アレス様の命ですから」
「それでも、貴方がいてくれたから安心して席につけました」
「その⋯⋯はい」
「ふふ」
ヨシュアの予備の丸椅子に腰掛け、自分で入れた紅茶に口をつけた。
「ヨシュア様、体はもう大丈夫ですか?」
「はい、いつも以上にすっきりと目覚めて、体が軽く感じたくらいです。さすが、良いマットレスを使われてるんですね」
「そうですね。アレス様は無頓着ですが、寝台だけは良いものを使っていますから。よくなられたなら何よりです」
ヨシュアの表情が固まった。
「あ、アレス殿の?なんですって」
「はい。寝台です」
ヨシュアの顔からだらだらと目に見えない脂汗が流れた。
「あの寝台は、予備のものとばかり。道理で立派な⋯⋯⋯⋯あ、アレス殿はどちらで休まれたのですか?」
「ヨシュア殿のご容態を心配されて、しばらくは横に座っていました」
ヨシュアの顔から血の気が引いた。
「私はなんということを⋯⋯!申し訳ありません!寝台を占領したうえ、部屋の主が部屋を出たあとも惰眠を貪っているなんて⋯⋯⋯⋯っ」
「お気になさらず。アレス様が決めたことですから、体調が悪かったのですから不可抗力でしょう。」
「し、しかし⋯⋯⋯⋯しかし私は⋯⋯⋯⋯っ」
ヨシュアは目が覚めたときのことを思い出して、青くなった。
本当に気持ちよかったのだ。温かくて、不思議と安らぐ香りに包まれてシーツに顔を擦り付けた。それだけでなく、体がもやもやと温かくなり、ここしばらく遠ざかっていた、朝の昂りが生じてしまったのだ。
他人の寝台で。
しかもよりによってアレスの寝台で。
「取り返しが、つかない⋯⋯っ!」
頭を抱え、ほとんど泣きそうなヨシュアに、ギルは困ったように切り出した。
「アレス様は、ヨシュア様のことを心配しておいでです。彼の指示でもありますが、しばらく私をヨシュア様の従者として近くに置いていただけますか」
ヨシュアは、ギルを見あげた。
「ギルさんのように立派な方を、私の従者になどできませんよ」
ギルは花びらを浮かべた茶をみながら、自嘲するような笑みを浮かべた。
「立派ではないので、問題ありません。アレス様は、貴方にはこれから護衛が必要になると。私も、アレス様と同意見です」
ギルは姿勢を正し、まっすぐにヨシュアを見た。
「カスティールはこれから大きく変わるでしょう。あの方は動けば、早いです」
「そうで、しょうね」
「状況も、恐らくヨシュア様の想定より早く変わるかと」
近くにいる者の重い言葉だった。
それはヨシュアも昨晩思い知らされた体感だった。あの一夜で、アレスは半年かかる根回しを一晩でやった。あの男の頭の中では、すでに次の一手も、その次も並んでいるかもしれない。
(問題は、その速度だ)
カスティール領は、父が領民と肩を並べて荒地を耕してきた土地だ。水が足りなければ皆で井戸を掘り、冬が厳しければ薪を分け合う。
こつこつと広げてきた農地に、これからは旨みを嗅ぎつけた貴族や商人が来る。グレンヴィルの補給路という看板が掛かった瞬間、カスティールは静かな辺境の小領地ではなくなる。
アレスは「守る」と言ったが、守りきれるものではない。
父が、エリクが、領民がその矢面に立つことになる。アレスの進める速度より、早く手を打たなければならない。
自分に、できるだろうか。
「そうですね」
ヨシュアはランプに火を灯した。
ほわりと熱を伴って、机の上が明るくなる。
自分を守ってくれる人がいるのは有難い。
それにギルからアレスの情報が入る。
「護衛の件、お願いしたいと思います」
「はい、おまかせを」
「あの、それとお願いしたいことがあります」
「なんでしょう」
「剣術を少し教えてもらえませんか。実をいうとアレス殿にご享受いただきたいのですが、お忙しいでしょうし⋯⋯相手にならない気もします。せめて、背中を預けている方の剣を、学びたいのです」
ギルがわずかに目を見開いたのが、気配でわかった。
「アレス様に比べれば、私は力不足です」
「では私に負けると?私もそれなりに鍛えてきましたから、勝ってしまうかも」
「ヨシュア様に負けるとは⋯⋯いえ、引き受けます」
この人けっこう押しに弱い。そんなことを考えながらヨシュアはニコリと笑って手を差し出した。
「⋯⋯ヨシュア様は見かけによらず、その、アレス様に似ているところがありますね」
「それは困りましたね。あの人のようにギルさんを振り回すかもしれません」
どちらからともなく、小さな笑いが漏れた。
窓の外は宵闇が深くなり、ちいさな星々が瞬きはじめた。
人がいるのは、温かい。ヨシュアは小さな幸せを噛み締めた。
(⋯⋯エリクは元気にしているかな)
ヨシュアは窓際に向かい、格子窓を閉めようと手を伸ばした。
アレスの寝台での失態は赤面ものだけれど、さんざん自分を振り回してきたアレスへの代償にしておくことにした。怒りに身を震わせるアレスを想像しながら、空を眺める。
⋯⋯先のこと、考えたくないな。
下から吹き上げる夜風は、思いのほか冷たかった。
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