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第10話

第10話 近づく距離  図書室の閉館を告げる鐘が、廊下に低く響いた。  ヨシュアは書架に資料を戻し、鞄を肩にかけて扉へと向かった。高窓から差し込む西日は、壁にはめ込まれたレリーフを赤く染めている。自分の足音さえ絨毯に沈みこむ、静謐な時間帯だ。  扉を押し、廊下に出たヨシュアは足を止めた。そこに待っているはずのギルの姿はなく、代わりに壁に背を預けた長身の人影があった。 「……アレス?」  シャツにズボンというラフな姿で腕を組んだまま、アレスが視線をこちらへ寄越した。 「ギルはどうしたんですか」 「あいつは所用があるから、今日は俺が送る」 ヨシュアは首を少し傾げた。 「何か、あったのですか」 「俺が息抜きがしたいんだ。歩くぞ」  短くそれだけ言うと、アレスは返事も待たずに歩き出した。ヨシュアは戸惑いながらも、その背を追った。  いつもの帰路とは違う、寮棟の裏手に広がる庭園へと足を踏み入れる。夕刻を過ぎたこの場所に人影はなく、風に揺れる葉音だけが耳に入ってくる。手入れされた低木の列の向こうには、藍色に溶け始めた空が広がっていた。 「体の具合はどうだ」  前を向いたまま、アレスが不意に聞いた。 「問題ありません。少し疲れが溜まっていたようで……ご迷惑をおかけしました」  言いながら、あまりに気持ち良かった寝台とアレスの残り香が蘇った。 「謝るな。迷惑だとは思っていない。⋯⋯何故、顔が赤い」  振り返ったアレスが訝しげに眉を寄せたので、ヨシュアは慌てて首を振った。アレスの寝台でやらかしたことは、絶対に悟られてはならない。 「ご、ご迷惑をかけたのが恥ずかしくて?⋯⋯お話があるのでしたら、そこの庭屋でお伺いしますよ!?」  木々の間に佇む八角形の屋根のついた小さな庭屋を指さしながら、顔も反らした。  アレスが疑いの目を向けながらも首肯したので、ヨシュアは先に歩きながら火照りを鎮めるために、片頬を指でグリグリと引っ張った。  夜風が、ヨシュアの柔らかな金髪を揺らし、火照ったほおを冷やしてゆく。東から登り始めた月に照らされた庭は、薄く長い影を西へと伸ばし、ほのかに明るい。ヨシュアは白い石造りのベンチに座るようアレスを誘い、少し離れて自分も腰を下ろした。  アレスはヨシュアの顔を見て、眉をひそめた。 「⋯⋯頬が腫れていないか?」 「気のせいでしょう」 ほおに手を当て隠すヨシュアを見ながら、アレスは言葉を選ぶようにゆっくりと尋ねた。 「その、あの夜貴方はだいぶ無理をしていただろう。⋯⋯今後のことで懸念事項があれば、聞いておきたい」 「懸念⋯⋯?」 「ああ」  どうやら、談話室で倒れたのを気にしているみたいだった。  たしかにいきなり倒れたとしたら、驚くだろう。アルファ二人の圧が決定打だったが、原因は振り返ると、自分が衝撃を受けたことのような気もする。  不安に襲われたのは、中央やアレスとの今後の関わりだ。アルファが少ない領地に戻れば、薬の服用をやめるつもりでいたが、領地改革で彼らと頻繁な交流が続けば、やめられなくなる。  特にアレスには、自分がオメガだとばれたくない。  きり、と心臓が痛んだ。 「ヨシュア⋯⋯貴方にはとても助けられている。貴方が考えている以上に」  言いにくそうに、視線を横に向けるアレスに、この心遣いは本心だと感じる。  ここまで時間を割いてくれるのも、本当に心配してくれているからだろう。 「アレスはこんなことをしている場合じゃないのに、お人好しですね」  嬉しくて言ったのに、アレスは深刻な顔を崩さない。 「お前が危なっかしすぎるからだ」 「少し体調が悪かったくらいで、大げさですよ」 「本当に、体調だけか」 「それ以外に何が?」  オメガだとばれたらこの関係は壊れてしまうのだから、言えるわけがない。アレスとの今の関係は失いたくない。  アレスは、言葉を続けようとしないヨシュアに黙り込み、代わりにヨシュアの頬に手を伸ばした。温かい指がゆっくりと髪を掻き分け、白い項を撫でた。甘い吐息が出そうな熱がのぼりはじめる。ひんやりとした夜風に、その指が自分を触るのが心地よすぎた。  自分がここまで接近を許してしまったアルファはこの男だけだった。  上背のあるしっかりした体躯に、人目を引く端正な顔。白い光を受けてはっきりとした陰影をともなって、目の奥に入り込んでくる。  こんなところで、自分にかまっている余裕などないはずなのに、もっと見ていたいと思ってしまう。 「お前が俺を信用できないのはわかっている。だが、力になりたい。覚えておいてくれ」 顔の横で、離れていく手を目で追いながら、この男を失うことが可能だろうかと、自問した。 「お気遣い、有難うございます」  こんなにも自分を気にかけてくれるのが嬉しい。  静かに流れる時間は貴族院特有の、外から隔絶した学びの場所だからなのだろう。  街の喧騒も無く、戦いも遠い。  ⋯⋯貴族院に来たことは間違っていない。  辺り一面の木々が影をつくり幻想的な世界を作り出す中、ヨシュアは気づけば笑みを浮かべていた。  こうしてそばにいられるように、ばれないように、最善を尽くせばいいだけだ。これまでと同じように。  アレスは黙ったまま困った顔をしているが、それすら愛おしい。  愛しくて手放せないものがまたひとつ増えた。この時間は自分だけのもの。  ヨシュアは自分から手を伸ばし、思わずアレスの髪をクシャリと撫でた。目を見開くアレスは手を払うこともせず、ヨシュアの好きにさせてくれた。撫でられるまま髪がクシャクシャになる。アレスは、本当に自分に甘い。  ヨシュアは、偶然に出会えたことの幸運に感謝した。

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